2005年10月
 
1日(土)専門家
 「専門家」って、どうしてあんなに話が回りくどいんでしょう。「私は知らない」と一言ですむことを二〇分もかけてコムズカシク説明するんですから。そして「専門家」って、「私は知らない」をどうしてあんなに偉そうに言うんでしょう。無知は決して誇るべきことではないのですから「専門」領域に閉じこもっていないでもっと広くいろいろ学べばいいのに。
 ……もしかしてホンモノの専門家は別にいて、自称センモンカは名称のどこかに「バ」の字を入れ忘れているだけ?
 
【ただいま読書中】
パリでお昼ごはん
稲葉由紀子著、TBSブリタニカ、1997年、1900円(税別)
 
 「フランス料理」と言えば「三つ星レストラン」としか答えられない軟弱者が私ですが(「○○」と言えば「××」と一言で瞬時に答えられるのは、よほど知識が豊富で抽象化一般化ができていて本質を見抜いている人か、あるいは、もの知らずが唯一知っている単語にしがみついているか、のどちらかでしょう。たとえば「日本といえば」に「フジヤマゲイシャ」としか答えない人を日本人はどう評価します?)、フランス人が日常的に食べている食事には以前から興味がありました。フランスは基本的に農業国だと私は認識しているので、きっと野菜たっぷりの珍しい料理(レストランのフルコースやTVの紹介番組には登場しないようなもの)が山ほどあるのでは、と思っていたのです。
 
 本書はパリ郊外のアントニー市に住む著者が、安い定食屋(伝統家庭料理の店)を中心に回って紹介しています(雑誌「フィガロ・ジャポン」に連載された記事のまとめだそうです)。お高いランチではなくて、庶民の定食に焦点を絞る、という態度が清々しい本です。
 しかし、50フランとか100フランの安い昼定食が、著者の紹介を読むととんでもない御馳走に感じられるのが不思議です(いや、きっと本当に美味いんでしょうけれど)。デパートの食堂が「料理も良いけれど窓外のパリの風景も御馳走」と言われると、行ってみたくなります。私が特に惹かれたのが黒ブーダン(豚の血と脂を混ぜた黒い身の中に豚の舌・頚や顎の肉・ピスタチオを混ぜ込んだもの)や「貧乏人のアスパラガス」新ネギの酢油ソース和えです。ああ、でもまだまだ美味しそうな料理が山ほど。
 安い昼定食ということで、フランス以外の料理もたくさん登場します。トルコ、ラオス、ポルトガル、セネガル、チベット、ヴェトナム、クルド……うわお。
 そしてそれぞれの店は各季節毎にまとめられ、季節の雰囲気と料理を通してパリを紹介する本にもなっています。通読したらなんだかパリで一年過ごしたみたいで、お腹いっぱいです。
 著者はただ単に食べ歩いて「美味しい」「美味しい」とTVのあほタレントのように連呼しているのではありません。たとえばチベット料理店では奥の壁にダライ・ラマの写真が掲げられているのを見逃しません。カンボジア料理店のご主人は1975年プノンペン陥落によって故国に帰れなくなった元外交官です。レバノン料理店を教えてくれた著者のお隣さんは、内戦のためベイルートにいる母親と15年間会えなかった人でした。アフリカ料理店がパリに多いのはかつての植民地支配時代の名残です。著者はそういった「料理」と「人」「歴史」「世界」の関係をさり気なく、本当にさり気なく散りばめつつ、「美味しさ」をこちらに伝えてくれます。
 
 あとがきに著者も書いていますが、本書をただのガイドブックとして読んで「本書に載っているお勧めの店でお勧めのメニューを注文する」だけに使うのでは、寂しいでしょう。ガイドブックに載っていない美味しい店を見つけるための方法論が本書には詰まっているのですから。パリを楽しみながら美味しい店を自分で見つける幸福を著者は示しているのですから。
 しかし著者は、外から見た店の雰囲気や地元民が集まっているかどうかで「この店は美味しい」とびびっと見抜くのですから大したものです。そうなるまでには相当時間(とお金)の投資が必要だったことでしょうね。だからこそ「安い定食」でないといけないのかな。
 
 
2日(日)筋肉痛
 今日は次男の学校の運動会、朝から小雨がぱらついてはいましたがなんとか最後までできました。PTA競技は綱引きなのですが、我がチームは惨敗でした。必死に踏ん張るのですがずるずるずると体がなぜか前に移動するのです。左手の親指薬指小指の付け根と左肩に鈍痛を感じます。軍手をしていなかったら掌の皮が剥けていたかもしれません。
 まあでも綱引きで良かった。どう見ても私よりはるかに若い周りの保護者たちに全力出すのはお任せできますから。ずっと前の職場の運動会では、張り切りすぎたおじさんが転んで骨折とかアキレス腱断裂とかになっちゃったのも見てますので、年寄りの冷や水はなるべくしたくないのです。明日に残すのは筋肉痛だけにしたいもの。
 そうこうしていたら職場からの呼び出し。さっさと出かけて仕事はすぐ済みましたが、なんだか中途半端な休日です。
 
【ただいま読書中】
バードケージ
清水義範著、NHK出版、2004年、1600円(税別)
 
 両親が離婚し、父親と共に住みながら東京の予備校に通っている遥祐は、何をする気力も湧かず将来への暗い不安に押しつぶされそうな日を過ごしています。ところがひょんなことで知り合った金持ちがとんでもない「ゲーム」を提案します。「一億円を3ヶ月で使い切って欲しい。目的は、自分のためと楽しむため。だから寄付やあからさまな無駄遣いは禁止」。はじめは嬉々として量販店に通い、普段買いたくて我慢していたものを買いあさる遥祐ですが、予備校生の「贅沢」なんてたかがしれています。一ヶ月で一千万円を使うのがやっとで、だんだん金を使うことが苦痛になってきます。好きなDVDを買ってもそれを見ていたら金が減らないのです。高い自転車を買ってもそれを乗り回して楽しんでいたら金が減らないのです。
 何か計画的に使わなくては、とは思うのですがその「何か」が見えません。ところが駆け出しタレントの真由と出会ったことでその「何か」が見えてきます。でも残り時間は一ヶ月。時間がない遥祐はネパールに飛びます。自分がやりたいこと、自分が楽しみたいこと、でも「自分」は誰かとつながっていて誰かのために動くことも実は自分の楽しみでできると気がついた遥祐は、最後の大きな買い物に打って出ます。
 
 私だったら……まず住宅ローンを返して……あ、これは「楽しみのために」「使う」ではないからルール違反ですね。だったら、車とバイクを買いかえてパソコンもフルスペックのを買って……むう、我ながらみごとな小市民的刹那的発想だ。
 
 著者のことですからどうせ素直な小説のわけがない、と思って読み始めましたが、みごとに(嬉しい方向に)期待を外されました。現代のお金メルヘンかと思わせて実は至極真っ当な教養小説(のパスティーシュ)です。遥祐の見事な成長ぶりには目頭が熱くなります。自分のことしか頭になかった遥祐が、自分の周りに世界が存在することに気づき、周りの人を(生きている人だけではなくて死んでいる人まで)気遣い、それによって逆に自分自身をしっかりと見つめるようになるのです。そうですよね、自分の内にこもっていたら自分自身を見つめることなんかできないのですから。自分を見つめるためには、視点を外に持っていかなきゃ無理。その「外の視点」を物語の中に二重に仕掛けてある点で、私は著者に素直に脱帽です。
 
 
3日(月)劣化ウラン
 ネットを見ていると、劣化ウランをまるで地球を滅ぼす諸悪の根源のように扱っているサイトもありますし逆に「U238は放射能がないから科学的にまったく問題がないのに何で騒ぐんだ?」というスタンスのサイトもあります。私は劣化ウランと親しくつき合ったことがないので態度保留にしていたのですが……
 たまたまあるTV番組でアメリカの廃坑になっている岩塩抗を映しているのを見ました。現在そこは低レベル放射性廃棄物の捨て場になっていて、手袋やガウンなどが大量に安全に保管されているのでした。単純に言うなら、ウランを触ったものは人間社会のそばに置いておかない方が良いという判断で遠くに隔離されているわけです。
 ところが劣化ウランは、過去に放射能を持つウラン(U235)と密接にくっついていた(混じり合っていた)物質です。扱った手袋は隔離するのに劣化ウランは弾にして撃ちだしても安全……なんだかしっくりきません。劣化ウランは低レベル放射性廃棄物と同じ扱いをしても良いんじゃないか、と私は現在感じています。(そもそも対戦車の弾をばんばん撃たなきゃいけない状況が好きになれない、というのはまた別のお話です)
 
【ただいま読書中】
カラー版 ベトナム 戦争と平和』岩波新書962
石川文洋著、岩波書店、2005年、1000円(税別)
 
 著者は1965年1月から68年12月までベトナムに滞在し、のちに北ベトナムに取材で入国したため南には入りにくくなりましたが、1975年サイゴン陥落後ベトナムにしばしば通って取材を続けているカメラマンです。タイトルの通り、カラー写真が紙面の半分以上を占めている岩波新書ですが、ベトナム戦争からカンボジア侵攻・対中国戦争を経てベトナムが平和になるまでを駆け足で(文字通りビジュアルに)眺めることができます。
 
 ほぼ毎ページにカラー写真がありますが、前半は特に戦場が舞台ですから、本全体で死体がどのくらい写っているか、ちょっと数えたくないほどです。私がベトナム戦争の写真で特に印象に残っているのは、市街地で「ベトコン」の頭に拳銃を突きつけて笑っている警察署長(だったと記憶しています)のものです。で、その直後引き金が引かれたそうな。この写真は本書には載っていませんが、そのかわりというか、たとえば殺したベトコンの肝臓を生で食べている南ベトナム政府軍の兵士たちとか(敵に対してそれをやったら自分は戦死しない、という言い伝えがあったんだそうです)、相当愉快ではない写真が並んでいます。平和な時代の人々の笑顔が登場する後半との落差の激しさ。
 ただ、「勝利」「平和の到来」はハッピーエンドではありませんでした。破壊された国土と傷ついた人々。大量の失業者(主に軍関係)。そして戦争の後遺症(枯葉剤(に含まれていたダイオキシン)によると思われる子どもの奇形や不発弾や地雷による負傷の続発など)。ベトナム戦争の終結と共に世界がベトナムを忘れたとしても、ベトナムは戦争を忘れることはできなかったのです。だって目の前に存在しているんだもの。
 ドイモイ(刷新)政策が軌道に乗り海外からの投資が増えてベトナムが順調に進めるようになったのは1990年代になってからです。破壊は簡単ですが、再建には時間がかかるんですねえ。
 ……結局ベトナム戦争は、一体何だったんでしょう?
 
 「アメリカではベトナム戦争を敗戦といわず『失敗』ということが多い」と本書にありますが、太平洋戦争を「敗戦」と言わずに「終戦」という日本と基本姿勢は共通なんでしょうか。
 
 
4日(火)本日は二題
数字
 足あと6789番目はITALさんでした。毎度お越し頂いてありがとうございます。
 さて、次のキリ番設定は、素直(?)に7890にするかあるいはちょっと変えてみましょうか……すこし数字で悩んでみます。
 
年賀状
 郵便局から来年の年賀状の案内が来ました。おや、インクジェット用の葉書(50円)だけではなくて、「写真用葉書」(60円)の設定があるんですね。我が家のプリンターでは意味がありませんが、写真画質のプリンターを駆使したい人には魅力的な提案でしょう。ただ「数が少ないから予約ができません」……おやおや、それならそれでたとえば「葉書で応募した人の仲から抽選で」とかにすれば、その分葉書の売り上げが増えるでしょうに……ちょっとせこい?
 
【ただいま読書中】
斑鳩宮始末記(いかるがのみやしまつき)
黒岩重吾著、文藝春秋、2000年、1524円(税別)
 
 厩戸皇太子(=聖徳太子)の部下で犯罪調査を行なう役目の調首子麻呂(つぎのおびとねまろ)を主人公とする連作短編集です。まだ法制度も未熟で(冠位十二階も十七条憲法もまだ)何が犯罪かの定義も明らかではない時代を背景として、ちょっと変わった味の時代推理小説になっています。
 子麻呂は手足を縛られて捜査に当たります。自分より身分が上の人には簡単に尋問ができません。殺人事件があっても、今のような検屍はできません。死体損壊を禁じた明文規定は一世紀後の大宝律令まで待たなければなりませんが、明文化されていなくても死の穢れに対する恐れは人々の中に強かったはずですから、死体をいじくり回すのはタブーだったはず。ただそこで、殺人の手段として怨霊や呪いを持ち出さないのは著者のポリシーでしょうか。基本的に人を殺すのは人、という前提で主人公たちは動きます。ただしある程度自由に動けるのは厩戸皇太子の勢力範囲内(斑鳩)だけです。それ以外の地域はそれぞれ有力豪族の支配地であり、古い豪族は冠位十二階が導入されることで厩戸皇太子によって新興勢力(渡来人たちや実力のある若者)が取り立てられて自分たちの既得権益が脅かされるのではないか、と厩戸皇太子に警戒や反発を感じているのです。
 子麻呂たちは庶民の間にも入って聞き込みをします。そこで見るのは、厩戸皇太子の理想とはかけ離れた、身分と貧富の壁に隔てられた生きるのがかつかつの苦しい生活です。
 
 聖徳太子はほとんど登場しませんが、彼の「業績」が実際にはどのように周囲に受け取られ社会をどのように変えようとしていたのかの「実態」を、周囲から浮き彫りにする小説とも言えます。著者の力作『聖徳太子 日と影の王子』の外伝、と言って良い作品かもしれません。
 
