中国歴史紀行    (43)

 秦襄王陵

西安動物園の西側、韓森路(714路線)から北に入る。以前は「韓森寨」周りが畑であったと言う。大雁塔から動物園裏までタクシーで18元。下車して”秦襄王墓”を地元の5人に訊ねるが知らないと言う。露店の老人に聞く、訛りのある言葉でやっと聞きとれる。探すこと約1時間。

露店の古老の言う通りに裏通りを歩くと一人の青年に出逢う、事情を話すと荘襄王陵の麓が自宅なので途中まで案内をしてくれると言う。大通りから一歩、荘襄王陵に入ると、リヤカーに積んだ行商人が十数台車。なんとも形容し難い悪臭、人相の好くない男達が一斉に、よそ者を排除する視線に一瞬緊張する。
           
                  
                      陵の遠望 (1)


案内をしてくれた青年と途中で別れる。高さ約30mの陵墓が現われた。(1) 一瞬、大変な処に来たナと感じた。陵墓の前景には四本の棒で簡易の天井代わりに布があるだけ。陵墓をズラリと囲んでいる。その数、数百。”盲流の集落”だと直感した。人影は無い。一瞬、素肌に寒気を感じた。。時計を見て現在午後2時半と確認する、皆出稼ぎに出掛けている、ゴミと悪臭の中、陵墓に向う。

秦の荘襄王の陵である。戦国、秦の孝文王の中子。名は子楚。趙の人質になっていたのを豪商呂不韋に救出され、帰国して王位につく。東周の君、諸侯と秦を謀るや、呂不韋を遣わし東周の君を誅させ、尽くその国を取る。在位四年。

荘襄王の子の1人が、のちの始皇帝であるが、実は始皇帝は、呂不韋が荘襄王に妃として献上する前に女に妊ませた子であった、と司馬遷は(史記・五)に記している。


                            
            
                                   秦の荘襄王の陵 (2)

頂上に攀じ登る、と形容する表現が正しい位の急な道無き道を進む。頂上には散策に来ている人が5,6名。頂上中心にここを示す標識が埋め込んでいた。地元の若者が話しかけて来た。。「何処から来た?」定番の質問だ。氣が許せない所では、定番の「南方地方から」。タクシー乗車の際は「台湾から」。

眼下の眺望が素晴らしい。彼は親切に東西南北の建物を説明してくれる。小雨模様になり皆な一斉に帰り仕度だ、慌てて皆なと一緒に下山する。突然、大きな野良犬が5,6匹「盲流の集落」でタムロしていたのが、吠えまくって来た。元、来た道では無く、かなり良い道があった。一人で下山しなかったのが幸いした。元、来た道では無く、かなり良い道があった。

バスが着た、財布から20元出し用意をする「そんな大きな銭で乗れるもんですか」順番待ちの老婦が注意する。タクシーとバスの料金を混同してる自分が可笑しい。慌てて対向車を避けて前の商店でミネラルウォーターを買い小銭に替える。

バスは出てゆく小雨は残る。20分待ち、今日の「秦の荘襄王の陵」の周りの風景に、些かショックを受け、精神状態も尋常でない。早々に宿舎に引き上げる。1元(\15ー)の重要さを思い知らされた。以来ポケットにはいつも、小銭を用意して歩く。


                                                    2007/09/09 



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