mixi日記08年4月
直訳したら「平和を作るもの」ですが、私がこのことばからすぐ思い出すのは、西部開拓時代のコルト拳銃です。45口径シングルアクションのリヴォルヴァーですが、こう書いてもほとんどの人には無意味文字列でしょうね。ジョン・ウェインの西部劇に登場するほとんどのガンマンの腰にぶら下がっていたごつくて長い拳銃、と言ったら「ああ、あれか」と言ってくれる人もいるでしょう。
中学生のときこのことば(もの)を知ったとき、武器なのにピースメーカー(平和のための手段が武力(暴力))とはさすがアメリカ的、と感心しましたっけ。建国以来、いや、もしかしたら建国前から、アメリカの「平和」に関する考え方は、ずっとスジが通っているようです。
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第一次世界大戦は、世界を変えました。
第二次世界大戦でのような市民の虐殺はまだありませんでしたが、これまでになく多くの兵士が殺されました。国境線の変更が相次ぎました。それまでの「世界のリーダー」だったヨーロッパ各国は、その座を引きずり下ろされました(かわって台頭したのはUSAですが、当時はまだ超大国ではありませんでした)。世界は混乱状態だったのです。
パリに集まったピースメイカーズは、ヨーロッパだけではなくて世界全体を睨むと同時に、自国内での自分の地位の保全(次の選挙)も考えなければなりませんでした。情勢は混沌とし複雑怪奇です。「民族自決」という理想的なことばは、世界に平和をもたらそうと張り切ってパリに乗り込んできたアメリカ大統領ウィルソンのお気に入りでした。そして「アメリカ」がそう発言することで、18世紀以来高まってきた民族感情が煽られます。
理想家のウィルソンに対して、副官のハウスは実務的なフィクサー(調停者)でした。ただし、目の前の調停に夢中になるあまり、大義を見失う傾向が強い、とロイド・ジョージは辛辣に書き残しています。フランスのクレマンソーは、自分たちが被った大損害(人口4000万人中130万の戦死とそれに倍する負傷者、荒廃した炭坑と工業地帯と農地)に対する見返りを強硬に要求します。戦争に勝利したのだから平和にも勝利しよう、というわけですが、生き残りの勢力では明らかにドイツがフランスに対して優位のため、まずは安全保障を目指します。
帝国の崩壊によって、バルト諸国・ウクライナ・アルメニア・グルジア・アゼルバイジャン・タゲスタンなど新しい国が乱立しました。最近聞いた覚えがありますが、これはロシア革命直後の話です。オーストリア=ハンガリー帝国の崩壊もまた新しい国を乱立させました。(たとえばユーゴスラブ) そうそう、オスマン・トルコ帝国の崩壊も忘れてはなりません。
さらに、革命が進行中のロシアに対する各国の思惑が話をさらに混乱させます。混乱というか混迷です。ロシアに人道支援を申し出ながらシベリア出兵をするって、混迷以外の何です? 結局ヴェルサイユ条約の陰にロシアは置き去りにされてしまいます。
そして、国際連盟の誕生。ここでもまた各国の思惑はバラバラです。それはもう、見事なくらい。合衆国は平和を強制できる機構と認識していました。イギリスは自由なクラブで国際裁判所のイメージを持っていました。世界連邦や戦時の同盟の延長という考えもありました。
結局できあがった国際連盟には合衆国は不参加で、なんとも機能不全状態でスタートしましたが、国際裁判所やILOの設置、武器売買や奴隷制度反対、赤十字支援も規約に盛り込まれていました。列強の植民地と民族自決のバランスをとるために「委任統治」が登場します。ところがこれまた中途半端で評判が悪い。
バルカンの火種もくすぶったままです。いや、列強のバルカンに対する無関心は、かえってその火を煽ったのかもしれません。結局そこでの“処理”の不徹底が、第二次世界大戦や20世紀末のユーゴなどでの紛争につながっています。後知恵ですが、あのときなんとかならなかったのかと思います。ただ、国内の政敵と戦い、味方のはずの同盟国とも争い、かつての敵国とも戦うわけで、それで何か合意を得ようとしたら、不徹底なものになるのは致し方ないのかもしれません。
そうそう、各国の指導者の女性遍歴を著者はなんだか嬉しそうに書き記しています。さらには、ケインズの同性愛傾向についても。
役人は国民に年金を真面目に払う気がなかった(あるいは、まさかこんなに大勢が長生きするとは思わなかった)から、年金の記録はきちんとつけていなかった、という解釈でよろしいですね。で「どうせ使わないお金だから」と自分たち内部で大盤振る舞いしてどこどこ減らしていた。ところが案に相違して、年金を大量に支払わなければならなくなってしまった……でも、金はない。
そこで“辻褄”を会わせるために後期高齢者制度を作って、老人にはまともな医療を受けさせないようにして、早く死なせようとしているのかもしれません。老人が早く死んでくれれば、それだけ年金の原資が減らずに済みますから。
それにしても「後期高齢者」とはなんともすごい呼び方です。前期のあとの後期ですから、まるで「まだ生きていたのか(=いつになったら死ぬのか)」と言わんばかりの悪意を感じません?
