東方風  (4)

                魯迅著・藤野先生(2)
           藤野先生   (8)
           藤野先生   (9)
           藤野先生   (10)
           藤野先生   (11)
           藤野先生   (12)
           藤野先生   (13) 


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  (8)
但他也偶有使我很為難的時候。他聴説中国的女人是裹脚的、但不知道詳細、所以要問我怎様裹法、足骨変成怎様的畸形、還嘆息道:“総要看一看才知道。究竟是怎様一回事?
有一天、本級的学生会幹事到我寓里來了、要借我的講義看。我検出来交給他們、却只翻検了一通、并没有帯走。但他們一走、郵差就送到一封很厚的信、拆開看時、第一句是:

“爾改悔罷!”
這是≪新約≫上的句子罷、但托尓斯泰新近引用過的。其時正値日俄戦争、托老先生便写了一封給俄国和日本的皇帝的信。開首便是這一句。日本報道上很斥責他的不遜愛国青年也憤然然而暗地里却愛了他的影響了。

だが彼もたまに私を困惑させることがあった。彼は中国の女性は纏足すると聞き知っていたが、詳しいことは解からない。そこで、どういうくるみ方をするのか、足の骨はどのような畸形になるのかを私から聞き出そうとするのだ。その上、嘆息まじりに言うのである。
「やっぱり見てみないことにはな。一体どういうことになっているんだろう?」
 ある日、学級の学生会の幹事が私の下宿にやって来て、ノートを貸してほしいと言った。取り出して彼等に渡してやったが、パラパラとめくって見ただけで、持ち帰ろうとはしなかった。ところで彼等が引き揚げると、郵便屋が分厚い封書を届けてきた。封を切って見ると書き出しはこうだ。

 「汝悔い改めよ!」
これは『新約聖書』に出て来る文句であろうが、最近トルストイの引用したものだ。時あたかも日露戦争のさなかで、日本の新聞は彼の不遜を強く論難し、愛国青年もいきりたった。ところが裏ではもう彼に影響されてしまっていたのだ。




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  (9)
 其次的話、大略是説上年解剖学、試験的題目、是藤野先生在上講義做了記号、我預先知道的、所以能有這様的成績。末尾是匿名
 我還才回憶到前幾天的一件事。因為要開同級会、幹事便在黒板上写広告、末一句是“請全数到会勿漏為要”而且在『漏』字傍辺加了一個圏。我当時雖然覚到圏得可笑、但是毫不介意、還回才悟出那字也在謗刺我了、優言我得了教員漏泄出来的題目。
我便将這事告知了藤野先生、有幾個和我熟識的同学也很不平、一同去詰責幹事托辞検査的無礼、并且要求他們将検査的結果、発表出来。終于還流言消滅了、幹事却又竭立運動、要収回那一封匿名信去。決末是我便将這托尓斯式的信退還了他們。

そのあとの文句は、あらましを言うと、前年度の解剖学の試験問題は、藤野先生がノートにしるしをつけておいたので、私はあらかじめ知っていたのだ、だから、このような成績をとることが出来たというのである。文末は匿名であった。
私はこれでこの間のあの一件を思い出した。同級会をするというので、幹事が黒板に通知を書いた。終わりの文句は、 「全員漏れなく参集されたし」で「漏」の字のわきに○印が付けてあった その時その○をおかしいとは思ったが、全然気にとめていなかった。これであの字も私への、あてこすりであったのだと、やっと気がついた。教員が漏らした問題を私が手に入れたと匂わせていたのである。

私はただちにこの件を藤野先生に知らせた。何人かの私と親しい同級生も大いに憤り、私と一緒に行って、幹事が口実を設けて検査する無礼を問責し、あわせて彼等に検査の結果を公表するよう要求した。結局このデマ中傷は立ち消えた。すると今度は幹事は極力奔走して、例の匿名の手紙を取り返そうとした。締めくくりとして私はこのトルストイばりの手紙を彼等に返してやった。




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   (10)
中国是弱国、所以中国人当然是低能児、分数在六十分以上、便不是自己的能力了:也無怪他們疑惑。但我接着便有参觀槍斃中国人的命運了。第二年添教黴菌学、細菌的形状是全用電影來顯示的、一段落已完而還没有到下課的時候、便影幾片時事的片子、自然都是日本戦勝俄国的情形。但偏有中国人挟在里辺:給俄国人做偵探、被日本軍捕獲、要槍斃了、圍着看的
也是一群中国人: 在講堂里的還有一個我。

   ”万歳!” 他們都拍掌歓呼起來。
這種歓呼、是毎看一片都有的、但在我、這一声却特別聴得刺耳。此后回到中国來、我看見那些閑看槍斃犯人的人們、他們也何賞不酒酔似的喝采
 ーーー−−−鳴呼、無法可想!  但在那時那地、我的意見却変化了。


中国は弱国なるが故に、中国人は当然低能児ということになる。点数が六十点以上になると、もう自分の力ではなくなるのだ。彼等が疑いぐるのも無理からぬことだ。ところで、つづいて私は中国人を銃殺するのを見学する運命にめぐり合った。第二学年には細菌学が加わり、細菌の形態はすべて幻灯で示されることになっていた。一区切りついてもまだ講義時間が終了になっていない時には時局の画片を映した。むろん全部日本がロシアと戦って勝利を収めた場面ばかりである。 ところが、こともあろうに中国人が、そのなかに紛れ込んで出て来たのだ。ロシア人のために密偵を働いたかどで、日本軍に捕らえられ、いまにも銃殺されようとしている。ぐるりを取り巻いて見物しているのも中国人で、そして教室にもう一人わたしがいた。