 
5日(水)誕生日
 本日は私の誕生日でしかも休日、ということで家内からの「何かしたいことは?」に対して「デート」と即答しました。夫婦50割引(昨年の夏から1年限りと聞いていましたが、延長になったんでしょうか。何はともあれ二人で2000円はありがたいことです)を活用しようと朝から出かけました。「チョコレート工場」は時間が合わず、「セブンソード」です。
 時代は17世紀、少数民族支配の清王朝は支配を確実にするために禁武令(日本の刀狩りの過激版)を発布し、武芸者を全滅させるために軍団を各地に派遣します(登場人物が誰も弁髪を結わず清の服(現在のチャイナドレスのタイプ)を着ていないことからも、清の支配が完成していないことはわかります)。乱暴なことに報酬が出来高払いだったため、軍団はとにかくたくさんの「武装勢力」を殲滅して報酬を得ようとします。女子どもでも殺して武器を握らせれば立派な武芸者(の死体)扱いですから、手当たり次第殺します(このへんは、アメリカへの皮肉かな?)。その軍団が迫り全滅の危機に瀕した村に、七人の剣士が救い手として現れました……って、黒澤明の「七人の侍」ですか? ただ「七人の侍」は人間的な強さでしたが、「セブンソード」は超人的な強さです。彼らが使う剣にはそれぞれ神がかった特殊能力があります。で、悪魔の軍団の方には十二神将と呼ばれる悪魔的に強い連中と三千人の兵隊がいます。とうとう村民は集団で避難することになりますが、ここはまるで三国志の長坂の戦い(劉備が領民をたくさん引きつれてぞろぞろ退却する「戦い」)だと思いました。
 とにかくキャラが立った登場人物が多すぎて、誰が誰やらなかなか区別がつきません。それに高麗の囚われ人や村に潜入していたスパイの裏切りやら村長の娘などの恋物語がからんで、話はジェットコースターで一気に結末まで駆け抜けます。
 「ヒーロー」「ラヴァーズ」に次ぐ中国武侠映画第三作、と広告にはありますが、う〜ん、「ヒーロー」はヒーローに焦点を当ててそれを取り巻く人々で話が膨らみ、「ラヴァーズ」は男女三人の恋の物語を中心に絞り込んでいて、それぞれに深みを持っていましたが、「セブンソード」は話が最初から膨らみっぱなしで、それに深みを与えるべき各個人の過去の物語がスパイスにしかなっていません。といって全部描いたら三部作くらいになってしまいそうですし困ったなあ……あ、パンフレットを読んでいたら主人公は剣士ではなくて七本の剣と書いてある。それなら納得です。
 
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泊まれる!遊べる! 全国廃校ガイド 83選
廃校遊学推進委員会、情報センター出版局、2003年、1500円(税別)
 
 北海道から九州まで、廃校になった校舎を利用している施設で遊びたい人のためのガイドです。宿・キャンプ場・温泉・自然学校・蕎麦打ち道場……私が好きな四万十川関係では「四万十学舎」に泊まると、地元の食材を食べ、様々な自然体験ができます。イカダ下り(自分たちでイカダを作ってそれに乗って川を下る)なんか、子どもにやらせるよりも自分がやりたい。教室を黒板などを残したまま宿泊室に改造している廃校もいくつもあるのですが、そんなところに泊まりたいとは思いませんか?
 私は中学と高校の臨海学校で、海辺の学校に泊まりましたが、学校に泊まる、というだけでわくわくしたのを覚えています。お風呂は銭湯でしたが、今はその学校(廃校)の中にお風呂が設置されたりしているんです。むう、面白そうだなあ。
 
 廃校というと、なぜか田舎のイメージがありますが、これからは都会も廃校の時代を迎えるんじゃないでしょうか。少子化の影響もありますし都市のスプロール化の影響もあります。私の出身小学校も、私の時代には一学年が6クラス(それも一クラス40人以上)でしたが、今では3クラス(それも一クラス30人少々)です。子どもは減るところではおそろしいほど減っています。さて、都会の中の廃校は、一体どんな利用法があるんでしょう? 地域や老人のための施設?
 
 
6日(木)200本
 大リーグではイチロー選手が今年も200本安打達成です。今シーズンはとんでもなく不調だったそうですが、それでも大したものじゃありませんか。大リーグでずっとレギュラーポジションを維持し、さらに5年連続200本安打を達成しているのですから。「なんだたった200本しか打てないのか」と言えるのは、300本や400本打てる(打っている)人だけじゃないかなあ。
 イチロー選手がかつてパリーグで連続首位打者を獲っていた頃、「セリーグは投手の質が高いから、イチローがセリーグにいたらあんな成績は残せない」と讀賣ジャイアンツの某選手が言いました。「だったらお前がパリーグに行って、イチロー以上の成績を出して見せろよ」と私は思っていましたらその直後イチローは大リーグに行ってばりばり活躍をしています。さて偉そうなことを言っていた某選手は、どうして大リーグに行って「ほら、自分の方が優秀な選手だろ」と実績を示さないのかなあ。自分の方が劣っているのに優秀な他人を貶めて喜ぶ類の人でなければ、実績を示せるはずですよねえ。
 読売ジャイアンツの(元)オーナーの「たかが選手が」発言と並んで「日本プロ野球に関して忘れてはならない発言」であると私は認定していますので、記憶が蒸発しないうちにここに記録しておきます。
 
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抵抗者たち ──反ナチス運動の記録
池田浩士著、新潮社、1990年、1800円(税別)
 (1980年に出版されて絶版となっていたものの新版です)
 
 暗く内省的な文章です。読んでいて序章で気分は陰々滅々。著者が語ろうとするのはナチスに抵抗した人たちの苦しいけれど英雄的で格好良い闘いの物語ではありません。著者の言葉を借りれば、たとえば「ファシズムに抵抗するということは、敗北を運命づけられている少数派の闘いを開始するということである」なのです。なぜなら、ナチズム(ドイツ)・ファシズム(イタリア)・天皇制(日本)に共通するのは「国民の大多数の合意によって維持されているか、あるいは少なくともそういう合意によって維持されているという外見をとることに成功している」点なのですから。そういった体制に抵抗することは、すなわち隣人を敵に回すことなのです。
 本書にレジスタンスやパルチザンは登場しません。一度だけスペインに視点が移りますが基本的に舞台はドイツ(大ドイツ)国内です。共産党員・社会党員・聖職者・一般市民、そういった人たちがいかにナチズムに対して抵抗したか(あるいは抵抗しなかったか)の事実を元にした記述が淡々と積み重ねられます。そこで見えてくるのは、抵抗した人々と抵抗しなかった人々を隔てるのは、深淵ではなくて、実は本当に小さな一歩だったということです。
 第三帝国は、いわばそれ自体が巨大な強制収容所でした。その中で生き延びるために、人は様々な戦略を用いました。その中で、ナチズムに抵抗することを選択した人が、自分が命を危険にさらしていることがわかっていながらなぜその行動をとり続けたのか、心の内を私は想像することしかできません。想像しても想像しても、どうしても腑に落ちた思いはしないのですが……
 
 判断を「上の人」に委せてしまう制度(全体主義)と、自分で判断しその結果は自分で負う制度(民主主義)。その選択ができなくなる最終選択だけはしたくないものです。
 
 
7日(金)速度
 使っているプロバイダ(ケーブルテレビ)がこの10月で合併して「通信速度は速くなります、料金は下げます」と先月末に言ってきていました。で、10月になったらケーブルモデムにリセットをかけなきゃ、と思っていたのを今日になってやっと思い出しました。公称速度は下りがこれまで10Mbpsだったがこんどは30になるというのです。実測ではせいぜい3Mくらいだったのでさてさてどのくらいになるのかな、と思っていましたら、測定サイトによって違いはありますが大体8〜9Mbps出ています。それではとためしにソフトをいくつかダウンロードしてみましたら、以前とそれほど速度は変わりません。あらがっかり。こちらがぶら下がっている回線よりもサーバーに入っている回線とかサーバーそのものの性能とかの問題でしょうか。それでも回線が一応速くなったのは確かなので、悪い気はしません。ただ、我が家の内部の問題はどうだったかな。回線は100BASEだからまだまだ使えるでしょうけれどルータを買うとき(何年前だったっけ?)コスト優先で判断したから、もしかしたらこいつがネックになる可能性があります。次の買い物は新しいマックとNAS(LANにぶら下げる共有ハードディスク)と思っているのですが、それに合わせていっそ無線ルータ導入が吉?
 
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大仏破壊 ──バーミアン遺跡はなぜ破壊されたか
高木徹著、文藝春秋、2004年、1571円(税別)
 
 ソ連が手を引いた後、アフガニスタンは無政府状態で軍閥の群雄割拠でした。そこにイスラム神学校の学生たちを主力とするタリバン(タリブ(神学生)の複数形。リーダーはオマル)が新勢力として勃興します。タリバンの主張は、武装勢力の武装解除・治安の回復・国土統一で、統一後政権は政治のプロに渡す、と公言していました。はじめは十数人の小グループだったタリバンはパキスタンとアフガニスタン国民の圧倒的支持を得て支配地域を急速に拡大していきます。
 オサマ・ビンラディンは、ソ連の侵攻時アフガニスタンをめざすイスラム義勇兵の一時宿泊所・氏名登録所をパキスタンに作り、彼らを訓練してアフガニスタンに送り込む仕事をしていました(アルカイダの前身です(カイダ(基地のアラビア語)+定冠詞アル))。湾岸戦争で反米運動を派手にしたため生国サウジアラビアを追放された彼は、タリバンに圧迫された軍閥に呼ばれてアフガニスタンに入ります。しかしその軍閥はタリバンに降伏。詳しい経緯は不明ですが、ビンラディンは、義勇兵のネットワークを手みやげにタリバンに接近します。
 首都を制圧したタリバンは政府の再建に乗り出しますが、政権を委せられる人や組織は存在せずしかたなく自ら政権運営を始めます。サウジアラビアの制度を真似てイスラムの教えを徹底する「勧善懲悪省」を作りますが、実働部隊は、神学校も小学校も出ておらず自分の村の風習しか知らないような若者が主力だったため、コーランにも定められていないようなとんでもない「圧政」(髭剃り禁止・たこ揚げ禁止・TVの禁止・女性の人権弾圧……)が敷かれることとなります。
 岩に彫り込まれた大仏があるバーミアンのハザラ人(シーア派)はタリバン(スンニ派)に激しい抵抗を続けていましたが、タリバンに対するアルカイダの援軍によってバーミアンは陥落します。そこでバーミアンの大仏破壊の話題が登場します。イスラム原理主義の立場に従えば、偶像は破壊しなければなりません。しかし、アフガニスタンという国家主義の立場に従えば、仏像もまたアフガニスタンの文化遺産なのですから保存しなければなりません。この二つの立場の対立が激しくなります。情報文化大臣と首席補佐官は大仏保存をオマルに進言し容れられますが、勧善懲悪省(とアルカイダ)は大仏破壊を考えていました。
 国際情勢はアフガニスタンに厳しい目を向けるようになっていました(ビンラディンの問題と勧善懲悪省の行動が報道されたからです)。北部同盟(タジク人・ウズベク人・ハザラ人など)は立場の違いを超えてタリバンに対抗するために手を結びました。その北部同盟軍を撃退したのがビンラディンが投入したアラブ兵です。タリバンはアルカイダに軍事的にも金銭的にも依存するようになっていきました。ビンラディンは「アメリカ人を殺せ」とメッセージを発し、アフリカでのアメリカ大使館爆破やイージス艦「コール」への自爆テロはビンラディンの指示によるものと考えられました。アルカイダの影響で勧善懲悪省のパトロールは大臣さえ怯えるほどに激化し穏健派(国際協調派)の人間は左遷され、そして2001年となります。大仏破壊の計画を聞きカブールを訪れた大使たちは外務大臣から「そういう動きがあることは認めます。でも、タリバンがそれを望んでいるのではないのです」と言われます。
 ついにオマルが大仏破壊を宣言した直後、日本・フランスの外交官や高名なイスラム法学者たちが翻意のためにアフガニスタンに入ります。しかしタリバンは説得に応じません。さらにアナン国連事務総長までもが説得に乗り出そうとしますが、その直前に大仏は爆破されました。国際社会はアフガニスタンを見捨てます。しかしそれは、9.11への序曲でした。
 
 イスラムへの絶対的な信仰心とアフガニスタンの長い歴史と文化への愛着を持ち、救国の理想に燃える若者たちが、純粋さゆえか無学ゆえにか海千山千のずるい「大人」にいいように使われるようになってしまった、と書くと単純化しすぎでしょうが、それでもそう言いたくなる痛々しいお話です。本書にあるアフガニスタン人のことば「我々は孤立していて誰も助けてくれない。世界は無関心だ。だが、このまま無関心でいると、世界に大惨事が起きる。そうなって初めて、人々はアフガニスタンに目を向けることになるんだ」は、こちらの心にも痛いことばです。どこかで適切な介入があれば、今日の世界はこうはならなかったかもしれないのですから。
 
 
9月19日に読んだ『コーランを知っていますか』にコメントをいただいた論2さんの発言の中に紹介されていた本です。
 
 
8日(土)家庭から失われた生老病死
 生老病死は言わずとしれた仏教の四苦です。「生」は人生や生命の生ですが、それを出生の生と読み替えると、この四つは家庭から失われたもの、とすることができます。
 かつて人は、家庭で生まれ育ち生活をし老い死にました(もちろん例外もありますが)。しかし現在の日本では、人は病院で生まれ学校と塾で育ち就職したら家庭には寝に帰るだけで老いれば施設に行き病院か施設で死にます(もちろん例外もありますが)。よほどの大病以外は医者にはかからないのがかつての常識でしたが、今病院は満杯です。
 特定個人の負担が大きすぎますから老人介護や病人の看病を家庭に抱え込まなくなったのは良いことだとは思いますが、ともかく家庭の機能が昔とは大きく変質していることは確かでしょう。少なくとも子どもを育てて生活力を与える(社会生活を学ぶ、自立できる力を育てる)場としての働きはひどく弱っているように思えます。子どもの多くは生老病死を以前ほど目撃せずに育つのです。
 
 逆に家庭に押し込められる傾向があるのが、幼児のしつけでしょうか。かつて子育ては皆でやるものでした。子どもが子どもを負ぶって子守りをしているのは普通の光景でしたし、じいちゃんばあちゃんだけではなくて近隣の人たちも子育てに関与していました(それはそれでお互いうっとおしかったかもしれませんけどね)。しかし今、赤ん坊から幼児期の責任は、家庭の中、それも母親に限局して押しつけられる傾向がありません?
 公共の場で不作法な子どもの姿を見て「親の顔が見たい」と言う人は「気になるのならご自分で注意したら?」と言われたら「親に逆ギレされたら損だから」とかなんとか言い訳をして逃げていくでしょう(あるいは発作的に怒鳴り散らして自分の感情を発散させるだけでおしまいかな)。それは私には、関与する責任を放棄してでも結果だけは享受したい、という態度に見えます。
 ……ということは、家庭だけではなくて生活に関して社会の機能も弱っている、ということなんでしょうか。
 
 別に「昔は良かった」などとほざくつもりはありません。ただ、昔にも良かった点はあるだろうからそれは家庭や社会の変質の過程の中でも残せたら、と願うのですが……
 
【ただいま読書中】
ルーシーの膝 ──人類進化のシナリオ
イヴ・コパン著、馬場悠男・奈良貴史訳、紀伊國屋書店、2000円(税別)
 
 人類は、階段を一歩一歩のぼるように直線的に「進化」してきたのではありません。ダーウィニズムにしたがい、様々な環境に合わせて様々な適応と放散と絶滅を繰り返すことで現在のヒトが生き残っているのです。
 今から500〜600万年前、前人類(猿人)が誕生し、アルディピテクス属やアウストラロピテクス属など少なくとも5つ以上の属に分岐しました。その中から300〜200万年前にヒト(ホモ)属が誕生しその中で8つの種が分岐します(ホモ・ネアンデルターレンシスとかホモ・エレクトゥスなど)。20〜15万年前にホモ・サピエンスがアフリカで誕生し、これが全世界に拡散していくことになります。その他はすべて絶滅し、ただ化石が残るのみです。
 