(だって、その“次”は“最期”ですもの)
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団塊の世代が大量に75歳になる年をとって「2025年問題」と呼ぶそうです。社会福祉のお金のことでよく考察されているそうですが、それは同時に高齢ドライバーの大量発生という問題も示しています。
事故率は高齢者よりも若年者の方が高いのですが、違反率は高齢者の方が高くなっています。その中でも特に目立つのが、前方や左右の安全不確認・一時不停止・信号無視です。その結果が「出会い頭の事故」です。中年以後でその事故が増加し、75歳以上の事故の1/3が出会い頭です。さらに、高速道路の逆走。2006年には948件です(ほとんどは事故には至っていませんが)。
加齢によって心身は変化します。大体は好ましくない方向に。運転に関しても、動体視力の低下・視野の狭窄・聴力低下・筋力低下・自己中心的な判断が多くなる……アブナイのです。しかも「自分はまだ若い」とさっさと動こうとする……もっとアブナイのです。
私が田舎にいたとき、ずいぶん高齢の人が本当にアブナイ運転をしていて、家族が心配して警察に「免許を取り上げてくれ」と言うと警察は「法的にそれはできない。家族が取り上げてくれ」とお互いに“嫌な役”を押しつけあっていた、なんてことがありましたっけ。高齢でなくてもアブナイ運転をする人からは、ちゃんと理にかなった方法で免許取り消しができるようになればいいんですけどねえ。本書にもそういった警察の対応に苦しみ社会的に孤立する家族の姿が登場します。一応「認知症」という診断がつけば免許取り消しは法的にできます。しかし、その“運用”が(いかにも日本的に)あいまいなのです。
「運転させない」ことばかりに血道を上げていても、それは根本的な解決ではありません。「高齢者が安全に運転できるよう」に配慮することも必要です。たとえば「もみじマークがついている車には、幅寄せなどをしない」。おっと、もみじマークがついていようといるまいと、幅寄せはしてはいけないんですけどね。標識を大きくしたり、道を安全なように改造することも考えられます。夜間視力が落ちてきた人は、日中だけ運転をする。どうしてもアブナイ場合は、無理に取り上げるのではなくて、代替手段を準備する(他の人が運転する。タクシーの方が結局安いことを計算した人もいます)。土佐清水市では、免許を返納した高齢者のための支援制度を作っています。タクシー料金やバスの定期券を割引にしたり、中央商店街の割引サービスなど。これだったら、抵抗が少し減るでしょう。
“問題”を持っているのは、「高齢者」だけではなくて「高齢者が生きているこの社会」なんだ、と私は思います。
使っているノートブックPCが瀕死のため、先の日曜にショップに出かけて新しいのを買ってきました。セレロンで他のスペックも控えめなのなら10万円以下のがいくらでもありますが、私が望む最低限度を満たすのだとどうしても十数万円。それだけ出すのならいっそ、ということで、MacBookにしました。昔のiBookの方が名前がかわいいのになあ。でもやっぱりスタイルはいい。特に底面がスッキリしているのは、マックの伝統ですね。WINのノートのごちゃごちゃした底面は(普段は見ないにしても)美しくなくて好きになれなかったのです。
