中国歴史紀行  {37}

 青龍寺遺址

西安市の東南郊、大雁塔の東北約4kmの鉄炉廟村にある。
 唐の長安城の新昌坊の東南隅にあたる入り口で「青龍寺遺址簡介」を購入。 日本語の上手な小姐「西安外語学院・日本語科」3年級が日本語学習を兼ねて説明して歩く。同行のMさん。西安交通大学日本語科の小姐と共に素晴らしいにガイドぶり驚く。彼女の説明が終って振り向くと、木陰の石畳に座り、、日本語テキストを開き学習に余念が無い。

隋の開皇2年「582年」の建立。霊感寺といったが、唐の景雲2年「711年」に青龍寺と改称した。

唐の会昌五年全国的に排佛運動が起こり、その際、青龍寺も廃棄され、皇家の内苑になった。その翌年の五月再び寺院として復活し、護国寺と名付けられた。北宋まで存続していたが、北宋の元祐元年{1086}以后、次第に荒廃し、遂に廃墟となって地上から消えてしまった。

1982年西安人民政府は遺跡に管理所を設置し二回にわたる発掘調査により、その建築遺跡は七ケ所有ることが判明した。そして門の跡、塔の跡、殿堂、廊廡などの遺跡が発見され、蓮華文様の瓦当 三彩仏像の残片、鴟尾の残片、筒瓦、金塗の仏像、経幢などの文物が出土した。

平安時代、入唐した8人の僧{入唐八家}のうち6人まで「道世・道氤・法朗・釈光儀・曇壁・義操」がこの寺で密教の教えを受けた。空海・円行・円仁・円珍・彗遠・円載・宗睿など日本の僧が法を求めて修業した。その中にはとりわけ密教阿闍梨嗣を受け継いだ空海は業績抜群だった言う。

唐様式の門庁が建てられた壁面十数面には<150cm130p>の画石が嵌め込まれている。



                   

804年、遣唐使として長安を訪れた空海は初めに西明寺に住む、後、青龍寺の恵果大師に師事して密教を学んだ。806年、帰国して日本で、真言宗を創立し<東密>を確立したことで有名であり、日本”東密”の大師と呼ばれている。

空海は佛教の布教と同時に、中国の文学、書道、天文、医学などの知識を日本に伝え、日中両国の文化交流の為に大きな貢献をした。

この場所は曽ては行楽の地として名高かった『樂遊原』であったことが実証されて石碑が建てられ、眼下一望、市内を眺めることが出来る。日本から一人で来たと言う20歳代の女の子がスケッチに余念がない。帰路平安を祈り別れる。


                       

         空海記念碑                   樂遊原の記念碑

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  樂遊原          李商隠 (812−858年)
向 晩 意 不 適。     晩に向んとして意 適わず
駆 車 登 古 原。     車を駆りて古原に登る
夕 陽 無 限 好。     夕陽 無限に好し
只 是 近 黄 昏。     只だ是れ 黄昏に近し

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日暮れに近づくにつれて私の心は何故となく苛立つ。
馬車を命じて郊外に出て西の方、楽遊原に登ってみた。
陵があちこちにある歴史古き高原は今しも夕焼けに染まり、落日は言い知れぬ光に輝ている。
その美しさは夕闇に迫る短い時間の輝きに過ぎない、やがて黄昏の薄闇へと近づいてゆく。
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李商隠が生きた時代、唐王朝が疲弊して崩壊への道をたどり始めたころであった。李商隠の詩は難解であり、彼の詩は晦渋を極め、その真意を極めるのは容易ではない。李商隠は唐王朝が崩壊してゆくのを彼独特の感覚で感じていたのだろうか? 想念しながら『樂遊原』に立って眺望した。 


2001/09/06 


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