中国歴史紀行     (60)   乾 陵

西安の西北約80km、陜西省乾県の県城の北方6kmの梁山にある。数かずの石像に守られ、唐3代高宗、李治(在位649〜 683)と女帝武則天(在位690〜 705)の合葬墓。海抜1047mに位置して、広大な規模で、気迫がみなぎる。最も代表的な唐朝の陵墓。               

山沿いに築き、二重の周壁をめぐらし、四面に闕門と大型の石刻を置く。684年に高宗がここに葬られ、706年に武則天が合葬された。地下宮殿は盗掘に遇っていないと言う、未発掘である。曽は城壁で囲まれ東西南北に門があったが、今は南門に一対の華表がある。          

門外には一対の豪壮な石獅子がうずくまり、南側には、高宗の葬儀に出席した、諸蕃族の酋長と、外国の使者の石人61対が袍を着て拱手する姿で左右に林立するが、後世の破壊で頭部はすべて欠けている。一説では、清朝の時、旱魃がこの地を襲った。それはこれらの外国人タタリだとして村民が首を打ち落としたと伝説が残る。                            


          

南峰に向う参道の両側に、石人・石馬と馬丁・ダチョウ・天馬・八角柱の華表が相対する。    これらの石刻は、精悍で重厚・写実性があり唐代彫刻の迫力を十分に伝える。 


            


乾陵周辺には、高官やその近親者の墓が多く、なかでも則天武后の怒りに触れ、17歳の若さで没した悲運の少女、4代中宗の第七女、永泰公主の墓には、色鮮やかな女官の壁画が描かれている。永泰公主の壁画は、奈良の松塚壁画のモデルといわれている。              

                

                





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