Winでないと困るものもごく少数ながらあるので(たとえば一太郎)、ユーティリティに含まれているBootCampを立ち上げてWin-XPをインストールします。えっと、HDDの領域は32GB確保するとして、FATシステムだとマックからでも読み書きができる……なるほど。意味は全然わかりませんが、なるほど。
別に何の問題もなくXPが立ち上がりました。パッドの特殊操作(マックでの、二本指でドラッグしたらスクロールとか、二本指でタップしたら右クリックとか)が効きませんがそれは仕方ありません。あら、音も出ませんね。まあいいや。iTunesはマックで動かすから。
なんだか、これまでのウィンのノート(Sempron)より明らかにxpが小気味よく動きます。なるほど。windowsとは、本当はこれくらいちゃんと動くソフトだったんですね。なんでそれをマックで確認することになるのやら。ともかく一太郎がWinノートでのテキストエディターくらい軽く扱えます。これは良い。入力モードのトグルがこれまで私が割り付けていたキーでできないのは難点です(そもそもキーボードが違うから仕方ないのです)が、そんなの問題にならないくらい楽ちんです。
なぜかウィンでなかなかNASを認識してくれないので、とりあえずマックモードに戻ってNASから本体のHDDウィン領域にファイルを移してやりました。便利なんだか不便なんだかわかりません。だけど、ややこしい手段はともかく、目的が果たせればいいのです。……と書いて今気がつきました。WINモードではLAN接続ができていないのです。もしかして何か設定をミスったかルータがIPアドレスを発行しているのをWINが認識できていないのか。まあ、マックでネット接続すればなんの問題もないのですが、ただ、WINの認証がメンドウ。電話で42桁の数字のやりとりです。
そういえば、マックでもマウスの右クリックで普通に(Winで言うところの)右クリックメニューが立ち上がるのですが、これはいつからのことなんでしょう?(以前は「ctrlキー+クリック」でしたよね) ラクチンだから良いのですが。
あとは日本語入力を共通化するために(というか、これまで20年近く育てたユーザー辞書をそのまま使うために)マック用のATOK2007をオンラインで購入しました。WINで使っていたATOK2005の辞書を2007の白紙のユーザー辞書と合併させてやって、さて、やっとこれでばりばり入力できます。
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『
?東綺譚』永井荷風 著、 新潮文庫、1951年(86年55刷)、220円
震災によって大きく変わってしまった東京で、昔日の面影を探すかのように散歩を続ける初老の小説家大江匡は、執筆中の「失踪」という小説(退職をした主人公が家庭を捨てて若い女と姿をくらまそうとする話)の内容と重なるかのように、夕立に降り込められたときに偶然出会ったお雪という娼婦の家(寺島町)に入り浸りとなります。もともと大江は、公娼の町吉原に行こうとしてたまたま私娼街の玉の井に入り込んでいたのでした。お雪は若いのにいつも丸髷か島田に結っているような古風な女で、大江にとって彼と彼女が住む一帯は自分が慣れ親しんだ30年くらい前の日本を思い出させてくれる人と町でした。ご本人は、小説の取材のためだ、とか、家では回りがうるさくて執筆ができないから逃げ出しているのだ、とかいろいろ自己正当化をしていますが、そういった“論理的”な理由ではなくて、もっと感覚的あるいは感情的な理由から大江はお雪のところに通っているように私には見えます。ただ、単純な“愛情”や“肉欲”とも違うようです。女の家に通うくせにどこか恬淡としているのです。「隅田川の東岸」とは、昔の東京人には、なにか特別な意味がある言葉だったのでしょうか。
