中国歴史紀行>8>兵馬俑坑

   秦始皇帝兵馬俑叢葬坑


陜西省臨潼縣の始皇帝陵から東へ役1,5kmにある。兵馬俑坑は1974年に井戸掘りの作業中、偶然 無数の陶器や兵士・馬車が現れた。死後の始皇帝を安らかに永遠に守る為に製造されたものである中国の俑は、墓室の内外に服装品として置かれている。人俑は、元來生きた人間を殉葬いていたのが、社会の進歩にともない陶製の模型に変化したものと考えられている。

この博物館の1号坑はカマボコ型の屋根をつけて風雨を避ける。現在2・3号坑も確認後、発掘調査が続ずけられている。発掘現場をそのままの状態で見せてくれる珍しいタイプの博物館。

1号坑がもっとも大きく、東西230m。南北62m。深さ5m前後。等身大の武士俑と戦車を引く陶馬が6000体余り方形の陣形で並んでいた。想像していた以上の迫力で圧倒される。人馬ともに写実的で生彩がある。

一体ごとに顔の表情も異なる。始皇帝の中央集権国家がいかに強大且つ強力かを 示唆している。地下軍團は陵を背にして、東を向いている。前面には南北60m、幅3,45mの長廊があり、これを丁字型に接して200mの長さの地下壕が11本、東西に並んでいる。

陶俑のスカート(裙)の下、腕の下に文字がある。「宮彊」「咸令」「咸陽午」「得」「四」「五」「十」など。文字の多くは陰文。 (青銅器や印章などに文字を彫刻して、その文字が平面より低いもの。印章を押すと文字の部分が白くなる) の印記であるが、中には刀で刻したものがある。陶俑すべてが極彩色だったと言う。そう言えば、かすかに顔料の残っている部分がある。この坑には、はっきりと火災をこうむった後があった。

蓆や木柱は焼けていたのである。始皇帝の没後4年目(前206)、項羽が入関して、咸陽城を焼き陵を暴いたことは記録にある。陶俑は焼けこげて色彩がおちたが形はそのまま残り、二千二百年近く地下に埋もれて、現在のような茶褐色になった。

2号抗は4つの兵種の混成で陣容を形成し、3号抗は指揮官の立つ位置にある小抗。1979年に秦始皇兵馬俑博物館を開設した。86′から3度訪れているが86′中国朋友から”門外には絶体に近ずくな”の注意を聞かず、盲流の業者に取り囲まれ逃げ出せず一時騒然とした経験がある現在は直接、博物館内に車も乗り入れる、警備も安全。然し門外には出ないほうが良い。博物館の門を入ると、左右に展示室と売店がある。

               

             1980年出土実物の二分の一。銅馬車。

左側の展示室には陶俑、陶馬、戦車が陳列されている。又、瓦が人骨とともに発掘時そのままの状態で展示されている。右側の展示室には上の写真の銅馬車が展示されている。(1986,11)

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     兵馬俑 (2000,10)
9,00"交大北門で小韓と落ち合う。『兵馬俑』に行くことに決める。西安駅前の長距離バスセンターで兵馬俑行き306号車に乗車、道中は柘榴と高粱の連続畑が続く、柘榴はこの地の特産と言う高粱畑を見て「紅い高粱」の映画「鞏俐」(コン・リー)の演技の設定地を想い出していた。

『兵馬俑』は随分変化して規模も一段と広大となっている。右手の記念館内には「以前の農地の兵馬俑」跡が写真入で展示されていた。兵馬俑発見者の『揚さん』に会いたくて園内販売所を問うた。揚さんは官員に囲まれ写真集(150元)のサンイで疲れきっていた。毎日々々のサイン攻めで顔色も冴えない。今では臆万長者の揚爺さん、(彼は兵馬俑の発見記事録を出版し富の財産を得た。発見者は彼を含み農民4名と言う)今は幸せかどうか少し同情した。


                   

                       兵馬俑発掘前の寒村

                   


                                              

                      4号兵馬俑坑発掘現場


現在(2001/10)兵馬俑坑も年々改善され兵馬俑坑内の撮影も許可されて、現場ガイドも日・祭日には数十名が待機している。ガイド料40元。                (2001/10/28)