 「ルーシー」とは「ルーシー・イン・ザ・スカイ・ウィズ・ダイアモンズ」のルーシーです。貴重な化石を発見した歓びでチームの面々がビートルズのこの曲を大音量でがんがんかけて祝ってそれにちなんで化石がルーシーと名付けられました。なんと318万年前のアウストラロピテクス、20歳前後の女性の骨52個の化石です。その研究の成果の一つが、表題となった「膝」です。ルーシーの膝関節は柔軟で不安定で、二足歩行もできますが(これは骨盤の研究からわかっています)樹上生活もできるものでした(それは上肢の関節が頑丈でぶらさがりに耐えるものであることも根拠となっています)。
 ルーシーは一種の社会的ブームを起こします。人類最古のご先祖様(それも美人)が見つかった、といわんばかりの。それはネアンデルタール人を「人類の失敗作」扱いした19世紀の風潮の裏返しのようですが、著者は冷静に「最古でもないし、直系の先祖という保証もない」と述べます。ルーシーに関する芸術家の作品も紹介されていますが、300万年前まで「ヒトとしての自分の生命」がたどれることのインパクトと、ルーシーがすでに死んでいることから自分の死をみつめることまで、様々な影響をルーシーは人に与えているようですし、さらには「ルーシー・コンプレックス」(精神科)「ルーシー症候群」(スポーツ医学)なんてものまで登場しているそうな……
 
 本書の一章から六章までのタイトルを列挙します
  「前人類」      人間以前の人類の歴史
  人類         人類と人類の歴史
  歴史的展望      人類史の歴史
  自伝         私の人類学の歴史
  化石としてのルーシー 人類史の歴史のヒロインの歴史
  象徴としてのルーシー 人類史のヒロインの歴史の歴史
 
 これだけで著者がただの人類学者ではないことが見て取れます。あとがきも洒落てますよ。自分の子どもカンタンに対する呼びかけの体裁なのですが……「高い倍率が設定できる顕微鏡で、おまえの皮膚をみてみよう。そこには星を構成する原子と同じ原子がみえるだろう。顕微鏡の倍率を少しおとしてみよう。そこには、約四〇億年前の空中に浮遊したか、水底の粘土の薄片のあいだに付着していた分子と同じ巨大分子が見えてくる。細胞は一〇億年前には、機能分化と組織化が一段と進んだ。……(中略)……おまえは、いま二〇本の乳歯があるが、前歯と奥歯にわかれている。これらは、三億年前のおまえの先祖である哺乳類型爬虫類に起源を発するものである。皮膚の表面をさわってみよう。柔らかい産毛を感じるだろう。これは、二億年前にウロコから変わったものだ。……(中略)……われらは、疑いもなく宇宙の一部である。それにしても、おまえが属する人間と呼ばれる生き物は、いったいなにものなのだろうか」
 
 
9日(日)Y染色体
 天皇の女帝がOKかどうか、で議論がされているそうですね。私はどっちでもいい派ですが、どちらにしても今の一夫一婦制で男系制度絶対維持は無理だろうと思ってます。だって、徳川幕府の将軍なんて、主な仕事が後継ぎを残すことでそのために大奥に女性をたんと集めておいて、それでも自分の直系男子にきちんと将軍職を継がすことができたのはせいぜい連続三代です(ちょうど良い一覧を昔教えてもらったのですが、urlが残念ながら不明)。結局親戚から養子をもらって跡継ぎをしなくちゃいけない例が頻発でした。まして一夫一婦だと不妊の確率が1割、できた子どもの男女比は1:1。順調に永遠に男子相続ができる数学的確率は代を重ねるにつれてどんどんゼロに近づきます。
 それでも徳川幕府は「徳川家康のY染色体」は伝え続けることには成功しました。男子が多いときに御三家とか御三卿という予備遺伝子プールを作っておいたのが成功の秘訣でしょう。だけど現在の天皇家で今から御三家を創設するのは無理ですね。
 いっそ「特定のY染色体」ではなくて「特定のミトコンドリアを伝える制度」として母系制度に鞍替えします?
 
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項羽と劉邦 上巻』『項羽と劉邦 下巻
鄭飛石(チョン・ビソク)著、町田富男訳、光文社、1997年、1720円(税別)(上下巻とも)
(鄭の字は本当は左上がちょんちょんではなくて屋根のような形です)
 
 私がはじめて『項羽と劉邦』を読んだのは、陳舜臣さんの小説だったか横山光輝さんの漫画だったかは忘れましたが、とにかくその面白さには心を奪われました。ですから本書は、何が書かれているかではなくてどのように書かれているのか、に興味を持って読み始めました。何しろ素材が良いですから、どんな調理をしても取りあえずは美味しい料理ができるはずです。逆に言うと、読者によって簡単に他の作品と比較されることで歴史小説家にとって自らの力量が厳しく問われるわけで「ちょっと歴史に詳しい」程度では手を出さない方が良いとも言えるわけ。(ちょっと意地悪な読者ですね)
 
 著者は項羽も劉邦もスーパーマンではなくて運命によって大きな役割を与えられてしまった等身大の人間とします。即決断交で残酷なことでもできる項羽と、茫洋として戦も上手ではなく「わからんなあ」が口癖の劉邦を明確に対比し、さらにその周辺に集まる人々がいかにバランス良く機能して両者をもり立てていくか、を丁寧に描きます。
 項羽の側では、まず伯父の項梁、ついで亜父と呼ばれた范増が血気にはやる項羽を押さえる年長者の役です。さらに鯨布や項伯が活躍します。
 劉邦は50歳になってから活動を始めたわけですから年長者の役は要りませんが、張良やはん(「焚」の林の間にメが二つ縦に並んでいる)かい(くちへんに會)、蕭何に韓信とタレントが豊富です。おっと、呂雉(呂后)も忘れてはいけません。
 はじめは秦を滅ぼすために一緒に戦っていたのに、秦の滅亡後は天下をかけて何回も戦い、ほとんど常に劉邦の方が負けるのに、結局最後は項羽が滅びて劉邦が漢を立てる……まったく、何度読んでも理不尽(?)で魅力的な物語です。その過程で大功があった韓信が「走狗」扱いで不満を募らせるのも「わかるなあ」と言いたくなりますが、ここのところは劉邦の側からもう少し書き込んで欲しかったと思いました……というか、全体的にもう少し書き込んでよ、と言いたくなるところが多いのですが(特に最後あたり、四面楚歌や虞や虞や汝をいかんせん、のところなんかもっと盛り上げても良かったと思います)、蘊蓄自慢にもならずバランス良くあちこちに目配りして書いてあって、『項羽と劉邦』入門編としては良い本なのではないでしょうか。
 
 
11日(火)野球カイカク
 始めにお断りしておきますが、今日は最初から最後まで野球の話です。野球に全然興味のない方は、未知の単語が断りなくばんばん出てきて、読むとお気の毒かもしれません。
 
 昨年はパリーグ二位の西武がプレイオフで三位の日本ハムと一位のダイエーを破ったため「リーグ優勝」となりました。なんか釈然としなかったのですが、今年も同様に二位のロッテがまず三位の西武を破りました。これでソフトバンク(昨年のダイエー)が敗れたら、二年連続「パリーグの覇者は二位」ということになります。
 しかし、年間成績が三位でも下手するとリーグ優勝になっちゃう制度って……一年間ずっと「ペナント」レースを戦う意味はなんです? 最後の問題だけ得点が十倍になるTVのクイズ番組じゃあるまいし、最後の一勝がそれまでのペナントレースの一勝の十倍の価値があって良いんでしょうか? 「ペナントレースを面白くするため」という名目があるのでしょうけれど、人為的に一発逆転を仕組むのは、なんだか釈然としません。入試で「試験の成績で選択します」と言っておきながら、最後の問題が「隣の人とジャンケンしてください。二回連続で勝った人には50点プラス!」となっているような感じ。
 どうしてもプレイオフをしたいのなら、組織改革を組み合わせてプレイオフが必要な形にすればいいんじゃないかなあ。たとえば三地区制度です。今の12チームを東日本地区・首都圏地区・西日本地区に分けちゃうんです。
 西日本は、ソフトバンク・広島・オリックス・阪神。首都圏は、ロッテ・横浜・読売・ヤクルト・西武。東日本が、日本ハム・楽天……中日を東日本というのはちょっと無理っぽいのですが東日本地区が二チームというわけにもいかないので、ここは我慢してもらいましょう。
 対戦は各チームの移動が公平になるように総当たり制(地区は関係なし)にして一リーグで年間戦いますが、成績は各地区毎にまとめて、勝ち星で地区優勝を決定します。これで三チームがプレイオフに出場決定。あと一チームはワイルドカードで、各地区の二位の中から最高の成績のチームを選出して、三地区の優勝チームと合わせた四チームでプレイオフと日本シリーズを戦うのです。(あるいは二位のチームを三つどもえで戦わせて代表選考、としても良いでしょう) これだったらプレイオフの必然性が生じます。
 問題は、オールスターです。しばらくは「旧セ」「旧パ」でも良いでしょうが、世代が交代したらセとかパはわからなくなるでしょうから、何かうまく二つに割る手がないでしょうか?
 
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イチロー、聖地へ
石田雄太著、文藝春秋、2002年、1238円(税別)
 
 イチロー選手が大リーグに移籍した最初の一年間を追ったルポです。著者はオリックス時代からイチロー選手本人や奥さんとも人間関係を築いていたようで、それなりに突っ込んだインタビューも時々出てきます。
 突然の移動発表、キャンプ、公式戦、9.11テロ、そしてワールドシリーズへの戦い……読んでいて「ああ、そうだった」と改めて思い出すシーンがてんこ盛りです。
 
 「イチロー」がアメリカで名をとどろかせるきっかけの一つとなったライトからサードへの「レーザービームのような返球」のシーンは日本でも何回も繰り返し放映されましたが、それを見て「あんなのグリーンスタジアムでイチローは普通にやってたよ。何を今さら騒いでいるんだ?」と呟いた古いファンがいたことを私は忘れません。アメリアでやったら(アメリカ人に評価されたら)「すごいプレイ」と大騒ぎするけれど、同じプレイを日本のパリーグでやっていたら無視していた日本のマスコミに対する痛烈な皮肉です。きっと彼らは今もパリーグで行なわれているかもしれない「すごいプレイ」は無視しているんでしょうね。
 アメリカ「後」のにわかファンやにわかマスコミのくだらない質問に対してイチロー選手の返答が一見素っ気ないのは無理ないと思います。「1たす2は3ですが、1たす1は2ですよね?」という質問に対しては「10進法ではそうですが、それが何か?」としか返せませんよねえ。
 
 アメリカでの環境は、競争や日程は厳しいけれどプレイそのものは快適にできているようでした。その原因としては、ファンやマスコミが成熟していること、移動環境が快適(専用機やチャーター機で無駄な時間なくすっと移動できる)、リスペクトの存在などが本書では挙げられています。つまりはそれを裏返したらそのまま日本……しかし、イチロー選手がつぶやいた「(日本での)相手ベンチやキャッチャーからのいやがらせ」って、どんなのでしょう? 「未熟なピッチャーの死球攻め」の方はTVで見ていてもわかるんですけどね。まあ「未熟」というより「野卑」と言った方が良いとは思いますけど(「打たれたらイヤだからぶつけてやる」という言い分は、「三振をくらうくらいなら、その前にマウンドに駆け寄ってバットで投手を殴ってやる」というヘボ(かつ野蛮)な打者の言い分の裏返しでしかありませんから)。
 
 そうそう、オリックス入団当時、打撃フォームを変えない限り使わない、と広言してその通りイチロー選手を二軍におとして使わなかったコーチって、誰なんでしょう? いや、イチロー選手は潰されずに頭角を現すことができたけれど、このコーチは他にも伸びるべき芽を摘んでいるんじゃないかという気がするんです。選手が自分のスタイルにこだわってその結果伸びる(伸びない)は自己責任ですが、コーチが自分のスタイルにこだわって選手を潰すのは私には許せません。選手は成績で淘汰されるのですから、指導者も厳しく淘汰されるべきでしょう。「伸びる伸びないは結局本人次第」? だったらプロにおける指導者の存在意義って、何? 鳴り物入りで入団してきて、毎年フォームが変わって結局一軍に定着できない某選手を見る度、私はひそかに涙しているのです(これは私情です)。
 関連して私が気になるのが「流し打ち」です。たとえば今年活躍しているヤクルトの青木選手も流し打ちが多いと新聞などに書かれているのですが、私が画面で見る限り彼は流して打っているようには見えません。きちんと振り切るのだけど、球がバットに当たる位置の微妙な前後関係や、当たるときのバットの角度によって、たまたま左方向に打球が飛んでいくだけに私には見えたのです。本書でもイチロー選手は「遊撃の頭上をスライス回転で襲う場合と、それとは違って強く打つ場合とで打ち方は違う」という言い方をしていますが、単に打球方向だけで判断するのではなくて、どのような打球か(意図と結果)をきちんと評価しないと間違えるんじゃないかなあ。「安打かアウトか」「打球方向が右か左か」しか見ない日本のスポーツマスコミにそこまで求めるのは、酷?
 
 
12日(水)特殊エージェントの機密情報
 職場に見るからに怪しげな封書が届きました。郵便番号は枠からずれているし切手の張り方は雑だし、差出人は「○○問題研究調査審議会 審議委員 ○木○男」と「はったりの利いた名称でしょ。お願いだから封を切って」と言わんばかり。さてさて、どんな詐欺メールかな、と(封を切る前から決めつけて)開けてみましたら、のっけから「私共は特殊エージェントです」……わははは。で、何を売りたいのかな。「機密推薦入学枠」……よーするに裏口入学ですね、国公私立12校の24枠を確保したけどちょっと頑張りすぎて数が多く政界筋だけでは埋まらないので残りを一般にも開放する、んだそうです。わはははは。
 連絡先の電子メールアドレスは???@yahoo.co.jpです。特殊で機密だから詳細は説明できない。双方の安全のために封筒に書いてある差出人は偽名、だそうです。
 これを信じて連絡する人はどのくらいいるんでしょう? ただ、一人でもいたらでかいんでしょうね。数百万円?それとも一千万円以上? 捨てアドレス使った電子メールと違法口座への銀行振り込みだったら足がつきにくいし、なにより「被害者」が訴える可能性が低いところが美味しい商売なんでしょう。
 しかし、「特殊エージェント」が一般郵便でその存在を広く公開しますか?
 
