私のエッセイ(「鉄と真宗」など)

人権ごっこ
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以下の文章は、昨年の僧侶研修後書いたが公表を躊躇していた。今年(平成19年)の僧侶研修会は、12月20日にある。今年の教区よりの出向者は、菅瀬融爾(教蓮寺・沼田組)さんである。別院の斉藤英明さんの名前は、資料に見当たらない。先日、ある懇親会で彼に会った。確認すると出席すると返事をしていた。何であの案内状を差別文書としたのかと問うと、彼一人が別の意見を言うのは難しいと答えた。彼はなかなか誠実な男であるが、日本では一人ひとりが自分の考えを持ち、一人ひとりが自分の考えを表出するのは困難な社会であるということか。差別問題ではなおさらなのであろう。宗門の基幹運動のような場で、言葉狩りをする愚をおかしてはならない。権力側にたつ人間が、自己を隠して摘発する全体主義・社会主義を許してはならない。
末尾の「僧侶研修会のやり方に対する提案」は、有効と思う。今年は、私が議事進行のようだから、発言が制約されるかもしれない。1年遅れであるが、公表する機会を失うことになるので、今アップすることにした。(平成19年(2007年)12月16日)

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平成18年(2006)度の広陵東組僧侶研修会は、平成18年12月19日午後4:00〜午後6:00、広島別院で行われた。教区よりの出向者は、城山大賢(報正寺・山県太田組)、藤井聡之(教雲寺・沼田組)、斉藤英明(教区相談員)が予定されていたが、当日になり城山大賢が欠席し代わって菅瀬融爾(教蓮寺・沼田組)が出席した。


【差別問題研修会の実態】

上園恵水前組長は、他組主催のゴルフ大会に、平成18年12月19日の広陵東組僧侶研修会を欠席して参加した。
また、前組長は、同日夜の懇親会に参加し、岸田秀先生僧侶研修会案内状「差別」文書事件(平成15年(2003年)3月12日)について、「まだやっているのか」と発言した。
僧侶研修会を指導しているのは、教区同朋三者懇(部長沖和史)のようであるが、僧侶研修会や差別問題の扱われ方のこのような現実を知っているのであろうか。
基幹運動の闘士の奮闘の結果がこれである。前組長を非難する前に、この現実は彼らが余りにも人間の実相に無知であることを反省しなければならない。沖和史安芸教区同朋三者懇部長の私への書簡を改めて読み返してもらいたい。彼は現実を全く知らない。また、知ろうともしない。
 「上園(上園恵水)さん、日下(日下正実)さんは存じ上げておりませんし、お二人が組内でどのような行動をしていらっしゃるのか存じ上げる立場にありません。したがってお二人の行動は私のとる態度と今は関連するところがありませんし、日下さんが池谷所長の部下であったというお話が去年度に起きたこの件とどのようなかかわりがあるのか、残念ながら理解致しかねます。」(沖和史書簡平成15年(2003年)10月9日)
 ある人物Aと他のBに接点があることが重要であることは常識である。裁判でも公益法人でも株式会社ですら特別の関係の排除が重視される。上司と部下や使用者と雇われ人の関係あるいは親族関係が特殊関係の代表例であることは常識である。愛人関係は微妙である。このような常識を欠く基幹運動の関係者が「信心の社会性」を主張するからブラックジョークであり赤子の手をねじるように真宗僧侶が利用され裏で嘲笑されるのである。
 日下正実(旧姓藤井)氏が問題発生時の副組長であり、上園恵水組長(当時)を補佐する副組長のうちただ一人被差別部落に対する差別文書だと発言した人物であり、池谷亮真氏は教区責任者の輪番(教務所長)である。私は案内状を書いた事実や案内状の文章の改ざんを争っているのではない。安芸教区輪番(教務所長)(中山知見氏と後任池谷亮真氏)と三者懇部長の沖和史氏と「案内状」が差別文書か否かの評価を争っているのである。池谷亮真氏は当事者なのである。権力者として差別の判定を行う立場です。案内状が差別文書でなければ(差別と判定されなければ)糾弾対象にはならない。その判定者池谷亮真氏と日下正実氏の関係が「去年度」に行為が完了している本差別事件とは関係ないというのが沖和史氏の論法なのであろうが、差別か否かを権力者として判定者する池谷亮真氏と上園恵水氏にただ迎合する日下正実氏の関係が「どのようなかかわりがあるのか、残念ながら理解致しかねます。」という沖和史氏の理解は幼稚としか形容の言葉を知らない。しかも沖和史氏は、三者懇部長という権力者なのである。
 宗門は偽善のお面(仮面)ばかりである。きれいごと発言の「人権ごっこ」というべきか。形骸化した信心があふれる宗門の現況の姿か。