しかし、時代を感じさせてくれます。のっけから「活動という語(ことば)はすでにすたれて他のものに代(かえ)られているらしいが」です。あ、念のためですが、「活動」とは「活動写真(=映画)」のことです。あるいは「昔は、彼女・彼氏とは言わなかった」とか。女性はアパートの中をシュミーズ一枚でうろうろしていたり、アッパッパ一枚で戸外に出歩いていたり、恥ずかしさの基準は時代によって、と書こうとして、昭和の半ばにも男はステテコで女はシュミーズでそのへんをうろうろしていたのを私自身が目撃していたのを思い出しました。日本の庶民レベルでは「そんなもの」が“伝統”だったのでしょう。
「失踪」の筆は進みませんが、大江は少しずつ変わっていきます。たとえば格好が、最初は洋服に靴で身構えていたのが、浴衣にちびた下駄でそのへんをうろうろするようになってきます。お雪は私娼から足を洗う決心をします。おでん屋をやるので、大江に一緒になってやってくれ、と。
東京の暑い夏が少しずつ過ぎていきます。
老人と若い女、ときたら川端康成と私は脊髄反射で答えてしまいますが、永井荷風は川端とは全然違った“料理法”です。一番違うのは、社会とか時代の背景が老人と若い女性の上に濃厚にかぶさっているところでしょう(たとえば満州事変の影)。さらに、こちらで交わされる、かみ合っているようなかみ合っていないような二人の会話には、知性の裏付けが感じられます。知性としっかりした考え方を持っていて、器量もよい……で、私娼をやっている女性……こういうタイプは川端ではあまり読んだ覚えがありません。もしかして、永井荷風は、本当にこんな女性に出会ったのでしょうか? もしそうなら、その人のその後は?
ちなみにタイトルの「?」は「隅田川」のことだそうです。
バナナのようなうんこ/うんこのようなバナナ
愛想は良いがIQは低い先生/IQは高いが無愛想な先生
名曲を下手に弾く/でたらめを上手に弾く
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「悪夢の真相」……般若の面と高いところと橋が怖い中学生の昌子は、心理学的な手法で「人が感じる恐怖」の正体に迫ろうとします。
そういえば著者には『パプリカ』という心理学SFエンターテインメントもありましたね。心理学にも興味を持っていろいろ調べていたのでしょう。
「時をかける少女」……理科教室の掃除中にラベンダーの香りをかいで倒れた和子。マドレーヌではなくてラベンダーですから、“オトナ”ですねえ。地震・火事・交通事故……で時間と空間を超えたジャンプ。今の目からはあまりドラマチックなストーリーではありませんが、昭和40年だったらこれでも十分以上に刺激的だったでしょうね。
しかし、「中3コース」の11月号から連載されて最終回は高1コースの5月号って……連載のペースをどこかで間違えたのでしょうか。というか、中3の11月から連載開始って、何? 高校生になっても「時代」ではなくて「コース」を読んでね、という露骨な読者勧誘策?