 私の名前と役職は正確に書いてあるので、商売関係の名簿を手に入れたのでしょうが……でも子どもが受験する年齢かどうかはどうやって知ったんだろう。裏口入学よりそっちの方に私は興味があります。名簿のクロス検索? それともそういった用途の特殊名簿が売られているのかな? それともまさか塾の名簿が流出……はないでしょう。役職は届けてないですから。
 以前の詐欺恐喝郵便(「お前が職場でセクハラをしていることをばらされたくなければ連絡しろ」)の時はすぐ警察の生活安全係に連絡しましたが、さて、こんどはどうしようかなあ。なにしろ具体的な情報が何一つ書いてありませんから犯罪未満なんですよねえ。
 
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ケストナー ──ナチスに抵抗し続けた作家』原題:DIE ZEIT IST KAPUTT(壊された時代)
クラウス・コードン著、那須田淳・大本栄訳、偕成社、1999年、2800円(税別)
 
 先週読んだ『抵抗者たち』に、『エミールと探偵たち』だけは許されたがあとの著作はすべてナチスに禁じられ、それでも亡命せずにドイツに留まり続けた(そして生き抜いた)作家としてケストナーがちらりと触れられていました。私にとってのケストナーはエミールや『点子ちゃんとアントン』『飛ぶ教室』『ふたりのロッテ』など児童文学書の作者以外の何者でもなかったのですが、う〜む、私の世界は狭い、狭すぎる……ということで図書館から伝記を借りてきました。
 
 一言で言ったら複雑な作家です。ユーモアと風刺と理想とモラルと……というととっても立派な人間のようですが、酒とタバコが大好きで浮気性でマザコン……才能と人生に対する姿勢は普通ではないけれど、人間としては普通の人間(あるいはダメ人間)ではありませんか。普通ではない出生の秘密を持ってはいますけれど。
 ドレスデンで生まれ育ち第一次世界大戦末期に召集されますが心臓を悪くして前線から下げられ、戦後、詩・小説・評論・脚本・児童文学などで売れっ子作家となります。しかしナチス批判をしていたため1933年ナチスが政権を取った直後の焚書で『エミールと探偵たち』以外はすべて焚書または禁書となり、さらに執筆活動の禁止。誰もが亡命すると思っていたのに彼はドイツに留まり「目撃者」であり続けます。ゲシュタポには二度逮捕されますがいずれも奇跡的に釈放となります(「反ナチ」と密告されただけであっさり死刑になる時代でした)。
 そういったケストナーを非難・攻撃する人は多いようです。たとえば……
・ドイツから亡命しないことにたいして「ナチスに魂を売るつもりだ」と非難。
・ナチスからは「反ナチスだ」と何か失言があれば即座に殺そう、と狙われ続ける。
・ナチス政権下で映画「ほらふき男爵 ミュンヒハウゼンの冒険」の脚本を書いたことを「ナチスの文化政策に協力した」と非難される(映画の中にどのようなメッセージが仕込まれていたか、は無視)。
・戦後「どうしてナチスを告発する長編小説を書かないんだ」と批判。
 
 ケストナー自身はストレートな非難や攻撃はしません。一度(あるいは数度)屈折させたことばで自身の思いを届けます。心は凛として、でも生きる姿勢は飄々と、と表現すればいいのでしょうか。こういう生き方はものすごくしんどいと思います。でも、無責任な言い方をすれば、恰好いいなあ。権力に阿る「実用的」な生き方よりもね。
 
「傷心を演じるのはやめなさい。
 生きながらえよ、悪人どものじゃまをするために!」
ケストナーの詩の一節です。なんだ、ストレートじゃないの。こんな人の言葉がわかりにくいと批判した人は、その人の心が激しく屈折していたのかも。
 
 ドレスデンといえば、私はカート・ボネガット(・ジュニア)の『スローターハウス5』を思い出します。「ヒロシマ以前の最大の無差別破壊」と言われた爆撃を受けて徹底的に破壊された街です。世界をもっと良くするために、爆弾をもっと使うことと第二第三のケストナーを見つけてその本を出版することと、どちらが有効なんだろう?
 
 
13日(木)400万円のゴミ袋
 東京のゴミが燃やせるゴミと燃やせないゴミに分別されるようになり、燃やすためのゴミ袋に熱量を抑えるためと称してカルシウムが添加されたのはいつのことだったでしょうか(分別が面倒とTVで言っている人を見ながら「燃えるゴミ/燃えないゴミ、の分別くらいで何言ってんだか。私らはずっと五種類の分別やってるんだぞ」と思ったのは内緒です)。ゴミ発電の場合はある程度の熱量が必要なのでプラスチックも何割か混ぜ込む、なんて話がドイツから伝わってきたのはその後のことだったと記憶していますが、今のゴミ焼却の基本ポリシーはどうなっているんでしょう?
 
 東京の話は置いといて、我が職場もゴミ袋が有料化されてわたわたしています。これまでは専門業者に金を払って処理してもらっていたのですが、その過程で市指定のゴミ袋(もちろん有料)に小分けにして詰め込む作業が義務づけられたのです。計算するとそのゴミ袋代が年間約400万円(プラス小分けにする人件費)。市からみたらゴミの処理代でしょうが、こちらから見たら税金の上乗せです。ということでゴミの減量大作戦が始まりました。紙のゴミは、資源ゴミ(もちろんこれは処理にお金がかかりません)と捨てるゴミに分別。機密書類もシュレッダーにかけるもの(かさが爆発的に増えます)とかけなくて良いもの(専門業者に任せる)ものとをもう一度見直します。おかげでごみ箱がいくつも並んで、場所をとってしかたありません。ごみ箱を前に並べられた私の書類ロッカーも扉が開けにくくなって……あ゛、あの書類ロッカー、中身はほとんどゴミかもしれない……
 
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「サギサワ麻雀」「祈れ、最後まで」
鷺沢萠著、竹書房、2004年、1500円(税別)
 
 私が麻雀から足を洗って(洗ったのは手?)もう20年くらい。役も点数計算もすっかり忘れましたが一時は熱くなってのめり込んだ時期もありました(と、遠い目)。「その人がどんな人かは一緒に飲んだらわかる」と言う人がいますが、私に言わせたらそれは酔ったときの本性がわかるだけで素面の時の本性は麻雀を一緒にやるのが一番、と思ってます。決断力・計算力・記憶力・勘の鋭さ・感情の制御・公平さ(不公平さ)・運などいっぺんにいろんなことがわかりまっせ。見る目があれば、ですが。もっとも自分の本性も周囲にバレバレになってしまうのが難点ですけど。
 そうそう、麻雀をやっていると、「確率」がいかにアテにならないかもしっかり学べます。いや、長い目で見たら確率通りなんでしょうけれど、短期的には、多面待ちがカンチャンの追っかけに負けるなんて、ざらですから(しかもなぜか負けるのは必ず、自分)。
 
 前半の「サギサワ麻雀」はいろいろな雑誌に連載された麻雀(と少数のその他もろもろ)に関するエッセー集で後半の「祈れ、最後まで」は著者の死後発見された中編の麻雀小説です。
 エッセーの方は、著者(と友人)のぼろぼろの麻雀生活の告白です。
 妄想すれすれの甘すぎる期待・簡単な計算間違い・手遅れの決断・異常とも思える不運の連続・恥ずかしさに身もだえしてしまうチョンボ・幻想的な他人の心理の読み間違い・単なる注意不足・信じられない見落とし……などなど、「そんな麻雀打ってたら100万年やっても勝てないぞ」と言いたくなるむごいエピソードが次から次へと披露されて読者を襲います。いや、それが面白いの。自分がやったら悲劇ですが、他人がやったら喜劇ですもの。
 でもこれ、著者は話をある程度作ってますね。たしかに紹介されている打ち回しを見るととても上手とか豪腕とは言えませんが(わ、なんかとっても偉そうな口調だ)、それでもそこまで下手かなあ、というレベルです。だけどそのドジさが、普通の読者には「あるある、俺もこの前似たことをやっちゃったよ」と我が身に引きつけて読まれるのでしょう。
 
 開けっぴろげな口調と自虐ギャグときたら、私がまず思い起こすのは「月刊アスキー」に『……ってこんな仕事』を連載している山崎マキコさんですが……う〜ん、語彙や構成力の点では鷺沢さんが二三枚上のような……だって「たかが麻雀」で「ある若者の人生や他の人間に対する基本的な態度の本質とその変容」を語ってしまうんですぜ(おっと、鷺沢さんの口調がうつってしまったかな)。
 
 
14日(金)コスト・パフォーマンス
 医療費抑制のために、自己負担の増加・保険点数の削減、と日本政府はいろいろ算盤いじりをしています。たしかに医療費で国の財政が破綻したら困ります。でも、考えるべきは、お金の計算だけでしょうか? 検診を義務づけて病気を予防しよう(病気の治療費が大きく節約できる)という話もこの前報道されていましたが、ここでもネックは検診の費用だそうです。将来は節約できるにしてもとりあえず今検診するためのお金が余分にいりますから。
 
 WHOのページでは、各国の医療保健制度比較を行なってますが、そこで面白いのは「コスト」の評価をダブルスタンダードでやっていることです。開発途上国ではコストをかけている国の方が評価は高くなります。しかし先進国ではコストを節約している方が評価が高くなるんです。(もちろん、単に金額だけ論じるわけではありません。コストをかけた(あるいはかけなかった)「結果」がちゃんと出ているかどうかもきちんとチェックされます。これがすなわちコスト・パフォーマンスですね) ダブルスタンダードは普通感心しないものですが、WHOのこういったダブルスタンダードには素直に感心しました。
 
 ということで、日本の「医療費抑制」はそれだけではなんの評価もできません。医療費を抑制して、その結果日本人の健康が増進するのなら、それは花マルです。医療費を抑制して日本人の健康が増進して、それでも節約が足りずに国が倒産したら……それはバツです。医療費を抑制して日本人が不健康になって、国が倒産しないのは……財務省はOKでしょうけど「厚生」労働省としてはOKなんでしょうか? さて、新聞をもう一度読み直しましょう。医療費抑制の必要性については書いてありますが、あれれ、国民の健康についてはどこに書いてあります? お金をかけずにでももっと良い医療を(コスト・パフォーマンスの向上を!)、だったら誰も反対しないと思うんですけど。
 
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古美術閑話
常石英明著、金園社、1988年(二版)、1748円(税別)
 
 古美術にまつわる様々なエピソードを集めた本です。
 第一話「偶然の出会い 因縁の碁盤」……文化文政の頃、吉原扇屋の売れっ子花魁唐錦(からにしき)は碁の強さでも知られていました。それに興味を持った当時の本因坊烈元は身分を隠して登楼し彼女と一局打つことになります。唐錦が持ち出したのが入手したばかりの立派な碁盤。見た瞬間烈元はこれこそ家康愛蔵と伝えられている柳営御物の碁盤と見、譲ってくれと申し入れますが唐錦に断られます。ところが後日神楽坂の道具屋でその碁盤を見かけ喜んで買い入れて帰宅しますが、その夜碁盤の前に悲しそうな顔をした唐錦の白無垢姿がぼーっと……
 これは怪談集か、と思うとそれは早合点。第二話「はてなの茶碗 人情小咄と現代商人気質」は、落語「茶金」にもなった人情小咄をマクラに、精神科教授が古道具屋の主人に心理を見透かされて演じた安物買いの銭失いの失敗談です。ついで「掘り出し物」に関する現実の厳しいお話なども登場します。目が利かない人間は古美術には手を出さない方が良いと思い知らされます。
 戦国時代〜江戸時代の茶器の話や、競馬で儲けた金で買った坂崎出羽守成正から柳生但馬守宗矩あての手紙を酔っぱらって電車の網棚に忘れた話などを読んでいますと、古美術を買うということは、モノを買うだけではなくてそのモノにまつわる物語を手に入れることなんだなあ、と気づきます。もちろん「この壷は時価1億円だ、どうだすごいだろう」ももちろんすごいのですが、由緒来歴抜きで値段だけ誇られてもねえ、とも思います。
 
 重箱の隅をつつきますが、名を隠した客が初会で吉原の花魁と二人きりになって碁を打つ、は嘘でしょう。初見の客が一人で花魁を指名できるにはよほどのコネがないと無理のはず。さらに花魁の私室に招かれるほど親しくなるのは裏を返し馴染みになってから、のはずです。
 
 こんなの市中の古道具屋には出るはずがない、という重要文化財クラスの名物のお話もばんばん出てきますが、モノを中心に置いて歴史が語られると知っているはずの歴史がちょっと趣を変えます。まるで人間がモノのために動いているかのようにも見えてくるのです。
 あと、刀剣についても著者は詳しいですねえ。なんだか「刀に対する愛」がひしひしと伝わってきます。
 
 
15日(土)上場小説家
 真夜中の電話で大小説家T氏は叩き起こされました。真夜中と言ってもそれはT氏個人にとってであって、世間一般では朝10時と呼ばれる時間です。「Tセンセー、ニュース、ニュースを見てください」電話から聞こえる焦った声は担当編集者Rさんです。言われるまま寝惚け眼でニュースを見てT氏は目が覚めました。トップがなんと「MMファンドがT氏の筆頭株主に! 次作は経済冒険小説か?」じゃないですか。「やりましたねセンセー、ついに買い占めがかかるような人気作家です」Rさんは脳天気に嬉しそうです。「株が上がってもこっちの懐がぬくもるわけではないんだけどね。で、MMファンドって、冒険小説が好きなの?」「やだなあ、経済小説家なんだからたまには経済欄も読んでくださいよ。MMファンドの総帥MMさんが大の冒険小説好きで、筆頭株主になったら必ず経営方針に『冒険小説』を挙げるんです。たとえば時代小説の大御所Xセンセイの『古典復興』」「ああ、あのクズ歴史冒険小説」「純愛小説の大御所Yセンセイの『恋の半熟熟熟卵』」「純愛冒険小説だったっけ、これまたごみ箱直行作」「センセーは厳しいなあ。どれもヒット作ですよ」「話題で売れただけだ。で、こんどは俺が筆頭株主の意向を聞く番、てことなんだな?」「まだ何も言ってきてませんけどね」「やれやれ、小説家の株公開、なんてするんじゃなかったかな。ところで、なんでXとYは『センセイ』で俺は『センセー』なの?」
 
 売れない時期からT氏の才能を信じて応援してきた草の根株主たちが「人気が出てからやって来た奴が金にものを言わせてこれまでの経営方針を揺るがすのを許すな」と結束して株主総会は大荒れになり、それをネタにしてT氏がベストセラーをものするのはもう少し後のお話です。
 
 ……今日は日記じゃなくてショートショートもどきになっちゃいました。てへ。
 
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エミールと探偵たち』ケストナー少年文学全集1
エーリヒ・ケストナー著、高橋健二訳、1962年第1刷(1988年第31刷)、1300円
 