 「万歳!」彼等はみな手をたたいて喚声をあげた。
こういった喚声は一枚ごとにあがるのであったが、しかし私にとっても、犯人が銃殺されるのを暇つぶしに見物する人々を見かけたが、彼等も酒に酔いしれたように喝采するではないか。ーーーーーーああ、如何ともし難い!しかし、その時、其処で、わたしの考えは変わったのだ。




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  (11)
到第二学年的終結、我便去尋藤野先生、告訴他我将不学医学、并且離開這仙台。他的瞼色彷彿有些悲哀、似乎想説話、但竟没有説。
『我想去学生物学、先生教給我的学問、也還有用的。』其実我并没有決意要学生物学、因為看得他有凄然、便説了一個慰安他的詭話。
“為医学而教的解剖学之類、怕于生物学也没有什(ノ+ム)大援助”他嘆息説将走的前幾天、他叫我到た家里去、交給我一張照相、后來写着両個字道:“惜別”還説希望将我的也送他。但我這時適値没有照相了;他便叮嘱我将来照了寄給他、并且時時通信告訴他此后的状況。

第二学校が終了すると私は藤野先生を訪ね、医学の勉強は止める。そしてこの仙台を去ろうと思っていると申し上げた。先生の顔に悲しげな色がよぎった。何か言おうとしたようだが、しかしとうとう何もおっしゃらなかった。
「わたしは生物学を勉強するつもりです。先生が教えてくださった学問はやはり役に立ちますよ」実の所、私は別に生物学をやろうと決心した、わけではなかったのだが、彼の寂しげな様子を見て、彼を慰める作り話しをつい言ってしまったのだ。
「医学のために教えた解剖学なぞは、生物学のたすけには、さしてならんのじゃないか」彼はため息をついて言った。
 出発する前日前、彼は私を家に呼び、私に写真を一枚渡された。裏には「惜別」の2字が書かれていた。そして私のもくれるようにおっしゃった。だがその時、折あしく写真はなかった。すると彼は 後日写したら送ってほしい、そして、始終、手紙でその後の様子を知らせるようにと念を押して、おっしゃった。




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  (12)
我離開仙台之后、就多年没有照過相、又因為状況也無聊、説起來無非使他失望、便連信也怕敢写了。経過的年月一多、話更無従説起、所以雖然有時想写信、却又難以下筆、這様的一直到現在、竟没有寄過一封信和一張照片。従他那一面看起來、是一去之后、杳無消息了。
但不知怎地、我総還時時記起他、在我所認為我師之中我感激、給我鼓励的一個。有時我常常想;他的対于我熱心的希望、不倦的教海、小而言之、是為中国、就是希望中国有新的医学;大而言之、是為芸術、就是倦希望新的医学傳到中国去。他的性格。在我的眼里和心里是偉大的雖然他的姓名并不為許多人所知道。

仙台を去ってから、私は長年写真というものうを写したことが無かった。それに状況も面白くなく、知らせたところで失望させるだけのことだろうから、手紙を書くのも気後れがした。歳月が過ぎるにつれ、いよいよ何から切り出してよいか解からなくなる。だから時には手紙を書こうという気持ちになっても、こんどはなかなか書きだせない。こんなわけで此れまでついに一通の手紙も一枚の写真も差し上げたことがない。彼の方から見れば、去ったが最後、杳として音沙汰なしである。

しかし、どういうわけか、私はやはり彼を思い出す。私が師と思いきめた人のなかで、彼はもっとも私を感激させ、私を鼓舞してくれたひとりなのだ。私はよくこう思う、彼の私にかけた熱意に満ちた期待、倦まざる教えは、小にしては、中国のためであり、つまり中国の新しい医学の出現するのを望むことだった。大にしては学術のためであり、つまり新しい医学が中国に傳わることを望むことだ彼の人柄は、私の眼のなかで、心のなかで、偉大である。彼の名は多くの人に知られていなが。



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  (13)
他所改正的講義、我曽経訂成三厚本、収蔵着的、将作永久的紀念。不幸七年前還居的時候、中途毀壊了一口書箱、失去半箱書、恰巧這講義也遺失在内了。責任運送局去捜尋、寂無回信。只有他的照相至今還挂在我北京寓居的東墻上、書棹対面。
毎当夜間疲倦、正想偸懶時、仰面在灯光中瞥見他黒痩的面貌、似乎正要説出抑揚頓挫的話來、便使我忽又良心発現、而且増加勇気了、于是点上一枝烟、再継続写些為『正人君子』之流所深悪痛疾的文字。
 十月十二日。

彼が訂正してくれたノートを、私は以前分厚い三冊の本に綴じ、しまっておいた。永久の記念にするつもりであった。不幸なことに七年前転居の際に、途中で本箱を壊されてしまい、本を箱の半分ほど失ってしまった。まずいことに、このノートも紛失した中に入っていたのである。

運送屋に督促して捜させたが、返事は無かった。ただ彼の写真だけは今なお私の北京の住居の東側の壁にかけてある。書きもので机に向かい合ってである。夜ごと疲れ怠けたくなるとき、顔をあげて、灯火の中で彼の痩せた浅黒い顔にチラッと目をやると、今にもあの抑揚のきつい口調で話しだすようで、忽ち私は良心を目覚めさせられ、そして勇気を奮い立たせられるのだ。そこで一本タバコに火をつけ、またしても 『正人君子』どもの目の仇きにされる文章を書き続けるのである。
       十月十二日。

                完了


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