中国歴史紀行   (35)
             杜甫草堂

成都市の西郊、浣花渓(17路バス草堂寺下)にある。杜甫草堂は武候祠と共に全国重点文物保護単位に指定されている。唐代の大詩人杜甫(712−770)が、45歳の時、安禄山が長安を陥し、杜甫も捕らわれて幽閉されたことがある。のち脱出して逃れた。

唐が長安を回復したあと、759年、飢饉のために官を棄てて彼は食を求めて放浪する。その年の12月に、彼は蜀道の険を越えて四川に入った。杜甫は48歳から51歳まで、約四年間住み、その間に240首余りの詩をつくった、それが此の杜甫草堂である。


              


北宋の元豊年間(1078−1085)に茅屋を再建し祠を設け、元〜清代に改修を重ね、明の弘治13年と清の嘉慶16年の改修により現在の規模となった。中心は大廨・詩史堂・柴門・工部祠が順に並ぶ。詩史堂の左右に陳列室があるが此処の仔細な地図が無いのが不思議であった。

回廊によって大廨と連なり精密な配置は独特の風格を感じさせる。清貧であった詩聖・杜甫を記念するにふさわしくいかにも慎ましく、素朴な感じがする。建造物それぞれ簡素な作りである。

園内各所には奇岩が配置され、梅・竹・椿の木が鬱蒼と茂る小庭園がある。全体には渓流と小橋が交錯し、詩情画意を一段と盛り上げてくれる。暫し幽玄な世界に浸らしてくれる配置が嬉しい全体で20ヘクタールもある広大な一大庭園。とりわけ賑あうのが旧暦正月7日、いわゆる人日。観梅と慰霊に訪れる人があとをたたないと言う。

草堂時代にかずかずの名作を生み出している。「蜀相」「江村」「絶句漫興九首」「野老」などなど

         野 老

野老籬辺江岸廻     野老の籬辺 江岸廻る
柴門不正遂江開     柴門 正しからず江を遂て開く
漁人網集澄潭下     漁人の網は集まる澄潭の下
估客船随返照来     估客の船は返照に随って来たる
長路関心悲剣閣     長路 関心 剣閣を悲しむ
片雲何事傍琴臺     片雲 何事ぞ琴臺に傍う
王師未報収東郡     王師 未だ報ぜず東郡を収むるを
城闕秋生画角哀     城闕 秋生じて画角哀し

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自分の家の籬のほとりでは錦江の岸が曲がっている
だから柴の門も曲がった江の形のままに折れ曲がって開かれている
みれば魚を捕る人々の網は澄潭のところに集っている
流れを下って来る商人の船も夕日の照り返しと共に泊るべくやってくる

故郷まで道路の遠いことは気掛かりで剣閣に隔たれていることは実に悲しい
琴臺の方を見ると一片の雲がよりそうている、なんでそんな処に寄り添うているのか
(その心持が解からぬ。なぜ自分もその雲のように、こんな土地に来ているのか)
官軍が東方の諸郡を通ったと言う知らせは未だない
ただここの城の門闕には早くも秋が生じて軍隊の吹きならす角笛の音が哀れに聞こえる

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草堂には三万餘冊の文献があり、宋・元・明・清にかけての杜甫に関するさまざまな著作が揃っている。なかには稀覯本・孤本なども少なくない。草堂在住時代の作詩は240餘首で、現存する杜甫の全作品の六分の一にあたると伝える。



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