若槻 礼次郎 若槻礼次郎(1866 - 1949)。号を克堂。松江藩・現・島根県松江市雑賀町。奥村仙三郎の次男として生まれる。19歳にして上京し司法省法律学校に入学、同19年叔父若槻敬氏の養子となり、同25年7月東京帝国大学仏法科を首席にて卒業。 大蔵省に勤務、以来明治・大正・昭和の三代にわたり官界、政界の要職を歴任した。再度にわたって首相となり、国政を総理し、政党総裁として政党政治の推進に寄与した。晩年終戦決定の御前会議に参列した。 「若槻礼次郎より抜粋」 大正天皇が崩御し、その日のうちに昭和と改元された。そのため昭和元年は7日しかない。明けて昭和2年1月、少数与党で臨んだ第52議会冒頭で、おりからの「朴烈事件」と「松島遊郭事件」に関して野党が若槻内閣弾劾上奏案を提出した。若槻は政友会の田中義一と政友本党の床次竹二郎総裁を招いて、「新帝詮索のおり、予算案だけはなんとしても成立させたいが、上奏案が出ている限りどうしようもない。引っ込めてくれさえすれば、こちらとしてもいろいろ考えるから」と持ちかけた。野党はこの妥協を承諾、「予算成立の暁には政府に於いても深甚なる考慮をなすべし」という語句を含んだ文書にして三人で署名した。 しかし、これは陰謀であった。若槻内閣は憲政会の内閣であり、穏健外交を政策に掲げていたため、1926年7月から始まった蒋介石の北伐に対してなんらリアクションを取らなかったのである。実はこれが枢密院にとっては気に入らないことであった。そこで枢密院はこの事件を利用して若槻に揺さぶりをかけたものだと考えられる。よって次代の田中内閣が諮った同様の勅令案に対して枢密院は全く反対をしない。但し、内閣と枢密院の見解が食い違った場合、内閣が辞職しなければならないという規定はなく、ここで総辞職をしたのは若槻の性格の弱さとも取れると当時のジャーナリストは著述する。 第2次若槻内閣 略昭和庚午四月倫敦客中偶成 ◆倫敦=ロンドン 須立峯頭瞰大川。 須し峯頭に立ち 大川を瞰す 休従井底望青天。 休うをやめよ井底に従い 青天を望むと 宇寰時有会心事。 宇寰 時に有り 会心事 衆鳥頻鳴一鶴眠。 衆鳥 頻に鳴く 一鶴は眠る 乙亥盛夏泛嶽麓山中湖 山影在湖人在船。 山影 湖に在り 人は船に在り 一棹劃破碧?漣。 一棹 劃破す 碧 ?漣 天風吹自嶽巓下。 天風 吹いて 嶽巓より下る 萬斛奇涼身欲仙。 萬斛の奇涼 身は仙ならんと欲す 古風庵雑詠 (七首之一) 当面峰巒翆色明。 当面 峰巒 翆色 明なり 離騒読罷独憑楹。 離騒 読み罷めて 独り楹に憑る 任他清濁滄浪水。 さもあればあれ 清濁 滄浪の水 煮玉一泉堪濯纓。 煮玉 一泉 纓を濯うに堪えたり 古風庵雑詠 (七首之二) 庭樹微明曙色催。 庭樹 微明なり 曙色 催す 杜鵑呼夢夢方回。 杜鵑 夢を呼び 夢まさに回る 客心毎被此声動。 客心 毎に此の声に動かされ 欲賦不如帰去来。 賦せんと欲す 帰去来に如かずと 古風庵雑詠 (七首之三) 何人與世一推移。 何人ぞ 世と一つに推移するは 醒酔儘憐漁父辞。 醒酔 儘く憐む 漁父の辞 薄夜三杯澆磊魂。 薄夜 三杯 磊魂に澆ぐ 湘洋波湧月跳時。 湘洋 波 湧き 月 跳る時 蘋園勅選過訪有詩見示即次韻却似 邂逅無談及世勲。 邂逅し 世に勲するに及ばずを 談ずる無し 笑看渓上巻舒雲。 笑うて看る 渓上 巻舒の雲 拾遺文藻何存我。 拾遺 文藻 何ぞ我に存する 司馬詩才夙擬君。 司馬の詩才 夙に君に擬す 08/12/13 石 九鼎 著す |