中国歴史紀行   (55)

 楊貴妃墓
楊貴妃墓は興平県の馬嵬坡にある。西安から西に約60km、宝鶏市に至る幹線道路の側。高い所に白い壁に囲まれ「唐楊氏貴之妃」と書かれていた。

階段を上り門の中は庭になっている。(1)回廊を廻ると。奥に庭があり、左には古代の古銭の展示場、裏を廻ってその中央に”楊貴妃之墓”があった。高さ3m・周囲10m。全体をレンガで覆った一見、蒙古のパオ風の変わった墳墓である
                      
                    


同行の小姚の説明に拠ると、1965年から10年間に及ぶ文化大革命中には一片の残骸も残らいほど徹底的に破壊されたと言う。1981年以来、数年かけて修復された。           

(2)(3)上半分破壊されている現代式の白い磚、が気にかかる。説明を聞とく、「楊貴妃に肖ろうと、美女願望の女たちが削って持ち帰る、その為、このような姿になった」と言う。何処の国でも美女にあこがれる女の気持ちは同じなのだ、と一同変なところでガッテン!ガッテン!

                      


       一騎紅塵妃子笑   一騎の紅塵 妃子笑う
       無人知是茘枝來   人の知る是れ茘枝の來たる無し

楊貴妃の「茘枝」好きは有名であった。南方地方から冷凍早や馬車で取り寄せていたと言う。

階段をさらに上ると左に最近造作された建物がある。3つの部屋に仕切られている。1つの部屋に20面ずつ1,5×1,5m全画面60場面。『玄宗皇帝と楊貴妃』のラブロマンスが描かれいる白楽天の『長恨歌』を描いたものだ。全画面60場面。楊貴妃の湯浴み姿。肥満が誇張され思わず吹き出す。安禄山の鬚図らが如何にも悪者として描かれている。

李商隱(812-858年)は『馬嵬』と題し悲劇を批判的な詠史詩として七言律詩を残している。
海外徒聞更九州。  海外に徒らに聞く更に九州ありと
他生未卜此生休。  他生は未だ卜せず此の生は休む
空聞虎旅鳴宵柝。  空しく聞く 虎旅の宵柝を鳴らすを
無復鶏人報暁籌。  復た鶏人の暁籌を報ずる無し
此日六軍同駐馬。  此の日 六軍 同じく馬を駐め
当時七夕笑牽牛。  当時 七夕に牽牛を笑う
如何四紀為天子。  如何ぞ四紀 天子と為って
不及盧家有莫愁。  盧家の莫愁有るに及ばず

此の九州より更に大世界の外に神仙の世界が有ると玄宗は道教の修験者から聞かされた。次ぎの未来生の何処で生まれ変わり,何処で逢瀬を重ねるか解らぬうちに,この現実での人生は終りになった。あの,安禄山の乱で,都を捨ててこの馬嵬の地まで落ち延びた玄宗皇帝は兵士に追われて,来世を誓った楊貴妃を失い,王車守衛の鳴らす宵の拍子木も,聞く人も無く空ろに聞かねばならなかった。

此の日,天宝十五年六月十四日,近衛兵は禍の根は楊貴妃にあると,憤怒した兵士達は馬を駐め,楊貴妃がくびり殺されるまで,前に進まなかった。かつて七夕の宵,高楼に寄り添いつつ,玄宗と楊貴妃は,年一度にしかし織女に会えぬ牽牛の運命を笑い,世世夫婦となって共に住もうと誓いあったのだった。

四紀,凡そ五十年の年月の間,天子として君臨しながら,なぜか,洛陽の冨家,盧姓の者が「十五にして嫁し十六にして子を産んだ」と古い歌謡にも歌われる。目出度き,莫愁なる美女を迎え入れて過ごしたその幸福さに及ばないとは。

見学を終えて路上に出る、西安まで行く満員のマイクロバスに乗車。窓際に坐している2人の若い娘が席を譲り合う。西安に来て3度目の経験だ、中国では儒教の教えが未だ残っている。好意に甘えて座席につく。この小姐と暫らく雑談する。簡単な自己紹介が中国の会話の始まり彼女は少数民族で咸陽の大学生。専門は電悩算機2年級。遊ぶことは友達と「おしゃべり」と言う。回族と言う彼女は少時期から帰郷する今も必ず食事の用意は自分の日課だと言う。

咸陽に到着、帰り際に彼女から手を差し伸べられ握手を求められたのは以外だった。一時の乗客同士が名前を名乗り親しく会話をし楽しい間柄を保つのが、この国の習慣らしい。  


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