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1998年,米国クリントン大統領が兵馬俑坑を訪問した,発現者の楊志発老人にサインを求めた,老人は字が書けない,ブツブツ言いながら3個の○○○を書いた。クリントン大統領は驚いた。兵馬俑坑発見以来24年後,楊志発老人に重大な転機が訪れる。

西安政府上層部の指示で当地の有名な書道家に「自分の名前」を書く練習が何ヶ月も続き,以後,彼は兵馬俑博物館名誉館長に任命される。月給は最高で8000元人民元,70歳近い楊志発老人は,例え,毎月,10日館内に座して写真集にサインしていても5000元人民元は下らないと言う。
(中国語雑誌。東南西北,2003,5)

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秦始皇帝陵の鎧坑で初めて唯一一件出土した秦代の石製馬鎧は文化財考古関係者の分析研究の復元図により、完全な馬鎧として復元され、人々に秦代の馬鎧の全貌を見せてくれる。今回の秦代の馬鎧の出土は秦、及び先秦時代の中国馬鎧発展史に重要な価値がある。

 この秦代馬鎧の出土は秦陵鎧坑からで、出土した人用の鎧と比べ、馬鎧の形と鎧の一片がかなり大きく、その上形もばらばらである。この馬鎧が出土した時、大部分がすでに火を受け白灰質に変化しており、大体の構成が見て取れるだけだった。鎧は首鎧、胸当て、胴鎧、尻がいなどで構成されている。

 考古学関係者の話では、この馬鎧は残骸に成り果てていても、一体となってつながっていた。残されていた部分は約1.8mで、首鎧は縦方向には動けるつなぎ合わせで、横方向は固定されていた。一緒に出土した人用の鎧に見られる鎧下部や上腕のつなぎ合わせとおなじで、首鎧は少なくとも15列、各列5枚、合計75枚はくだらないと見ている。

 胸当て部分は首鎧と胴鎧に押し潰されて具体的な形がはっきりしないが、わずかな壊れていないいくつかの片を分析した結果、胴鎧と同様に固定したつなぎ合わせで、鎧片の形状は、上が狭く下が広がり、縦長の形をしていた。ただ、具体的な列数や鎧片の総数はわからず、大きさだけは長さ13.5cm、幅7cm、厚さ0.9cmとわかった。

 胴鎧は左右対象に2つの部分から構成され、各側のつなぎ合わせは一緒に出土した人用の鎧の上部、下部の構成と似ている。上部の鎧片は縦方向に6列、総数は46枚、下部は総数40枚、合計各側86枚、両側で172枚と推測される。

 尻は馬の臀部を覆う部分で、この部分の大半は押し潰され、具体的にはわからない。しかし、はっきりわかる部分のつなぎ合わせ方は、首鎧の動けるつなぎ方と似ている。鎧片の数は不明。現在までの研究で鎧片は300枚前後確認できている。

 考古学研究者はこのような馬鎧は馬のからだに掛けられていたと考えている。というのも首鎧と胴鎧の間に相互につなぎ会わされた後がないこと、そして首鎧と胴鎧の開きが馬全体を包み込むには遠すぎるからだ。

 考古学研究者は、馬の鎧はいつ頃からつけられたのか、今のところ不確かだという。ただ古文書の文献で知られていることでは、春秋時代に三頭だての馬車の馬の保護に鎧が付けらていた。考古資料も遅れて戦国時代早期にはすでに戦車と四頭だての馬の各種鎧が出土している。たとえば湖北省の隋県で、戦国早期の大墓(曽侯乙墓)で出土した戦車では、引く馬が使用した馬鎧が多数発見されている

しかしそれらの馬の保護装備は一枚のなめされた牛皮に限られている。三国・晋・南北朝の時代になって初めて普遍的に成熟した「馬鎧」が使用された。考古学者は秦陵出土のこの馬鎧は、たぶん皮製品の模造として作られたと見ている。なぜ鎧坑の中から馬鎧が出土し、秦始皇帝兵馬俑では馬鎧が見られないのか、今後の発掘と研究に期待したい。


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