そうそう、本作を読んでいらた「炎トリッパー」(高橋留美子)を思い出します。あれは同様のアイデアと小道具を使いながらも、なかなか強烈なストーリーでしたっけ。
「闇につげる声」……超能力を持った少年少女がたまたま同じ中学にいて、固く秘密を守っていたのにトラブルに巻き込まれて活劇を展開、というお話です。テレパシー・透視・テレキネシス・テレポーテーションと様々な能力の組み合わせで危地を脱していくのですがその果てには、苦い結末が待っています。60年代半ばというと、世間では冷戦がいつ熱戦に変わるかがさかんに心配されていましたが、ある種の子どもたちには超能力がブームでした。なんだか読んでいて懐かしい気持ちになりますが、こんな苦い結末を用意するとは、著者は人が悪いなあ(半分褒めています)。
そういえばこの時代には、漫画家も盛んに超能力少年(あるいは魔法少女)を主人公に作品を発表していましたっけ。けっこう安易に願望充足に超能力(や魔法)を使っている人もいましたが、後世に名が残る人はさすがにちゃんとプロットを練っています。冷戦のムードがそのまま反映していたのかもしれませんけれど。
こういったジュブナイルを読んでいると、学習雑誌を読んでいた昔の自分を思い出します。そういえばあの頃には「大学生が漫画を読むようになった」が社会問題になったんでしたっけ。
6日(日)ライラ
「レイラ」だとエリック・クラプトンの名曲ですが(若い頃の激しいのも良いですけど、年取ってからエレキギターをアコースティックに持ち替えて一オクターブ下げてしっとり歌っているのも好きです)、「ライラ」だと今はもちろん映画の「ライラの冒険 ──黄金の羅針盤」です。
次男の春休みが鏡までだったのを思い出したので、朝から行ってきました。夫婦は例によって夫婦50割引を使って、息子は前売り券ですからずいぶんお安くつく娯楽です。混むかな、と思っていましたが、ガラガラでした。
まずは字幕で簡単に世界観の説明。これは必要でしょうね。本だと別にかまいませんが、映画で突然異世界に連れ込まれてしまったらなまじっかいろいろ目に見えるだけに(特に「外部に存在する魂」であるダイモン)、常識的な観客は混乱を感じるかもしれませんから。
時間も二時間では短すぎました。物語世界が広すぎるのがイケナイのですが、とにかく圧縮されていて、ちょっとキーになる台詞を聞き漏らすと(たとえば「他人のダイモンにさわってはいけない」など)、演技の意味がとれなくなってしまうシーンが続々。私たちが観たのは吹き替え版だったのですが、この翻訳にはちょいと問題があって、そのキーの台詞がどうも場面転換の直前にぽつりと言われることが多くて印象に残りにくいようになっているように感じました。こちらは原作を読んでいるから勝手に補完しますが、初めての人にはちょっと辛かったんじゃないかしら。羅針盤が示す「予言」を心象風景として示すのは、映画として上手く処理したと感じます。これは本にはできないことです。
ライラ役のダコタ・ブルー・リチャーズは、14歳の新人だそうですが、このお嬢さん、将来はとんでもない美人になりそうです。お転婆のところはイマイチでしたが、感情を抑えた場面での細かい演技がなかなか良い。こんどは字幕版でじっくり声の演技も鑑賞したいな、と思いました。将来が本当に楽しみです。とりあえずは次作の「神秘の探検」ですね。
そうそう、もうすぐ「ナルニア国物語 カスピアン王子の角笛」が封切られます。なんだか忙しいなあ。
TVが普及して、日本中のお茶の間に「ひと言だけのコメンテーター」が増殖しました。ニュースが終わるなり「大臣はウソを言っているな」とか「事件の影に女あり」とかひと言だけ。ひと言ですまさないと次のニュースが始まってしまうから、いそがしいのです。「人の噂は75日」と言いますが、ニュースの寿命はそのひと言終了までで、よほどインパクトがある事件でなければすぐに忘れられていきます。大体(私のような)うるさいタイプのオヤジがお茶の間でひと言コメンテーターを務めていました。
やがて“公式”のひと言コメンテーターがTV画面に登場しました。ひな壇にわらわらと並んで、気の利いた「ひと言」を発言します。本当に気が利いていれば良いんだけど、なかなかそれを連続させるのは難しいからあれだけ数を揃えているのでしょう。
だけど、「ひと言」ですまして良い場合と良くない場合があると思うんですけどねえ。(とひと言コメント)
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ふつうこういったパソコンのハウツー本は数年たったら時代遅れ、が常識です。ところが6年前発行の本書を見ると、対応OSはWINが98・Me・2000・XP、マックは9とX。あらら、これならなんとかまだ使い物になりそうです。20世紀より21世紀の方がパソコンの“進歩”は遅くなっているのかな?
