登岳陽楼 大暦三年冬暮の作。(杜甫57歳)近体詩。 昔聞洞庭水。 昔聞く洞庭の水 今上岳陽楼。 今上る岳陽楼 呉楚東南坼。 呉楚 東南に坼け 乾坤日夜浮。 乾坤 日夜に浮ぶ 親朋一字無。 親朋 一字無く 老病有孤舟。 老病 孤舟有り 戎馬関山北。 戎馬 関山の北 憑軒涕泗流。 軒に憑りて涕泗流る 『水経注』 洞庭湖,広五百里,日月若出没其中。 『史記・趙世家』 地坼東南。 『張載・詩』 登崖遠望涕泗流。 『詩語解』 [洞庭] 湖水の名前。 [岳陽楼] 楼の名前。岳州府城の西門の楼。洞庭湖を下瞰し景色絶景佳,宋の范仲淹の「岳陽楼記」も有り著名の楼である。 [呉楚] 共に春秋時代の國の名前。呉は洞庭の東に,楚は南に在る。 [坼] 地が裂け開くの意味。 [乾坤日夜浮] 湖水が広く,其の仲で日と月とが出没するので,天地も浮かぶばかりだと言う意味。『永経注』(洞庭湖広く五百里,日月其の中に出没するが如し。)とある。 [一字無] 一字の音信も無い。 [戎馬] 兵馬と同じ。 [憑] 「よる」と読む。 [涕泗流] 鼻から出るのが「涕」。目から出るのが「泗」,涙流れる,と同じ。 [詩意] 昔から洞庭湖は岳陽楼に登って看ると,浩浩として果てし無いと聞いていた。今,始めて此処に来て見渡せば,聞くのと違はず,呉と楚との二国が,東と南とに,此の湖にゆって断ち切られ,余りの広さに天地も日夜浮かぶかと思はれる。顧みれば,我が身はいま親戚・朋友から音信不通,只だ老弱の身を託する,孤舟有るのみである。故郷の地は今,兵火の巷と化しているから,帰ることも出来ない。此の雄渾の景色を見ても胸が開けないのは是非のない。因って蘭干に依って独り眺望する。 [鹵莽解字] 杜甫の此の岳陽楼に登るの詩は盛唐の五律中,名高い詩で「洞庭湖」を詠じた”白眉”「唐詩選」にも載せてある。杜甫の晩年の作で,筆が老熟し極めて雄渾である。杜甫二十五六の頃,父閑を兗州に顧みて「兗州城楼に登る」の賦した謹厳の作と比較して看る。 洞庭湖の詩は多い,杜甫の此の詩が千古の絶唱とされる所以が理解出来る。此の詩の作法を見ると,頷聯二句は実景で頸聯二句は情思。是を 『周弼,曰く「二実二虛の法。』と。前聯の闊大と後聯の精細が巧みに配合されている。句法は極めて綿密にできている。是を明朝の詩の如く膚廊ならざる所以。是如何。 『浦二田,曰く』「前聯闊でなければ後聯の狭處苦ならず,後聯能く狭にして前聯の闊狭愈々空し。然も三四の語を玩ぶに,暗に遙か遠く漂流の貌を逗出して七八の地を作る。之を孟浩年の詩と較べると殆ど遜色を見ず,然し其の結句「坐見垂釣者。徒有羨魚情」と言うには,稍活気に乏しい,終に本篇の爲に其の壇場を奪はれたり。」と論じている。孟浩年の詩とは, 『八月湖水平。 八月 湖水平らかにして 涵虛混太清。 虛を涵して太清に混ず 気蒸雲夢澤。 気は蒸す 雲夢の澤 浪撼岳陽城。 浪は撼す 岳陽城 欲済無舟楫。 済らんと欲するも舟楫なく 端居恥聖明。 端居して聖明に恥ず 坐見垂釣者。 坐らにろに釣を垂るるを者を見れば 徒有羨魚情。』 徒に魚を羨む情有り ・・・・・・とある。「洞庭湖」を詠じた”白眉”である。 唐詩のうちの”圧巻”,際だって優れた作品とされている。更に『唐子西』は杜甫の詩を激称し,【嘗て岳陽楼を過ぎて子美の詩を看るに,四十字に過ぎざるのみ。その気象の閎放にして含蓄の深遠なる,殆ど洞庭と雄を争う。所謂言に富みたるもの乎。太白,退之,輩率(おおむね)大篇を爲りてその筆力を極むれども終に逮(およ)ばざるなり。杜詩は小と雖も大に,余詩は大と雖も而(しか)も小なり。】とこれらの言を読めば,此の詩の価値が窺われる。亦,一方, 『方虛谷』は【嘗て岳陽楼に登り左序毬門の壁間に孟詩を大書し,右には杜詩を書す。後人また敢えて題せず。劉長卿が岳陽の詩に「畳浪浮元気。中流没太陽」の句有り雄偉ならざるにあらず,而して世に甚だ伝わらず,他は知るべし。】とある。 何れにしても,杜甫の岳陽楼詩,孟浩年の岳陽楼詩(臨洞庭上張丞相)共に有名な詩であり,特に孟浩年の気宇の大きさ,不遇な一生を送りながらも「建安の風骨」,六朝時代の豪健な気風を備えた特異な詩人,中華思想~政治への執念,孟浩年のエピソードの数々。「唐詩選」にて比較してみるべきと思う。 Copyrightc 1999-2011"(Kanshikan)"All rights reserved. IE6 / Homepage Builder vol.4 http://www.ccv.ne.jp/home/tohou/index |