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【差別を思考停止から救う】

差別問題を取り上げるとき、特に糾弾する側は、社会の現実・状況を十分認識すべきである。「差別」という言葉を聞いただけで、思考停止に陥っているのが僧侶の現実である。「差別」という言葉を気安く使える環境にしなければならない。差別には垂直的、区別には水平的イメージがあり、垂直的イメージのある「差別」が価値的に負とされたのであろう。商品戦略に「商品の差別化」という用語があるが、他社製品より垂直的に勝るという意味であり、普通に使用されるテクニカルタームであるが、昔から使用するたびに差別問題で取り上げられないのを不思議に思っていた。私は、差別も区別も基本的に違いはないと考えている。「差別」「区別」の間にラインを引くから思考停止に陥る。相手により早く差別のレッテルを貼るチャンスばかりうかがっている。「差別」の中にラインを引いて、「許される差別(なされなければならない差別)」と「許されない差別」にカテゴライズするのが、実質的論議をもたらし、「差別」という言葉も拒絶反応を導かなくなると考える。
 運動論としても、僧侶及び僧侶社会は体質的に空想的自慰的偽善的反差別運動に陥るので、それを防止するため僧侶は「一人雇用運動」を実践すべきであると提案した。教区よりの出向者藤井聡之は頷いていたが、首肯なのか機械的反応なのか分からない。彼が同意したのであれば、実践してもらいたい。現在のような僧侶研修に時間を浪費するより生産的である。


【僧侶研修会のやり方に対する提案】

差別問題についての僧侶研修会を、メンバーが比較的少人数でお互い熟知している組単位でいつも行い、かつ徒党を組むのが習性である僧侶であることを勘案すれば、これまでの研修会の持ち方に疑問を持つ。試みとして、自己の所属する組の研修会の出席を条件に、他組の僧侶研修会への参加を認めることを提案したい。前日までに参加申込をさせ、発言を認めるか否かは、受け入れ組に任せればよい。オブザーバー参加であっても、参加者も受け入れ組も得るものが大きいであろう。親戚ネットワークを基軸とする真宗僧侶社会で、お互いを直接認知する機会を普段確保することは、陰湿な中傷を無化し、人材発掘に寄与するであろう。このような交流を盛んにすることは、教区全体が活性化するであろう。付随効用として、井の中の蛙状態を原因とする破廉恥漢のボスの発現を防止することができる。安芸教区は、広陵東組から僧侶の閉塞的人間関係が開放されたが、より一層自由で生産的な発言のできる僧侶社会になる。


出席者:中川英尚(浄光寺)、長門義碩(海宝寺)、長門義城(海宝寺)、乗元善昭(善教寺)、乗元明雄(善教寺)、高松秀峰(西向寺)、松尾淳成(専立寺)、井上正晃(正光寺)、潤居秀顕(順教寺)、法山総貫(妙蓮寺)、武田勝道(教西寺)、武田秀道(誓立寺)、大石義行(勝順寺)、三光清子(三光寺)、友国義信(善徳寺)、田中晃敬(進徳寺)、岡部哲信(報徳寺)、古川知行(善通寺)、亀山倫昭(正覚寺)、碓井真行(光明寺)、久保田孝誓(報恩寺)、久保田晃裕(報恩寺)









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