 『抵抗者たち』『ケストナー』ときたら次はやはり本書でしょう。図書館で手に取ると、子ども時代の記憶が私を包みます。この本は、小学校の図書室ではなくて児童図書館所蔵のを読んだはず、ということまで思い出します。(母親が児童図書館のグループ貸し制度を利用して、月に一回15冊だったか20冊をまとめて借りてきて玄関の本棚に並べて近所の子に貸すことをやっていました。一番熱心な利用者は、当然私です。その程度の冊数では数日で読み切ってしまって「早く次のを借りてきてくれ」とうるさかったそうです)
 第一次世界大戦後世の中が落ち着いてきた頃、ノイシュタットからベルリンに一人で向かうエーミールはベルリンのお祖母さんへとお母さんから託された虎の子120マルク(プラス帰りの旅費20マルク)を汽車の中で盗まれてしまいます。駅で泥棒を発見したエーミールはとっさにあとをつけ、広場でベルリンの少年たちに出会い、そこで即席の探偵団が結成されます。
 腕の良い美容師のエーミールの母はケストナーの実母そのものでしょうし、貧乏にくじけずに勉強や家の手伝いを頑張るエーミールはケストナー本人。実生活でも影が薄かった父親は……いません。母子家庭の設定です。でも「エーミール」という名前は父親の実名です。ここにいたんだ、良かった(なぜ安心する?)。「ケストナーさん」も意外なところに登場します。
 
 お金の盗難、追跡、奪還、とわくわくする「冒険」物語ですが、大人になって読むと本書の本題は「子どもたち」ですね。様々な性格の子どもたちがそれぞれの名前を持って、生き生きと走り回ります(あるいはじっとしています)。本書が子どもたちに(そして大人たちに)受けたわけがわかりますし、ナチスがこの本を禁書にできなかったわけもわかる気がします。
 
 
16日(日)結婚記念日
 今日は私の両親の結婚記念日だと家内に指摘されました。どうしてあなたは私の両親の結婚記念日まで知っているんですか? 私は自分の親のどころかあなたの両親の……げほげほげほ。
 「おめでとうの電話はしないの?」「したい人がしたらどうでしょう」「私は先日しました」……はい完敗です。特大の白旗です。
 電話の母親の声がはずんでいます。「まあ、ころっと忘れていたわ、ありがとう」いへいへ、プレゼントもなくて申し訳ないことです。せめて孫の声を聞かせることで喜んでくださいませ。……えっと、何十何周年だろう? 私の年に1を足せば良いのかな?
 
【ただいま読書中】
物語 大英博物館
出口保夫著、中央公論新社、2005年、780円(税別)
 
 著者はこの40年間、ほぼ毎年渡英し、大英博物館のリーディング・ルーム(図書や資料の閲覧室)で多くの時間を過ごしてきたそうです。そのせいか、大英博物館の所蔵品(特に美術品)についてはまるでパック旅行の観光客のようにさっさと通り過ぎてしまい、リーディング・ルームについて多くのページを割いています。
 大英博物館は個人の所蔵品からスタートしました。1660年に生まれたハンス・スローンという医師が個人で集めたコレクションを死後国に寄付(ただし、娘二人に1万ポンドずつ頂戴、という交換条件付き)したのが始まりです。医師と言っても、ジャマイカ総督の侍医としてジャマイカに行ったら学術調査をしてせっせと博物を収集し、最終的には世界中からの8万点のコレクションにしたというのですから、タダモノではありません。寄贈を受けた政府は、宝くじを発行して得た資金を使ってさらに別の人の書籍コレクションも合併させ、収蔵および展示を始めます。
 大英博物館のポリシーには啓蒙主義の影響が色濃いようですが(啓蒙主義ギャラリーも存在しています)、その主任学芸員の「理性の光によって導かれる経験主義的方法論を通して、人は知識と普遍的真理に近づき、無知や迷信から解放されるだろう」ということばと、入場無料(リーディング・ルームでの資料のコピーも無料)という実践との組み合わせには、文化大国の覚悟とも言えるものを私は感じます。啓蒙主義も誤用する(「無知な大衆」を馬鹿にする態度をとる)と鼻持ちならないものですが、今のところ英国はそんなお粗末なことにはなっていないようです。
 リーディング・ルームの常連と言えば有名なのはマルクスですが、その他の人もたくさん取りあげられています。南方熊楠ももちろんその中に含まれています。意外なのは、夏目漱石があまり利用していないことです。彼は生活が苦しいとしきりに訴えていましたが留学費は年間180ポンド支給されていました。大英博物館の職員の年俸が62〜150ポンドの時代ですから、書籍に60ポンドも使ったりせずに無料のリーディング・ルームを利用していれば生活はもっと楽にできていたはず、と著者は指摘します。
 
 「先進諸国の博物館は、植民地から略奪した美術工芸品で成立している」という言説があるのだそうですが、それは必ずしも真実ではない、と著者は述べます。もちろんギリシア政府のパルテノン神殿の彫刻返還要求についても触れていますが、200年前ギリシアを支配していたトルコ政府の許可を得てエルギン卿がイギリスに持ち出した、と「事実」を述べるに留めます。
 私としては、どこにあっても良い保存がされ公開されるのだったらOKなので、当事者同士で理性的な話し合いを続けて欲しいと思います。当時合法的な手続きが取られたのだったら、現代も今の法に則って合法的な手続きをして欲しいからです。
 
 
17日(月)百分の一の新しさ
 一から十まですべて新しいことを述べたら、誰もついてこないでしょう。だって誰も知らないことを誰も知らないことばで述べるのだから。一から九まで皆が知っていることを述べて、その延長に一つだけ新しいことを入れたら、あるレベル以上(一を聞いて十を知るレベル)の人は理解できるでしょうが、ほとんどの人にはやはりちんぷんかんぷんに近いでしょう。一から九十九まで皆が知っていることを述べて最後の一だけ新しいことを入れたら、ほとんどの人には「おお、なんて新しい意見だ」と受け入れてもらえる……かもしれません。述べている方としては欲求不満が貯まるでしょうけど。
 
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モーツァルトは誰に殺されたか
真木洋三著、読売新聞社、1989年、1359円(税別)
 
 現代日本に生きる漫画家の女性とその父親が、モーツァルトを毒殺したのが誰かを推理する、という小説です。説明セリフを二人が分担してしゃべるのは、なんか不自然ですがまあヨシとしましょう。だけど、モーツァルトが共同墓地に葬られたのが犯人決定の決め手って……ちょっと待って。当時の風習で、貴族以外の人間が共同墓地に葬られるのはそんなに珍しいこと? 本書でもその直前のページに「食事をするときにも料理人と一緒の身分の低い扱いしか作曲家はうけなかった」と書いてあるでしょう。いくら売れっ子作曲家でも(そして現代では神格化されているとしても)当時の身分の壁はとっても分厚いものだったと私は想像するので、「モーツァルトが共同墓地に葬られた事実」はそれだけでは何も物語っていないと思うのですよ。まして共同墓地に葬って墓碑を建てなかった理由が「毒殺死体を解剖されて証拠が見つかったら困るから」って……それはあまりに現代的な発想です。18世紀の法医学に毒物分析のために墓を暴くことを期待するのは、過大評価です。ミシェル・フーコーの『臨床医学の誕生』を読むと18世紀に病理解剖が盛んに行なわれたのはたしかですが、それは「病気」と「臓器」の関係を明らかにするためであって、毒物検出などは「化学」が「科学」になった19世紀以後まで待って欲しい。当然「証拠隠滅」のために死体のありかを隠そう、なんて発想をそれ以前の人に期待するのはやり過ぎです。
 私はこういう「二十世紀人にとっては当然の発想」を過去の人に期待する論調が、どうも好きになれません。さあ、私はこの本を最後まで読み切ることができるでしょうか?
 
 おや、空耳かな、「モーツァルト!」というサリエリの叫びが聞こえます(映画「アマデウス」のオープニング)。
 
 
18日(火)公人と私人
 公約に基づいた行動で、公用車に乗って行って、周りにマスコミがへばりついている状況は、これは私人の行動とは言えないでしょう。私服を着ていようとお賽銭がポケットマネーだろうと、その状況で周囲がその人をどう扱うか、で公私が決まると私は考えています。本人がどう考えているか、ではなくて。
 どうしても私人として行きたいなら、誰もいない(あるいは誰か周りにいても全然注目されない)状況でマスコミも周りにいなくてひっそりとお参りする、それだったら私人の行動でしょう(たとえば私が神社に参拝するときはそんな状態です)。
 昼間は無理。だったらたとえば丑三つ時だったら神社はひっそりしているかな? ただ、他人に見られたら別のものに勘違いされるかも。
 
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王妃に別れをつげて
シャンタル・トマ著、飛幡祐規訳、白水社、2004年、2200円(税別)
 
 マリー・アントワネット王妃の朗読役(王妃に本を朗読する役職)の補佐を務める女性(架空の人物)が本書の語り手です。著者によってアガートという名前は与えられていますが、それは重要ではありません。
 ベルサイユ宮殿に住むアガートは、朝6時の第一ミサから小引見の儀、大引見の儀などぎっしり詰まった儀式を毎日毎日こなしています。仕事はほとんどありません。王妃は読書をあまり好まないのです。それでも王妃が眠れない夜には睡眠導入のために突然呼び出されることもありますが。
 こうして世界から分離され、同じ日々を永遠に繰り返し続けるのか、という思いの中を生きていたヴェルサイユの人々は1789年7月14日〜16日の3日間で運命が激変します。フランス革命の嵐です。本書はこの三日間を(アガートの目から)精密に描写します。とんでもなくリアルです。
 この三日間の直前、11日にネッケルが罷免されていました。三部会で第三身分を優遇しようとして貴族たちの抵抗に遭い罷免されたのですが、これが民衆の怒りをかいバスティーユ襲撃につながります。しかし罷免は宮廷の人たちにとっては噂話のネタの一つに過ぎず、せいぜい次の財務大臣が誰か、に興味が示されるに過ぎません。バスティーユ陥落でさえ、15日早朝にその知らせで王が睡眠を妨害されたこと(日常にあるまじき事態!)が噂になる程度です。
 15日に第三身分議員が集まっている球戯場に王は徒歩で出かけ(王としてあるまじき行為です)、民衆の喝采を浴びますが、それはしょせん群衆の熱狂でしかありませんでした。その夜、宮殿からは召使いや衛兵たちの姿が消え始めます。王妃も恐怖に駆られて脱出の準備を始め、宮廷の人々は流言と憶測を元に夜を徹して議論を続けます。
 16日、王は早朝からの会議で逃亡を拒否します。しかし「外からの噂」によって廷臣たちはあたふたと逃げ始めます。王妃の親友も上手くチャンスをつかんで王と王妃から旅券などをもらい国外に逃亡しようとします。アガートはその一行に同行することを王妃から命じられます。王妃の親友の影武者として。
 
 「名前は重要ではない」とさきほど書きましたが、本当の主人公は「ヴェルサイユ宮殿の生活」だと感じたからです。人々に羨ましがられる宮廷の生活。優雅な女官たち。敬愛される王妃と王。
 しかしその一方、宮廷に立ちこめるのは室内用便器から立ちのぼる悪臭、蚤と南京虫とそれに食われた人々の肌、我が物顔で走り回るネズミの大群です。
 そしてもう一つの主人公は、アンシャン・レジュームの終わりに立ち会わなければならなかった人々の悲しみでしょう。
 フランス革命に興味のない人にも、お勧めです。
 
 
19日(水)移動中の読書
 旅行で移動中読書するのは若い頃からのデフォルトなんですが、問題は何を読むか、です。薄い小説だとあっという間に読み切ってしまうので分厚いのを選ぶと……重い。では文庫本、は眼が丈夫だった頃の話で、今は照明が薄いところでは文庫本もきつくなりつつあります。小説よりノンフィクションとか専門書とか中身が重いものの方が時間が長くつぶせますが、あまり重いと旅疲れと重なって頭が再起不能になりそうです。注文が多い読者です。
 今回盛岡に移動するのに『さもなくば喪服を』を候補の一つとしたのですが(中身が充実しているから読むのに時間がかかるし、それなりに分厚いし、でも文庫本だからかさばらない)、20年以上前の出版のため紙が変色していて文字とのコントラストが落ちてます。試しにちょっと薄暗い蛍光灯の下で開いてみたら、読めません。残念ながら、落選としました。
 
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方法序説・情念論』 中公文庫
デカルト著、野田又夫訳、中央公論新社、1974年初版/1999年21版(ママ。こんなに改訂するとは思えないので、21刷の間違いでしょう)、629円(税別)
 
 私だってたまには固い本を読むんだぞ、と見栄を張るために手にとった……わけではなくて、上に書いたような事情で、今日は移動時間が6時間半くらいあるために「とにかく時間がかかりそう」を最優先として選択してみました。狙いは当たって、90ページの「方法序説』だけで仙台までの時間はきれいに潰れ、今この文章は東北新幹線の中で打ってます。
 私にとってデカルトと言ったら「コギト・エルゴ・スム」(有名な「我思う、ゆえに我あり」)とデカルト座標(これまた有名なX軸とY軸の平面)です。ついでですが私が「コギト・エルゴ・スム」に初めて出会ったのはSFです。作品は忘れましたが、こんなのを真っ正面から取りあげる作家は、ヴァン・ヴォークトかな、という気はします。
 デカルトの文章は、真っ直ぐです。余計なものはそぎ落とし思考を最短距離で表現しようとしています。第1部はそれでもジャブで「読書は過去との対話である」とか「良識は万人に平等に配分されている」とかやさしく書いてくれています。
 またまたついでですが、「良識は万人に平等に配分」を読んで私はNLPの「人の行動にはすべて善意の意図がある」を連想しました。……しかし私はデカルトとは違って、寄り道だらけですね。
 デカルトは「何が正しいか」にこだわります。他人が教えてくれる「正しさ」を鵜呑みすることや根拠無く「これは正しい」と信じていることの危うさ(根拠無き「正しさ」はただの思いこみや机上の空論や妄想体系でしょう)を指摘し、数学での自分の方法(ある原理から次々証明を導き出したこと)を紹介したあとで、哲学の面でも同様にまず絶対的な原理を(自分で)求めるべきと言います。そしてすべてを疑い疑い抜いたとき、残るのは「疑っている(思考している)自分」だけです。こうして第4部で「私は考える。ゆえに私はある」(本書はフランス語本の翻訳なのでこうなったのでしょう)が登場します。
 注目するべきは、デカルト本人が「これは『私』の方法論を紹介しているだけだ」と述べていることです。別の人には別の方法論があるのかもしれません。
 