私自身は、同じマシンの中に両者を共存させているので別に「つなぐ」必要はないのですが、基本の理解は大切ですし、もし他人に聞かれたら説明できた方が気持ちがいいから、ちょいと図書館から借りてきました。
まずはファイル交換から。一番簡単なテキストファイルでさえWindowsとMacでは同じではありません。まずは機種依存文字。ついで改行コードの違いがあります(WINはCR(キャリッジリターン)プラスLF(ラインフィード)で、MacはLFだけ)。これはフリーソフトのiTextやMac標準装備のTextEditでなんとかできますが、次は拡張子。ファイル名に「.txt」や「.doc」をつけておかないとWINではファイルをきちんと認識してくれません。
……ったく、どうせMacOSをマネするのだったらきちんとマネしてほしかったなあ……あ、Win3.1と95は真似することにさえ失敗してDOSに一皮かぶせて一見Mac風に見えるようにだけした代物だったっけ。DOSモードでいろいろできるのは、それはそれで便利でしたけれどね。
次はデータ交換の手段です。フロッピーディスク、MO(懐かしいなあ)、CD?R、その他のストレージ(USBメモリー、USB接続インターリンクケーブル)が紹介されています。あれれ、私が使っていたZIPは?
インターネットを使う手も紹介されています。エクスポートコマンドでメディアに書き出したり、自分宛のメールを使ったり。解説を読んでいると、Win→Macへはそれほど問題は感じませんが、その逆にはけっこう工夫が必要なことがわかります。
そしてLAN接続。ルータを介して接続をしてファイルを共有は、私が実際にやっていたからか非常に理解しやすいのですが、FTPサーバーを立てるのはどうも直感的に理解できません。そういえば今世紀はじめに我が家でMacとWinの混在家庭内LANを構築しようとしていろいろ調べて、結局このFTPサーバーのところで挫折して結局ルーターを買ってきたんだったっけ。忘れていました。共有フォルダを作りましたが、MacOS9とWinーXPとではどうも接続がスムーズではなくてあまり有効利用はしていませんでした。
本書にはNASのことは載っていませんが、それは仕方ないでしょうね。やはり“古い”本でした。
「Macには3.5インチのフロッピーディスクしか使えない。(98で標準の)5インチが使えないとは、不便じゃないか」と言われていた時代からの生き残りにとって、MacとWinの共存がこんなに簡単になる時代がくるとは、まるで夢のようです。ちょっとほっぺをつねってみようかな。
タバコの自動販売機でタバコを買うのに、こんどから身分証明のICカードが必要になるのだそうですね。年齢認証は厳格で、電子マネーも使えるから便利だそうで……パチンコにカードが導入される前夜に業者や警察がいろいろ甘いことを言っていたのを私は思い出します。「必死に上手いこと言っているけれど、語られない暗部は一体何だろう」って思うのも、同じ。
本当に未成年者にタバコを売りたくないのなら、万全とは言えませんが簡単な解決法があります。お金もかかりません。自動販売機の撤去をして、昔のたばこ屋を復活させるの。対面販売で「何か年齢と本人が確認できるものがありますか?」と言えば、相当数の未成年者は買えなくなるはず。さらに自動販売機の電力消費が削減できてCO2排出も削減できます。もちろんこれでも抜け道はありますが、自動販売機を野放しにしてICカードの管理に血道を上げるよりは、確実に抜け道は減るはずです。だって、いくらカードを管理してもそれは人の管理でもタバコの管理でもないんだもの。
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ペットボトルのふたを取って中を洗って分別ゴミに出して、一般の人にとっては話はそこで終わりですが、本書はそこがスタートです。
ペットボトルが日本で広まったのはこの30年くらい。96年に(「容器包装リサイクル法」を契機として)小型ペットボトルが解禁されて爆発的に普及しました(2005年には約51万トン)。回収率は50%くらいです。
地方自治体から委託された業者は、まずはゴミの分別から始めます。ペットボトル以外がけっこう混じっているからです。(ゴミの分別もできない分別(ふんべつ)のない輩はどこにでもいるようで……) ボトルは加熱してペレットという粒にし、それを溶かして糸にして様々な製品にしています。
著者はそこで考えます。リサイクルにはずいぶんエネルギーを使う。しかも「サイクルの環」が閉じにくい(使っただけのペットボトルに見合う、たとえば作業服を買えますか?)。ならばリユースの方が環境にはよいのではないか、と。まっとうな結論です。問題があるとしたら、現代日本では「まっとうな結論」が嫌われる傾向にあることくらいかな。
次は携帯電話。日本人は平均して18ヶ月で携帯電話を買い換えているそうです。国内での推定廃棄数は年間3000万?4000万台。……いくら何でも“贅沢”すぎません? で、リサイクル率は40%。……ちょっともったいなさすぎません?
