空 嚢
乾元二年秦州同谷に居るときの作。

翠柏苦猶食。    翠柏 苦きも猶を食す
明霞高可餐。    明霞 高きも餐す可し
世人共鹵莽。    世人 共に鹵莽
吾道属艱難。    吾が道は 艱難に属す
不爨井晨凍。    爨せず 井 晨に凍り
無衣牀夜寒。    衣なく 牀夜寒し
嚢空恐羞澀。    嚢空しくして 恐くは羞澀せん
留得一銭看。    一銭を留め得て看る

詩語解
[翠柏] 翠りの樫木。此処では樫の実をいう。[列仙伝]赤松子という仙人は好んで柏実を食し,歯が落ちても食した。
[明霞] 朝の赤色の霞。仙人の食べ物。仙人に例えていう。
[鹵莽] (ろもう) 耕作の仕方のよいかげんなことをいうが,軽々しく心を用いることで,此処ではそれを人事についていう。
[吾道] 自己の理想とする道をいう。
[艱難] 世路の険難。
[爨] (サン) かしぐ,飯を作るためかまどに火をたくこと。
[嚢] さいふ。
[羞澀] (しゅうじゅう) 俗に人に対してはにかむこと。梁の武帝が羊欣の書を批評して,婢婦人となり挙止羞澀と言はれた語がある。
[看] みまもる


詩意
仙人は柏の実が苦くとも食べる。霞が空の高い所に有っても吸う。然し,人間世界ではそれを食べて生きては行けない。おこで世の中の多くの人は何も深く考えないで,自分一人富みさえすればよい,貴くなりさえすれば好いと,無節制で勝手放題なことをする。所以,吾道を守る信念をもつ者は困難に陥る。艱難に出あい,益々苦しむ,
炊くにも米が無く,着るにも衣も無い,井戸端は凍ってしまい,寝床は氷のように冷たい。身体も縮まっていまう様だ。然し,それどころでは無い,財布も空になると全く可哀想なものだ,私が,じーっと見ていると財布も恐らくハニカムであろう。

鹵莽解字
此の詩は杜甫が官を棄てて知己である阮ム・贊上人・姪佐の徒を頼り秦州に入り,西枝村に草堂を置く計画をしたが出来ない内に十月頃,同谷に赴き仮居したが,実に窮乏の極でトチやクリを拾い暮らした。と「同谷の七歌の中に詠じる。」で言う,
恐らく一生涯を通して最も悲惨で,失意のどん底の状態の時と想像する。然し此の間にあっても,其の感慨の情を諧謔の語を以って出し,自から嘲り自から解している所に詩人杜甫の胸地が見え,一種の滑稽味を感じる。然し,その意は悲痛の極みである。

此の題,【空嚢】は結聯中の一語を採って題にしている。空嚢とは極度の貧に安んずるの境地の意。首二句は感慨の語。柏の実も食える,霞も吸うことが出来る。一飯くらい食わぬでも好い,世の中の奴どもは意気地の無い奴共ばかりだ,裏面に覗える。杜甫の精神,此処に存す。

三四句は空嚢が故に苦しむ五六句で理由を説く。最後に諧謔の語を以て自から嘲りを解いている。
「看」の字は「看守」の看。意味は「番をさせる」の意味で,中國の俗語では食えないのもを嘲つて「昇仙」と言う。起聯は此の意味から着想して筆をとっている。

『趙一・詩』 [文籍雖満腹。不如一嚢銭。] 一讀一笑の価値有り。
『韓愈詩』 厳格の中に時に謔語を交えて人を笑わせる。
『蘇東坡詩』 折々,謔語を用いて腹を抱えさせる。
悲痛の中にも綽々として余裕を示す所に,哲人の真面目が見えて面白い。物質文明に陶酔している現代人は,此処の詩を如何に看るであろうか。


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