日 暮
『黄鶴,云う』大暦二年。杜甫が夔州の西閣に居て日の暮れた時の事を読んだ作である。近体詩。

牛羊下来久。     牛 羊下り来ること久し
各已閉柴門。     各已に 柴門を閉づ
風月自清夜。     風月は自ら清夜
江山非故園。     江山は 故園に非ず
石泉暗流壁。     石泉 暗 壁に流れ
艸露滴秋根。     艸露 秋根に滴る
頭白燈明裏。     頭は白し燈の明なる裏
何須花燼繁。     何ぞ須いん花燼の繁きを

○久, 詳註云,一作夕。
○滴秋根, 一作満秋原。
『詩経・王風・君子于役』 [日之夕矣,羊牛下来。]
『沈約・詩』 [草根滴露霜。]


詩語解
[下来] 下来,とは高い牧地より降りて来ることをいう。
[花燼繁] 「燼」は火の燃えさし。昔から俗の迷信で,燈燼が花を作すは喜びを報ずると云う。
[石泉暗流壁・艸露滴秋根] 石壁・秋草を分割して用いた句法。意は「暗泉石壁に流れ、秋露草根に滴る」と同じ。暗壁の壁は石壁をいう,秋根の根は草根を云う。

詩意
日も暮れ,野山で遊んでいた牛や羊は山から下りて来た,隣近所の人家はそれぞれ柴門を綴じてしまった。初秋の涼夕で風月は清らかで美しいが,眼に映る江山は故郷ではないから,却つて愁いを増すばかりである。夜が耽れば石壁には泉が流れる音がするし,秋の草の根には露が滴たり玉の様である。自分は明るい燈の前で真っ白な頭をしている。それにパチパチと燈の花がやたらに咲が,そんなにまでして,この白髪を晒してくれる必要はない。

鹵莽解字
日暮と題しての起聯の二句に其の題意を叙し尽くしている。首句には『詩経』の語の 「日之夕矣,牛羊下来」を其の儘に採って用いる。自然の古色を出す、杜甫は「経書」の言葉を出すのが特徴の一つであるが,それが少しも技巧らしくない所にその手腕を発揮するに驚嘆する。

前聯は日が暮れて夜になった景色。景中に情を写すし自身の感慨を述べる。
『魏・王燦・詩』 「楼に登って,山川美なりと雖も我土に非ず。」と歎いた語がある。それと全く同一の趣きである。
その意味を表現する爲に「自」「非」の二虚字を巧みに出す所に筆力が尋常でない。後聯は倒装の句法で杜甫の好んで用いる作法である。それは「暗泉流石壁,秋露滴秋根。」と言うのと同じ意味。

「自清夜」という意を承けて清夜に白露が滴り清泉が流れる所の景を細やかに描いて岑寂の趣きを現はす。最後の句は「非故園」という句を承け,白髪が燈燼に照らされることは,却って悲しみを増すのみと結んだ。「自顧頭如雪。燈明不用繁。」と言う意味であるが,杜甫は此の如く,筆を平易に直ぐに使かは無い。

古人曰く;淡語俊永,遊子多読に絶えず。と評している。平平淡淡に一種の俊味有る所を鑑賞玩味しなさい。



                 
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