で、リサイクルに回った“ゴミ”は“資源”に化けます。だって金鉱山よりも金の含有量が多いんだもの。焼くとプラスチックが利用できませんから、手で解体します。手間と時間がかかりますが、本書に登場する「手で解体するライン」は知的障害者の作業所でもある……だから人件費が節約できる、というのですが、私はちょっと思考が停止してしまいます。作業に失敗しても壊れるだけで別に問題なく、人件費が安くてすんで、皆がハッピーなのですが……これで本当に良いのでしょうか……
食品トレーは、4トントラックいっぱいに詰めても300kgくらい。輸送コストがかかります。さらに、またまた例によって回収ボックスにトレー以外を入れる輩が……それを分別して産業廃棄物として処理するためのコストが、リサイクルのコストに上乗せされます。まったく、困ったものです。
私が知っているエフピコも登場します。食品トレーから食品トレーを再生している会社です。一度ペレットにしてまたトレーに成形しているのですが、「再生品」を気にする消費者のために食べ物に触れる表面には新品のトレーの膜をかぶせているそうです。そこまでする必要がありますかねえ。さらには、トレーにフィルム膜をかぶせてあって、使用後にはその膜をはがして回収ボックスに入れたらトレーは清潔で洗う水も節約できる、というものまであるそうな。
だけど、食品トレーって絶対必要なもの、ですか?
あと、電池・衣料・生ゴミ・家の資材・冷蔵庫・びん・廃食油・水・布団・放置自転車・パソコン・割り箸・雑紙が取り上げられています。ふわふわしたムードだけのリサイクル礼賛ではなくて、ちゃんと現場を踏んでいる点で、好感の持てる本でした。また、考えさせられる材料もてんこ盛りです。
たとえば、中古衣料の重要な行き先だったウェス(工業用雑巾)。ISO14001やゼロエミッションで「工場からゴミを出さない」ことが重要視され、ゴミになるウェスが嫌われて紙ウェスやレンタルウェスに切り替えるところが増えたため、中古衣料の行き場が狭められてしまったのだそうです。……なんか変。
「人前で注意されて恥をかかされた」と怒る人がいます。だけど「注意されたら恥ずかしいこと」を最初から人前で堂々とやっていたのは、誰? はたして、悪いのは「注意した方」なのでしょうか。
【ただいま読書中】
1940年、イギリスは参戦していますがアメリカはまだ参戦していないとき、イギリス・ドイツ・日本では原子に関して最先端の研究が行われており、アメリカは一歩後れを取っていると焦っていました。科学者たちはフェルミの後援を得、アインシュタインを大統領の下に差し向けます。アメリカでも原爆開発をするべきだと説得するために。ナチスに先を越されたら世界はお終いだ、と。同じことは科学者にも要求されます。ナチスに原爆をつくらせず使わせないために、兵器開発への反感を押さえて協力しろ、と。
本書では史実をふまえた上での小説仕立てになっています。実在の人物をモデルにした登場人物は生き生きと動き回りますが、どうしても実在の人物を登場させなければならないシーン(たとえばアインシュタインとルーズベルト大統領が登場するシーンなど)では慎重にベールがかけられています。著者はなかなかの手練れです。実在の人物を主人公にしたら、「こんな会話が本当に行われたのか?」「彼はこんな行動をするわけがない」などとツッコミが入りそうですから。