 ここで筆を置いても良かったんじゃないか、と意地悪な私は思います。いや、デカルトはここで生理学に言及して心臓について述べるのですが……当時最先端の血液循環説(イギリスのハーヴェイが唱えた「血液は心臓によって全身を循環している」という説)を紹介しているのですが、ここに古代ギリシアからの決まり事(心臓は全身の熱のセンター)が混じり込んでいるんです。すべてを疑うはずなのに、古代ギリシアから連綿と伝えられた「常識」をそのまま書いてはいかんでしょう。実はハーヴェイは「心臓が何を原動力として動いているのか」についてはその論文(というか著書)『動物の心臓ならびに血液の運動に関する解剖学的研究』ではごまかしています。清教徒革命の時代にはそこまではわかりませんから、別に書かなくても良いと私は思います。だけどデカルトはそれをなんとか説明しようとして、「心臓には熱がある。そこに血液が数滴はいると激しく熱膨張する。それが心臓の動きのエネルギー源」と本書で主張するんです。いや、心臓が熱機関だとしたら正しい記述ですけど……そうか、デカルトは焼き玉エンジンを予言していたんだ。やっぱりすごい人だ。
 
 
21日(金)盛岡
 北だから当然ですが、服一枚分寒いのです。東だから当然ですが、日没日出は早いのです。そういった当たり前のことも新鮮です。ことばは……男はどうでもいいから無視していますが女性の会話はなまりはあまりなくて切れが良い印象です。ダイエーの地下売り場で耳をそばだてて得た印象ですので、彼女らはまず間違いなく地元民のはず。ついでに特売のえびスナックを前後を考えずに買ってしまいましたが……この大袋、どうしよう。おやつで食べるにしても、一人では食いきれないぞ。
 ひたすら講演をまじめに聞いてから(ちょっと居眠りしたかもしれませんが、意識不明状態の間のことは都合良く覚えていません)、Y.さんと待ち合わせ。小岩井農場で宮沢賢治が生徒たちを連れて遠足に来ていたことを知り古い農機具を見学、それから連れて行ってもらったのが志波城あとです。今から1200年前、対蝦夷戦の最前線として作られた城柵ですが、驚くのはその規模です。東西が、大溝が930メートル、築地塀が840メートル。南北はまだ完全には発掘されていませんが、おそらく同規模のはず。現在正門とその両側に高さ4.5メートル長さ252メートルの築地塀(と櫓)が復元されていますがひたすら無駄にでかいです。これは日本的な発想ではなくてむしろ大陸の発想でしょう。
 もしも手塚治虫さんがここを訪れることができていたら『火の鳥』はもっと別の展開になったかもしれない、と夢想してしまいました。
 夕食は「わんこそば100杯責め」「激辛冷麺」などとY.さんが脅かすので身が細る思いでついていったら、焼き肉美味いです冷麺美味いです。辛味は別という注文ができるんですね。麺は小麦? 私は海原雄山じゃないのでよくわかりませんが、とにかく美味いのです。ぱくぱく食ってたら……身が細るどころか今の腹具合では体重が768〜1024グラムは増えてます。今日はおとなしく草食動物になりましょう。(しかし、過去に激辛冷麺を食ったあとでわんこそばを100杯以上食った人がいるって……それは人の形をした別のナニモノかではないでしょうか?)
 Y.さん、本当にありがとうございました。でもお土産に頂いた本はまだ読めてません。今日読んで感想を書いてアップする余裕があるかなあ……
 
 
21日(金)(2)禁断症状
 ほぼ3日間インターネット接続がダイアルアップになってました。携帯電話をモデムに使って一応100kbpsくらいは出ているのですが、つまりは0.1Mbpsですから、遅い遅い遅い遅い(フォントを少しずつ大きくしたい!)。おかげで最低限のメールチェックとmixi日記のアップだけしかできませんでした。
 で、やっと今夜は常時接続にありついたのですが……あっら〜、速い、速すぎます。聞くと光の100だそうで……よし、これでこれまで読み書きできなかった禁断症状を癒すぞ、とはりきってmixiにつなぐと……未読がどっちゃり。禁断症状を癒すどころではありません。コメントをつけている暇もありません。あ゛あ゛……こんどは欲求不満が……
 
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逆転の日本史 つくられた「秀吉神話」
洋泉社MOOK、1997年、1553円(税別)
 
 昨日Y.さんからいただいた課題図書です。表紙には「秀吉は百姓の出ではなかったし、墨俣一夜城は存在しなかった! 伝説に彩られた秀吉の前半生の姿をいま初めて解き明かし、「太閤検地」「刀狩り」「朝鮮侵略」に込められた驚愕の真実にせまる」とあります。
 藤本正行さんの「「墨俣一夜城」なんてなかった!」は、世間で広く言われる一夜城の根拠となったのは小説と偽書「武功夜話」であり(なぜ偽書かも具体的に指摘しています)「信長公記」にはその記載が一切ないことと伝えられているのが信長の仕事のやり方にはそぐわない指示の出し方であることから、現在伝えられているような一夜城は「なかった」と断言してます。イカダで流したプレハブのお城って、お話としては面白いんですけどねえ。
 千利休の切腹や殺生関白についても新説、というか、通説とは違う(それも説得力が結構ある)主張が出てきますし、池上裕子さんの章では、太閤検地を「村」「大名」「秀吉」の力関係から読み解くと帳簿上の「石高」が別の側面を見せてくる、というのは大変面白く思いました。
 
 そういえば秀吉の経済政策を面白く解説した新書があったはず。なんてタイトルだったかなあ。帰宅したら発掘しなくちゃ。
 
 
23日(日)新宿オフ
 小雨の中、集合場所の新宿駅南口に。予定時刻10分前には人はぱらぱらだったのが3分前にはどわーーーーーっと湧いて出てきて、見通しがとっても悪くなります。皆キリの良い時間に待ち合わせですか? 東京にはこんなに人がいるんですか?
 この混雑の中、じっとしているのと動き回るのと、どちらの方が遭遇の確率が高くなるか、と迷っているといぬかわさんが文字通り人をかき分けて私の直前に出現。どうして私が存在しているのが「ここ」とわかるんです? ついでCanonさんから電話「今どこです?」「改札口のまん前で〜す」「あ、見えた」話は早いです。
 いぬかわさんが靴を買い換えていなければ「いぬかわさんの足元を見るオフ」にできると思っていたのですが、新しい靴を履かれているので断念します。しかたなく予定通り「おかだの買い出しオフ」です。まずは京王百貨店の8階でえびせんべいを発見。中華街まで行かずにすみました。安いので赤と白の二箱を確保します。油で揚げたらぶわっとカサが増えるんでしょうね。そこにまうらさん(綴りはこれで良いのかな?)登場。みなで昼飯食べてから新大久保を目指します。目的はサムゲタンに使う安い朝鮮人参。漢方薬局にあるような立派なのではなくて、家庭で普通に使えるレベルのが欲しいのです。目的地の韓国市場に近づくにつれて周囲から日本語が減ります。一見ごく普通のスーパーですが、韓国食材がやたらと多くて表示もハングルで中では同じ言葉を日本語と韓国語とで二度繰り返してくれます。で、朝鮮人参は野菜売り場にさり気なく置いてありました。2年もの4年もの6年ものとあります。6年ものはずいぶん立派なので4年ものにします。(しかし「安い」と言っても、交通費と人件費を考えたらずいぶん高い物についている気が……)
 新宿駅に近づくと少しずつ日本語が増えます。日本に戻ってきた気がします。でも、「日本語」と言ってもよく見たら半分はローマ字(英語)なんですよね。ふーむ、私は普段ローマ字表記も「日本語」として認識していたのか。
 上京すると歩行距離がふだんの10倍以上に伸びます。「疲れたよ〜、もう歩けない」と悲しそうに訴えて、女性陣お勧めの「MARIAGE FRERES」に。840円と高い紅茶ですが、3杯分はポットに入っているし内装や什器などの雰囲気はとっても良いし従業員はイケメンだし、女性客でいっぱいになっているわけがわかります。一人だけ人寂しいお客がなんとかイケメンを独占しようと努力していたのが痛々しかったのと、トイレで水を流すボタンがどこにあるのか最初わからなかった(タンクのてっぺんの小さなボタンでした)のが「難点」でしたが、また行ってみたいと思いました。こういう「良いもの」がある東京はいいなあ。
 
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古代中国人の不死幻想』 東方選書26
吉川忠夫著、東方書店、1995年、1456円(税別)
 
 中国人は(本当は中国人に限りませんが)古代から不老不死を願い、様々な努力をしてきました。有名どころでは秦の始皇帝です。怪しげな道士の献策を取り入れて日本にまで霊薬を求める使者(徐福)を派遣してます。あるいは漢の武帝。金丹をさかんに服用し、結果として健康障害をきたしています。
 不老不死の術は道教の専売特許ですが、道教の大元の老荘はそんなことを言っていましたっけ? 本書でもそのことは大きな問題として取りあげます。『荘子』の養生主篇には「吾が生や涯(かぎ)りあり。而るに知や涯り無し」とあり、人は死すべき存在であることが明確にされています。ところが『荘子』外篇と雑篇が秦・漢以降に追加され、荘子が述べた「真人」(人間の中での超越者)が「神仙」に意味をすり替えられ、さらに仙人も階級化されてその中での上級仙人が真仙と呼ばれるようになります。
 結局後世の人間が老荘を神格化して祭り上げ、その「権威」を利用して自分の欲望(長生きしたい、死にたくない)を正当化するために理論化を行った、と私には見えます。それと同じメカニズムが発動したのが「房中術」でしょう。健康で長生きするためにいかにセックスをするか、の体系ですが(そういえばタイトルは忘れましたが、健康だかダイエットのためにセックスを、という本が数年前に出版されてましたっけ。歴史は繰り返すんですね)、これまた「長生きしたい」という欲望と「セックスをしたい」という欲望をドッキングさせるために理屈をこねくり回した結果のように私には見えます。理屈をこねるのは、私もきらいではありませんが、ただその結果「皇帝にはこういったタイプの幼女がお似合いである」と言われると国中からそのタイプの幼女がセックス目的でかり集められる、つうのはちと感心しません。さらに皇帝にあやかろうと貴族たちまで似たことをするんですから……
 本書は話があっちに行ったりこっちに来たり、で読みやすい本ではありません。一つのキーワードで色々述べたあと別のキーワードに移って、という手法を採っているからですが、軸を一本確立させておけばもっと読みやすくなっただろうな、とは思います(なんか偉そうですみません)。たとえば政治と宗教のからみなんかどうでしょう。漢の武帝が反仏教の立場だったから道教を取り入れて結果として方士たちのえじきになった、とせっかく述べているのですから、その視点から各王朝を眺めその上で古典の世界を逍遙したら見通しは良くなったのじゃないかなあ。皇帝の好みが仏教か儒学か道教かその他か、で国全体の思想が影響を受けた(あるいは受けなかった)過程を積み重ねると、面白いモノが見えてくるように思います。
 
 
24日(月)無責任
 数日間新聞を読んでなかったのでまとめ読みをしていましたら、先週木曜日の朝刊一面に「医療費削減目標が達成できない都道府県には厚生労働省が罰則も」とありました。政府は本気だぞ、と示すためなんでしょうが……私は複雑な気分です。国民が健康になって医療を使わなくなったから医療費が減りました……これはOKです。どんどん減らしましょう。だけど、帳尻を合わせるために数字をいじりました、守らなければ罰します、大切なのは数字です。これはOKですか?
 以前も書きましたが、医療費で国が破産したら困りますから、削減することはOK、目標を達成できない無能な担当者がいるところには罰、もOKとしましょう。ならば、管理者の責任はどうします? この場合「管理者」とは厚生労働省を想定しています。
 会社で部下に対して達成不可能な目標を設定する上司は現場に対する無知(または無茶)ですから、そんな上司はきちんとマイナス評価をくらうべきです。困難だが達成可能な目標でしたら部下が達成できるように管理者として部下の指導監督に努力するべきですがそれを怠るのは管理者として無能ですから、できなかった部下と共に罰せられるべきです。部下を罰したあとで自分自身をあるいは自分の上から罰せられないといけません。
 「地方は厚生労働省の『部下』ではない」? ではなぜ命令や監督をするんでしょう。なぜ罰することができるのでしょう。そこまで干渉するのなら、その干渉の責任も負うべきです。まさか「自分は言うだけ。自分のことばと決断に責任は取らないよん」と無責任を主張するのでしょうか。うわぁ。
 ついでですが、厚生労働省の「責任」の第一義は国民の福利厚生にありますよね。そのことに対する責任の自覚と覚悟の表明も聞きたいなあ。銭のことばかり言ってないでさ。
 
 どこぞの生命保険会社が銭を惜しんで支払いをごまかしていたそうですが、人の健康を担保にとって自分の金銭的利益ばかり図ろうとする点で、似た臭いがするような気がします。
 
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ハリウッド巨大メディアの世界戦略
滝山晋著、日本経済新聞社、2000年、1500円(税別)
 
 2000年にAOLがタイム・ワーナーと合併した話(実質はAOLによる買収)から本書は始まります。娯楽産業を川にたとえて、上流(製作)から下流(消費者に届ける)までを現在ハリウッドの映画会社は一つにまとめてしまおうと盛んに合併や買収を繰り返しています。そこに日本の松下やソニーも参入しましたが、日本企業は下流での機器も同時に囲い込もうというビジネスプランを持っていて、それがアメリカの文化とはなじまなくて「文化の衝突」が起きている、と著者は述べます。
 出版年を思うと買収の具体例や企業名はもう一昔あるいは二昔前のお話ですが、面白い話題もてんこ盛りです。たとえば「もうけ」のお話。
 ハリウッドのメジャーが映画でもうけるのは、国内配給よりは国外配給(その一位は日本で二位がドイツ)。映画がこけるリスクを分散するためにライバルのスタジオと手を結んで製作費の共同出費も盛んに行なわれていますが、出資の見返りにアメリカ国内での配給権を平気で相手に渡したりもします。(だからその映画が大ヒットすると「もうけ損なった」とほぞをかむことになります)
 映画館のもうけも、映画そのものよりは、館内で売る飲み物や軽食からの方が大きいので、アメリカでは映画館への飲食物の持ち込みは固く禁じられているそうな。本来映画館はロングランだと儲けが大きくなるように契約を結んでいるそうですが(最初の一週間は映画会社が九割映画館が一割の取り分だけど、長期になると映画館の取り分がどんどん増える)、映画の製作本数が多いため(ディズニーだけで年間四十本)、最初の1週間だけどっと客が入ってあとはどかんと客数が減り別の映画に大挙流れていってしまうという刹那的現象が多くなりました。映画館には痛手ですが、制作側も儲けが減って困ります。そこで宣伝を派手にやったり、大スターを複数使って話題作りをしますが、それがまた製作費の高騰を招いて自分の首を絞めます。スターにはエージェント(代理人)がついていますが、エージェントは大スターを使う条件として自分が抱えている他のクライアントを「パッケージ」としてその作品あるいは他の作品に使うことを要求します。契約は複雑となり、契約書のために弁護士が関わりさらに製作経費は増大します。
 もちろんスタジオ側も節約の努力は行ないますので、そこに丁々発止の「戦い」が起きることになります。何しろ何億ドルもが動くビッグビジネスですから。
 映画の場合「再利用」が可能です。ビデオ、TV放映、リバイバル上映、キャラクター商品などの販売……配給収入だけでは「儲かる映画」かどうかは判断できません。しかも伝統的に情報のディスクロージャー(公開)に熱心ではない業界のため、経済的にはなかなか適確な判断ができないのだそうです。したがって映画関係の企業を買収するのも大変です。
 
