中国歴史紀行>77>虎丘

  蘇州 虎 丘
蘇州と言えば虎丘・寒山寺。虎丘は蘇州市の西北5`山塘街にある。5路バス終点下車。虎丘は春秋時代の呉王闔閭の墓地で、あったと伝えられる。この丘は虎が、うずくまる形に見えるからだと言う説。一方、呉王闔閭葬儀3日目に、白虎が現れ塚の上にうずくまったので、虎丘と呼ばれるようになった、とも伝えられる。

山門をくぐって坂道を上った所に、砥石のように平かで一枚の大きな岩がある。千人石とも呼ばれ、梁時代、千人の人がこの岩に座して高僧の話を聴いたので名が由来している。

見どころは”塔”と”剣池”。 ”塔”は雲巌寺塔、俗に虎丘塔と言はれ観光客で賑わう。楼閣式に模した、八角七層。959年(五代の周)に着工。北宋の建隆2年(961)に完成。今迄、何度も(7−9回)火災に遭遇した。この古い磚(レンガ)塔は、高さ60b以上もあり、今、蘇州のシンボルのようになっている。先年、中国文物雑誌に以下のような記事を見つた。

1975年修塔時于二層中間発現一個石函、函内蔵経箱印有『辛酉歳建隆2年2月七日丙午入宝塔』建隆二年と言えば日本では「枕草子」また「源氏物語」が成り。神聖ローマ帝国成立頃にあたる。遠くから見れば、今にも倒れそうな斜塔。15度傾いていると言われている。

虎丘塔の下に池があり、自然石に彫られた『虎丘剣池』と朱書されている。書家として第一人者と言はれる唐代の「顔真卿」の筆によるもので、数多い中国磨崖の碑の中でも屈指  の作と言われ、 春秋時代の呉王闔閭の墓地であったと伝えられている。

墓について古書に「銅槨三重、水銀を傾けて池と為し、黄金珍玉を鳧雁と為る」。とある。呉王は剣が好みだったので、葬る時に専諸・魚腸など三千本の剣を副葬したと言う。この剣池は長方形で、深さ7mの泉水。両側に切り取ったような峭壁が聳えて、藤の蔦に覆われ深遠な雰囲気を漂わす。  秦の始皇帝と呉の孫権が巌を穿って剣を掘り出そうとした。

結果は共に剣は得られず、穿つた穴が池になったので”剣池”と命名したと伝えられ一部には宝剣を鍛える際、焼きを入れた所とも言はれ伝えられている。古来、呉は名剣によって知られている伍子胥が死を賜った時に贈られたのが『属鏤いの剣』。(しょくるい、の剣)伍子胥はしばしば呉王を諌めたが、きかれず、ついには「属鏤いの剣」の剣をたまわり、死んだ。

臨終の時、その子を戒めて、『わが首を南門にかけよ、越の兵の来るを見よう。わが屍をナマズ(〜゚・_・゚〜)の皮に包み江の中に投げ入れよ。朝に夕に潮に乗り来たり、呉の国の敗れるのを見よう』 と言った。これから、海門山から潮は高さ数百尺に押し寄せ、銭塘の漁浦を越えて、はじめて低くなった。朝、夕にふたたびやって来ては、その音は震え怒り、百余里にわたって雷が走り、稲妻が光り、そこで廟を建ててまつった。(広記)

王僚暗殺に用いたにが『魚腸の剣』。
ほかに『湛盧の剣』。(左思・呉都賦)呉鈎越棘、純鈎湛盧。(湛盧の剣)には蘇東坡の「虎丘寺」に詳しく述べられている。
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