 最近ではデジタル化の動きが上流にも下流にも起きています。製作にはCGが多用されるようになり、上映もデジタル上映が行なわれるようになってきました。そこにデジタルの申し子であるインターネットが絡みます。ハリウッドは(2000年)現在インターネットをどう取り込むか(あるいは取り込まれるか)に知恵を絞っているところです。そこでAOLとの合併が大きな話題になるのです。(現在の日本のライブドアや楽天のお話も、アメリカの後追いと言って良いのでしょう)
 私見ですが、今のインターネットの「ブーム」はもう少ししたら変質、というか、成熟すると思います。優良なコンテンツがもっと強く求められるようになるでしょう。そのときコンテンツを大量に保有している企業はそれだけで有利だとは思いますが、問題はインターネットで今の形の映画を観る気になるかどうか、ですね。
 
 
25日(火)酸性/アルカリ性
 「アルカリ食品だからヘルシー」と一時さかんに言われていましたが、最近はそこまでストレートな物言いは聞かなくなりました。
 3つ疑問があります。「アルカリ性だとヘルシーなのか」「その食品は本当にアルカリ性なのか」そして最後に「アルカリ食品を食べたら体はアルカリ性になるのか」です。 
 まず1番。アルカリ性が体によい、という根拠は、人間の動脈血のpHが7.35〜7.45であることのようです。pHは7.00が中性でそれより上はアルカリ性、下は酸性です。したがって人体内部(少なくとも血液)は弱アルカリ性。ここまではよろしいですね。
 ではたとえば血液のpHが7.1になったらどうでしょう。化学的にはまだ「アルカリ性」です。でもその状態は至適pHより酸性、つまり酸血症の状態で、下手すると人は死にます。
※結論その1:化学的には弱アルカリ性でも健康には悪いことがある。
 では血液のpHをもっとアルカリ性、たとえば7.7くらいにしたらどうでしょう。普通の人でも過呼吸でこれくらいにはもっていけます(血液中の二酸化炭素(=酸性物質)を追い出した結果です)。過呼吸症候群を起こしたあるいは見たことのある人なら話は早いでしょうが、そのとき生じる現象はとても健康によい状態とは言えません。
※結論その2:過度のアルカリ性状態は体に悪い。
 2番目の疑問。ある食品が酸性かアルカリ性かは、それを焼いた灰を分析することで決定されます。ですから「酢」がアルカリ食品になります。
 ちょっと待って。体内で起きている現象は「燃焼」ではなくて「消化・吸収」であることは日本では義務教育で習う事実です。ヘラクレイトス(でしたっけ?)じゃあるまいし「万物は火である」の古代ギリシアに戻るんですか? 胃の中で火が燃えていて酢が入ってきたらぼうぼう燃やしている?
※結論その3:試験管内での現象と体内での現象を混同してはいけません。
 さて3番目の疑問です。学生時代に実験をしたことがあります。グループで分担して、水・砂糖水・濃度を変えた数種類の塩水・薄いアルカリ水・薄い酸性水をそれぞれ飲んでその後おしっこの量と性質の変化を検査したのです。結果は単純でした。アルカリを飲んだ人はおしっこがアルカリ性になり、酸を飲んだ人は酸性に、中性の液を飲んだ人はおしっこのpHは動かなかったのです。
 考えるまでもなく当たり前の結果です。人体には(というか生物には)ホメオスターシス(恒常性)があって常に動的にバランスを取っています。結論1と2から明らかなように、至適pH範囲から大きく外れることは下手すれば生命の危機を招きます。したがって生命体は、たとえば大量のアルカリが体内に入ってきたらそれをさっさと体外に排出してバランスを保とうとするのです。
※結論その4:ホメオスターシスをお忘れなく。
 
 ということで、「アルカリ食品」は一体何だったんでしょう。そんな二者択一のアバウトな方式を採用するくらいなら、私は「陰陽五行ヘルシーレシピ」を主張したいな。五行の五色「青・赤・黄・白・黒」と五味「酸・苦・甘・辛・鹹(塩からさ)」の食品をその人の体質や体調の陰陽虚実に合わせてバランス良く食べる、というやり方です。色と味のバランスに気を使うだけで、食事のバランスがずいぶん良くなる気がしませんか?(実は五行が今でも活用されている地域では、もっと複雑なやり方で実践されています)
 
【ただいま読書中】
夜更けのエントロピー
ダン・シモンズ著、嶋田洋一訳、河出書房新社、2003年、1900円(税別)
 
 著者のデビュー作『黄泉の川が逆流する』を含む本邦オリジナルの短編集です。訳者があとがきで書いているのと同様、私もこのデビュー作はSFマガジンで読んでいるはずですが、全然覚えていませんでした。「ぼくは母が大好きだった。その母の葬儀が終わって棺が地中に下ろされると、ぼくたち家族は家で母の帰りを待った」と始まる本作品は、「愛した死者の思い出と共に暮らす」かわりに「愛した死者そのものと共に暮らす」生活を選択した家族と社会を描きます。
 『ベトナムランド優待券』。テーマパークとしてベトナム戦争を体験できる戦争後のベトナムが舞台です。そこでは武装ヘリに乗って「ベトコン」と戦い村では子連れの観光客が手榴弾をトンネルにたたき込んで楽しむことができるのです。日本人としては『ベトナム観光公社』(筒井康隆)を連想しましたが、筒井さんに比較するとこちらの方はアメリカ人が書いているせいか細部が妙にねっとりとリアルで陰鬱です。
 『ドラキュラの子供たち』は、チャウシェスク政権が打倒された直後のルーマニアに入ったアメリカ人一行(WHOの医師・神父・経済学者・実業家など)が出会った悲惨な現実を描きます。たとえば何万人もが収容された孤児院、そこでは栄養失調を「治す」ために売血で得た血液が消毒もしていない注射器で子どもたちに注射されていました。しかしそれはただの序曲でした。主人公はそこから闇の奥に一歩進みます……(ルーマニア・トランシルバニア地方がドラキュラの「故郷」であることをお忘れなく)
 そして『夜更けのエントロピー』。ここに登場する屋根の上で起きた自動車保険請求事件は、私のmixi日記6月21日に書いた彼の長編『ダーウィンの剃刀』にもそのまま登場します。よほどお気に入りのエピソードなんでしょうね。話の構造は……どこかテッド・チャンの『あなたの人生の物語』に似ています。視点は「親」にあり、子どもが「いる」お話と「いない」お話のカットバックを積み重ねながら、悲劇的な結末へと一歩一歩話は向かうように見えます。主人公にも読者にもそれはどうしようもないのです。物語の最後で、誤変換されていたエントロピーは重力に再変換され、重力に引かれた橇はひたすらゴールを目指し、そして私の涙腺は決壊するのです。(ああ、なんて日本語だ)
 
 最近つくづく思うんですよ。テーマではなくて背景の色づけとして子どもの死を扱うのは、作品として反則だと言いたい。ずるいよ。泣いちゃうじゃないか。
 
 
26日(水)小泉チルドレン
 このことばを聞くたびなぜかヒトラーユーゲントを連想してしまいます。まったく違うのにねえ、なんでこんな連想をしてしまうんだろう。ほら、ドイツ語と英語+日本語が違うし、ほんとに若い衆と当選回数が若い衆とは違うでしょ。あとヒトラーに忠誠を誓うのと小泉さんに忠誠を誓うのとも全然違うし……
 しかし、いい大人が「チルドレン」と呼ばれて、口惜しいと思わないんだろうか?
 
【ただいま読書中】
からだの文化人類学 ──変貌する日本人の身体観
波平恵美子著、大修館書店、2005年、1600円(税別)
 
 文化の基本は人間関係の成立に伴う権利と義務に関する認識とその関係維持のためのコミュニケーションの手段である。しかし、親しい人に対する執拗な身体的暴力は、人間を人間たらしめてきた基本的関係の否定であり、人間としての自分自身の存在も否定することになる、と本書は始まります。そして現代に増加しているように見える執拗な身体的暴力(DVや幼児虐待など)の原因の一つが、日本人の「身体観の変容」ではないか、とその考察を試みるのが本書です。
 摂食障害(過食/拒食)によるやせ症は、単なるダイエットの行きすぎなどではなくて「自分自身の身体に関する認知の歪み」(実際にやせているのか太っているのか、それに対して何をするべきか、の実感が持てない状態)である、と著者は述べます。またそれは同時に自分自身の肉体に対する虐待行為でもある、と。著者は医学面にはあまり踏み込みませんが、それでもやせ症の「治療」の多くが取引(体重が○kgになったら退院させてあげます)になっているという指摘は鋭いものと思います。
 出産はかつては儀式でした。誰がどのようにヘソの緒を切り誰がどのように後産を始末するかは、地域によってきちんと決まっていました。自宅で行なわれますが、出産は家族のモノであり同時に地域のモノでした。新生児は不浄の存在であり(だから「死」の不浄が黒不浄と呼ばれたのに対比して出産は赤不浄と呼ばれました)、様々な儀式を通して地域に受け入れられる「人間」へと変わっていく必要があったのです。(ついでですが「不浄」=「女性は劣位の存在」ではありません。月経時などには不浄というキーワードで注目を集めますが、だからといって実際にその地域で不利な扱いを受けていたわけではありません。そのへんを著者は、過去のフィールドワークと現在の生理休暇や生理時のプールの見学の例などを引きながら述べています) しかし昭和半ばからほとんどの出産は病院で行なわれるようになり、儀式は医療に変容します。それは同時に新生児が地域から切り離されて家庭の中に押し込められることを意味しました。
 あと、人が「身体である」ことと「身体をもつ」ことの関係とか、嫁入りはかつては「死と再生の儀式」だった(親と水盃を交わす、死に装束である白装束から色がある衣装に替える)とか、身体と名前の関係とか、靖国神社(軍役を解かれていない死者の軍隊が存在している)とか、著者は手当たり次第に論じます。ただ、その態度はあくまで人類学者ですね。善悪など論じてくれませんから。
 
 私見ですが、個人には「社会的な個人」と「非社会的な個人」があるように思います。かつては家制度や地域共同体が「社会的な個人」のバックとなっていたのですが、現在どちらも破壊されました。すると今の日本には「非社会的な個人」と「会社にいる個人」だけ?
 しまったなあ今月8日の「家庭から失われた生老病死」は今日の日記で書くべきだった(笑)。
 
 
27日(木)偶然と必然
 このタイトルのモノーの著作を読んだのは……大学時代ですからもう30年くらい前になります。もう記憶はおぼろですが……生物の変異は偶然の産物であるが、分子レベルや遺伝子レベルの小さな変異はまず生体内でその意味を問われ、生物そのものの変異は環境の中で生存できるかどうか試験され、結果として生き残ったものが生態系で「その生物のため」の位置を占める、と私は記憶しています。ただし本当にモノーがこの通りのことを主張したかどうか、自信はありません。卒業後にむさぼり読んだグールドなどダーウィニズムの主張も私はたくさん取り込んでいますから、それ以前の記憶も当然それらに「汚染」されていることでしょう。さて、この本はどこに埋没しているかなあ。たぶん実家の倉庫でしょう。
 
 私自身も「偶然の産物」です。特定の卵子と特定の精子が結合することで「私」の遺伝情報が確定しましたが、もし受精の瞬間「隣の精子」が受精していたら「私」ではない他の人が出現していたはずです。数千万とか数億の精子の中でまさに「その精子」が受精してくれたからこそ私がいるわけで、(私にとっては)こんな有り難い偶然はありません。逆に私以外の存在(私がいなければ存在し得た人)にとってはこんな迷惑なことはなかったでしょう。まあ、それはお互い様です。
 高校の頃、そのことを考えて頭がクラクラしました。自分が存在することがただの偶然だとしたら、では偶然の結果である私の存在の意味はなんだろう、と思ったのです。結局「偶然は偶然だが、その偶然を必然に変容させることが自分の人生の意味だ」と自分を納得させることにしました。実は今でもそれ以上の答は見つけられていません。もしかしたら私は高校時代から思想的には成長していないのかもしれませんが、それを認めるのはつらいなあ。
 人と人の出会いも偶然の産物と言えます。生まれてからこれまで偶然出会った人々の中から厳選(?)された人との間に人間関係を築くことで私は現在の人間関係ネットワークを手に入れているのですが、出会わなかった人たちや出会っても人間関係を築けなかった人たちのことを想像すると、またまた頭がクラクラします。「私」は自分を中心とした人間関係を築く主体ですが、逆にその人間関係によって「私」は影響を受け変化してきていることを知っています。まるで複雑系のように。だとしたらこの「偶然の産物」である「私」と「私の周りの人間関係」の存在意味はなんなのでしょう。
 ここで「運命」という言葉を持ち出しても良いのですが、私は東洋人ですので「縁(えにし)」を用います。前世からあらかじめ定められた出会い、という固定的なものではなくて、もっと動的な偶然の出会いでお互いの間にかけられた関係の細い糸が、双方の選択や決意や覚悟と周囲の環境の影響を受けながらダイナミックに太くなっていく過程、その現象を結果から時を遡って「縁」と呼んでもいいのではないか、と思うのです。
 
【ただいま読書中】
雪の桜の木の下で…』マーガレットコミックス
柊あおい作、集英社、1997年、390円(税別)
 
 盛岡から帰る途中、バッグが重いと思ったらいつの間にか入っていました。少女漫画は萩尾望都の『11人いる!』『百億の昼と千億の夜』を読んで以来……おっと、この2作とも少女漫画と言うよりは少女漫画家が描いたSF漫画という方が正確でしょう。
 でまあ、しぶしぶ読み始めたら……三編の短編集ですが、けっこう面白い。
 最初の『雪の桜の木の下で…』は典型的な学園ラブコメかと思ったら学園は全然出てきません。高校三年間僚也(ともや)のことを思い続けた林子(りんこ)。でも僚也は10年以上萌のことが好きで、でも萌はつき合っている男がいて、でも本当は……とややこしい(恋愛ものだとありがちな)関係なのですが、画期的(?)なのはこの3人が同じ家の中で共通の時間を過ごしていて、一緒に仲良く庭に降る雪をながめたりしていることです。そして三人は、行き詰まっている現在をともに過ごしながら、庭の大きな桜の木が花を咲かせる春のことを思います。
 次の『木陰にて』は前作の翌年(かな?)、林子と萌は二人で庭の桜の木の下にいます。僚也は東京に出て帰ってきません。そこで萌の子ども時代の話から、彼女の片思いの正体が明らかになってきます。
 そし三番目の作品『桜』。これはやられました。本書の三作品を貫く柱である「桜」。いつも同じ顔をしてでも毎年違う季節を迎え続ける桜の木についての話なのに、途中まで「あれ、登場人物が変わった。別の恋愛ものかな」と、そのことに気がつかなかったのです。むう、私には「ロマンチック回路」が配線されてないんだな、きっと。
 
 
28日(金)インナーヘッドホン
 iPodに付属していた純正のインナータイプヘッドホンが私の耳の穴に合っていなくて不安定なため(しばらく使っていると落ちそうになるのです)、audio-technicaの密着型のを買ってみました。大中小のサイズが選べる柔らかいイヤピースが耳の穴にしっかりささって安定性が向上する、というのがうたい文句です。
 たしかに耳に密着します。それは良いのですが、音質が変わりました。念のために同じ曲を純正のと差し替えながら聞き比べてみましたが、曲によっては別物になってしまいます。
 アコースティックギターは音が妙に平板に聞こえます。ドラムスやベースは響きが痩せてます。ヴォーカルは人によっては変なエコーがかかったように聞こえることがあります(響きの悪いお風呂で歌っているような感じ)。逆にピアノとオルゴールはむしろ響きが良くなった印象を受けます。
 製品の特徴として倍音成分が中音部から高音部にかけての特定領域だけ強調されている(だから相対的に低音部が痩せて聞こえる)のかな、と思いますが、単に耳に密着させた影響だけかもしれません。私の耳にも脳にもアナライザーはついていないので、これ以上の分析は無理とあきらめます。
 音の響きは純正の方が好きなので、静かな環境で体を動かさないとき(家でパソコンを使っているときなど)は純正のを、外に出て騒音が周りにあって耳からずり落ちて欲しくないときは新しい密着型のを使い分けようかと思ってます。
 
 ただ、どちらにしても音が「自分の頭の中」で聞こえるのは同じです。両耳を結んだ線分上を音像が左右するだけで、耳の外側や線分の前後上下への移動はしてくれません。耳の穴に直接音を入れるのだから仕方ないのでしょうが、逆に人間は普段すごいことをやっているんだなあとも思いました。たった二つの耳で音が前後左右上下のどこから聞こえてくるのかをちゃんと判断できるのですから。
 
【ただいま読書中】
ニューナンブ』鳴海章著、講談社、2002年、1800円(税別)
 
 タイトルのニューナンブとは日本の警察で採用されている国産制式拳銃です。スナップノーズのリボルバーはどれも似たシルエットになりますが、これはS&W(スミス&ウェッソン社)のチーフススペシャルの銃把を少し延長してサムピース(弾倉を外すときに押すボタン)を大きくしたような形をしています。
http://www32.ocn.ne.jp/~asahikoubou/new_nanbu.htm
だけど国産拳銃で「ナンブ」と言って思い出すのは、やはり本来のナンブでしょう。
http://www.h5.dion.ne.jp/~gun357/2siki%20jitujyuu.htm
 望月三起也の漫画でナンブを愛用する登場人物がいましたが、『ワイルド7』でしたっけ?
 ……タイトルを見ただけでここまで考えてから本文を読み始める人間って……やっぱり変?
 
閑話休題
 
 舞台は横浜(と明記はされてませんが、東京のそばで横浜駅があって港に今は航行しない客船がつながれている、といったら間違いないでしょう)。1995年頃、新人警官としてパトカー乗務実習を命じられた北守は、カーチェイス・強姦事件・不審尋問と忙しい思いをした挙げ句、自分を殺そうとするピストルの銃口をまともに覗き込むことになります。
 そして六年後、機動捜査隊(初動捜査だけを担当する部署)に配属されている北守は覚醒剤中毒の女に仕事でちょろまかした覚醒剤を与えて愛人関係を続ける、という、すっかり「汚れた」警察官になっています。そこに連続射殺事件が発生。被害者は、出会い系サイトで会った女を食い物にする(金を奪い強姦しその写真をネットで流す)男と痴漢を繰り返す男でした。合同捜査会議が行なわれた日に、警察内部の監査を行う北守の兄が署に現れます。事件に警察内部の不祥事が絡んでいるのか? 北守は疑いを持ちます。
 やがて元警官が犯人として逮捕されますが自殺。そしてさらに新しい射殺事件が起きます。
 
 組織内の確執(一番はじめだけ現場に現れてつつきまわってすぐいなくなることから機捜がニワトリと蔑称で呼ばれたり、合同捜査で警視庁と県警とが仲が悪かったり、さらにキャリア組と現場の警察官が折り合いが悪かったり)や現場での規律のゆるみ、さらに現場に課せられるノルマとそれをこなすノウハウなどが妙にリアルに描かれていますが、繰り返し問われるのは「正義は絶対的なものか?」「警察は正義の執行官なのか?」です。基本的に警察は国家の暴力装置で、だからこそ「正義」という歯止めが必要ですが、それが変な「正義」だと却って困ることになりますから。
 
 
29日(土)季節感
 暖房便座がお尻に気持ちよく感じるようになりました。ああ、しみじみ秋だなあ。
 
【ただいま読書中】
小学生の不登校はこうしてなおす
吉岡泰生編著、講談社出版サービスセンター、2003年、1600円(税別)
 
 タイトルを見て「なおす」の文字にまず引っかかりました。「治す」なのか「直す」なのか、どちらなのだろうと思ったのです。ついで、不登校はなおせるものなのか、そもそもなおすべきものなのか……予断を持って読んではいけませんから、ここで本を開きます。
 子どもにとって教育は権利です。子どもを学校にやらずに売り払ったり働かせて稼ぎを巻き上げる不埒な親に対して明治時代に「教育の義務」が課せられたはず(それは富国強兵の国策とも絡んでいますが、別題になるからここでは中止)。ですから「義務なのに子どもが不登校とはけしからん」とばかりに、説得したり無理強いしたり洗脳して子どもを学校に追いやる、のだったら読むに価しない、と思いながら読み始めますと……
 
 本書には「母親の法律」が32条まで定められています。長くなるから最初の1/3を引用すると……命令・指示はしない/脅迫・注意はしない/説教はしない/提案・忠告はしない/尋問・質問はしない/勝手な想像はしない/反対は言わない・逆らわない/子どもには謝らない/子どもはほめない/子どもは叱らない/言い訳はしない……
 多分普通の親だとびっくりするでしょうね。子どもに何も言えなくなるじゃないか、と。私は親業やアドラー心理学の子育て法を知識として持っているから「ふーん、まあこんなもんだろうな」としか思いませんでしたが。というか、ここを読んで本書に書いてあることはある程度は信用しても良いかな、と思いました。いくら原理原則を立派なことを言っている人でも現場でのテクニックがぼろぼろだと意味ありませんから。
 ただ、すごい(無茶な)やり方も言ってます。たとえば「食事中は無言」とか。これも登校拒否をしている子どもに親同士の会話によって大人の世界を押しつけないためなのですが、想像するとちょっと怖いものが……ま、それまで間違ったことばかけを散々していたことに対するショック療法なんでしょう。それから「親からは挨拶をしない」も、社会の秩序を教えるため、と言われると大声で反対はしづらいのですが、挨拶なんて気がついた方から気持ちよくすればいいじゃないか、と思う私は社会的には非常識人なのかな。ま、いいですけど。
 参観日は親が自分の子どもを観に行くのではなくて授業に自分も参加させてもらうこと、運動会は自分の子どもを観に行くのではなくて学校の行事に自分も参加すること、という著者の指摘は私には納得できるものです。
 「なおす」手法もユニークです。子どもには大学生の「お兄さん/お姉さん」が定期的に(週に数回)家庭訪問します。最初は大坂から訪問し、遠隔地の場合は慣れてから現地の大学生にバトンタッチします。別になんの治療も訓練も行ないません。一緒に遊んだりして、子どもに人間に対する信頼感を持たせる(つまりは、社会復帰のためのフックをかける)ことが目的です。同時に彼らからの報告で子どもの性格について母親は正確に把握できるようになります。母親は母親講座で学びます。機が熟したと見たらカウンセラーによる登校刺激です。ただし、「母親の法律」に反しないように行なわれます(そのノウハウも本書で公開されていますが、具体的で詳細なチェックリスト(名札の有無の確認や教室や下駄箱の位置までチェックします)には驚きます)。するとあ〜ら不思議、子どもたちは自分から「学校に行く」と言い出すのです。しかしここで著者の仕事は終わりません。「登校させることはむしろ簡単、大事なのはそれを継続させること」だそうです。
 
 最初に書いたように、私は「行きたくない子」を無理に学校に行かせる必要があるとは思っていません。でも「行きたいのに行けない子」は行けるやり方があるのならそれを学べばいいと思っています。それと、「不登校」によって不幸になっている家族には、不幸の原因を消すことができるのならやはり「不登校を『なおす』」ことはアリとも思っています。だって家族は登校や不登校のために生きているわけではないのですから。
 本書を読んでいて「不登校が『なおる』」は目的ではなくて単なる結果、子どもと親が自立と協調を学んで人間関係を再構築したことから派生した結果ではないかと感じました。それを忘れて子どもの身体を学校に移動させることにだけ血道を上げたら、上手くはいかないのが当然でしょう。もっとも、本書では母親ばかり取りあげられて父親の影が薄いのは、ちと気に入りませんが。
 
 
30日(日)日曜は図書館へ
 受験生時代、私にとって日曜日は図書館へ行く日でした。もちろん(タテマエは)勉強のためですが、「息抜き」のための本が大量に揃っているのも大きな理由でした。息抜きと勉強とどちらの時間が長かったかは……黙秘権を行使します。
 今日も朝一で図書館に行きました。借りていた本を返さなきゃいけないのですが、出かける直前家内が『小学生の不登校はこうしてなおす』を読みたい、と騒ぎます。
 返却カウンターで「予約が入ってなければ、この本だけ続けて借りたいんですけど。あ、私のではなくて家内の図書館カードを使って」と面倒くさいことを言います。私が単純に貸し出し延長をするのなら係の人はワンタッチで処理できるのに、借りる人を変えるときちんと返却手続きを完了してから新しい人に貸し出さなきゃいけません。申し訳ないとは思いますが、私も自分の名義で新しく5冊借りたいので、そこは譲れません。それを見ていた次男が「僕もこの本をもう一回借りたい」と自分が返すつもりの本の中から一冊を指さして言い出します。すみませんねえ、もう一つお願いします。
 で、次男を児童用の本棚あたりに放牧してから私は自分が借りる本を選びます。「お父さん、漢字が多い本はどこ? わ、図書館って、こっちはこんなに広いんだ」次男が勝手に奥に入っていきます。そちらは大人の本しかないぞ、と言う暇もありません。ニコニコしながら「これを借りて帰る」……童話集に重ねた古びた本の表紙に『精神科医療事故の法律知識』というタイトルが見えます。たしかに漢字は多そうですけど、どう考えても「読む」ためではないよねえ。ま、自分で借りた本なんだから自分で持って帰ってね。貴重な5冊枠のうちの一冊をそんなものに使っても、私ゃ知らんぷりよ。
 
【ただいま読書中】
アーロン・ラルストン 奇跡の6日間』原題:BETWEEN A ROCK AND A HARD PLACE
アーロン・ラルストン著、中谷和男訳、小学館、2005年、2000円(税別)
 
 表紙のカバーには白人の青年が写っています。高い岩山の上なのでしょう、岩に腰掛けた彼の足より下に太陽が見えます。左手に持っているのは妙に柄が太いピッケルですが……良く見るとその柄は彼の右前腕です。ちょうどフック船長の腕のような、先がフック(ではなくてピッケル)になった義手をつけているのです。「指が五本付いたいかにも手のような形のものは見栄えがよいけれども、フックの方が義手としては実用的なんだよ」……昔聞いた整形外科医のことばがよみがえります。
 
 2003年4月26日、ユタ州中東部キャニオンランズ国立公園の荒れ地を一人で徒歩横断していた著者は、岩壁を降りる途中落下させてしまった岩塊が右手首から先を押しつぶして固定してしまったため身動きが取れなくなってしまいます。岩は重すぎて動かず手持ちのツールでは砕けず岩壁は掘れず、とうとう著者は自分で自分の腕を切断するかどうか決断を迫られます。周囲数十キロに人がいない砂漠地帯ではこのまま動けなければ救援が届く前に脱水で死んでしまうことが確実だったからです。脱出のための虚しい努力で時間は緩慢に経過し、著者は体力と希望を失っていきます。やっと覚悟を決めて即席の止血帯を巻きマルチツールのナイフを右手に当てますが……全然切れません。皮膚は切れても小さなナイフでは骨が切れないのです。著者は小型カムコーダに遺言を吹き込み始めます。遭難して二日目、脱水状態にもかかわらず初めて尿が出ます。水がなくなりかけていたため著者は尿を水筒にとっておきます。いざというときに飲むために。四日目、ついに水も食糧も尽きます。
 著者は硬い石を見つけぶつけて岩を砕こうとします。少しずつ岩は砕けますが、その代償は左手の損傷でした。
 そのころ、連絡が取れなくなった著者のことを心配して、友人たちや家族が動き始めます。しかし、今回著者は行動予定を誰にも知らせていなかったため、捜索は難航します。
 遭難六日目、120時間一睡もしていないためか絶望からか、著者は幻覚の世界にいました。潰された右手は壊死が始まりついに著者は手を切断する方法を見つけます。
 
 切断のシーンは……あまり万人にお勧めできるものではありません。読んでいるだけでこちらの脊髄を痛みが駆け抜けるような感覚を私は味わいました。
 
 切断後、著者は岩と切り取られて残された自分の右手を撮影します。……するか?
 そして片腕で懸垂下降して岩場を脱出した後、灼熱の砂漠の中、自分の車まで13キロを歩き始めます。
 彼は、自分でも書いていますが、今回の行動に関してアウトドアマンとして問題はあるんですよ。行き先を誰にも知らせていないとか不安定な岩を無理に乗り越えようとしたとか。だけど、それも含めた自己評価や状況判断の適確さや行動の沈着冷静さと勇気の発露の絶妙のブレンドは、タダモノではありません。自分の選択の結果について、結局自分で責任を取ったわけですし、(褒めるにしても責めるにしても)脇からごちゃごちゃ言うことはないように思います。
 
 著者が第七章の頭にあげている「どのような選択でも、それが正しいか評価する基準は『もう一度、同じ選択をするか』である。自分で理解できない選択の先を見越すことはできない」(映画「マトリックス・レボリューションズ」)が本を読み終えたあとになって効いてきます。
 安易な反省や後悔は不必要です。教訓を得た彼はまた一人で、あるいは仲間とアウトドアを楽しめば良いんです。そう思います。