さらに、完全に架空の人物(当時マンハッタンプロジェクトに存在しなかった女性科学者)が物語に彩を添えます。本書では、男は軍人や科学者で戦争を遂行する側/女は子育てなどで戦争に疑義を唱える側、とけっこうステレオタイプに描き分けられています。それは当時の世相(男と女の世界が完全に分かれていて、女性は男性に従うのが当たり前だった)を反映しているのでしょうが、著者が登場させるジェーン・アール(インド育ちの女性科学者)はその両者をつなぐ“架け橋”役になるのです(それ以外にも重要な役をこなしますが、それは読んでのお楽しみ)。ただ、女性科学者は「女性」と「科学者」の間に挟まれて悩むのに、男性科学者は「男性」と「科学者」の間で悩まないのは、なぜなんでしょうねえ。
シカゴ大学に最初の実験原子炉が作られます。まったく、「そこが便利だから」って市内に作りますか? 恐ろしいことにこれは史実です。そして砂漠の真ん中に巨大プロジェクトが立ち上がります。10年以上かかるだろうと最初言われていた研究開発とその技術の実用化が突貫工事で行われます。ついに最初の原爆の完成。実験も成功。さて、と言うところでドイツの降伏。プロジェクトは目標を失ってしまいます。しかし爆弾は行き先を見つけます。日本です。
科学者たちの、科学者としての良心と人間としての良心の葛藤。この部分を読むのは、日本人として、被爆地で育った人間として、なんとも複雑な気分です。単純に「この大量殺戮者!」と言ってすませることができるのなら、私の人生は単純で良かったのでしょうけれどねえ。
「科学」が産業と結合してビッグサイエンスになる過程が活写されます。ただ問題はそれを仕切っていたのが軍だったことでしょう。科学技術の力による大量破壊兵器を知った人間は、21世紀にはこんどは何を覚えるのでしょう?
鏡をじっと見つめる人は、自分は何を見たくて、他人には何を見てほしいと思っているのでしょう。
食事をしながらでさえ新聞を読みたがる人は、何を見たくて、何を見てほしいのでしょう?
【ただいま読書中】
冒険小説読みでかつオススメの大家の著者が、「読者にお金を損させない」「コーヒー一杯飲む金があったら本を読め!」と面白いこと間違いなしの冒険小説を日本・海外お構いなしに集めて勧めて進めて薦めまくった冒険小説オススメ第二弾です。
私の読書日記とは違って、熱い本です。冒険小説への愛が満ちあふれています。ただ、何でもかんでも絶賛するわけではありません。たとえ大家の本でも厳しいチェックが入ります。
読んでいて、自分が読んで楽しめた本が登場すると(そして著者がそれを褒めていると)、嬉しくなります。読んでいない本が登場して(そして著者がそれを褒めていると)読みたくなります。
いやあ、しかしこんなに嬉しそうに、しかもネタバレなしで本についてしゃべることができますかね。(だって一番美味しいネタをばらしてしまったら、それは読者に(本を買った)お金を損させることになるのですから) これはもう一つの“芸"です。著者は立派な芸人です。彼が好きな冒険小説とアルコールに、乾杯!(私は飲めませんけどね、精神的にグラスを上げます)
そういや私はディック・フランシスを全然読んでいないことに本書を読んでいて気がつきました。別に何かポリシー(?)があってのことではないのですが、どうしようかなあ。もう少し我慢して“老後の楽しみ"にしようかしら。
笑っちゃうところも多々ありますが(たとえば「ミウラミウラとマスコミが大騒ぎしているけれど……」なんてところ)、驚くのは本書がちっとも“古く"なっていないことです。もちろん本書で「新人」として紹介されている人が今ではベテランですが、そんなのは瑕疵でさえありません。著者の文章は時代に捕われず、宇宙を悠々と遊泳しています。
さらに特筆するべきことが。本書には索引がついているのです。著者名と書名との二つ。データ集として使うこともできて、ありがたいことです。
……しかし(レベルの高い)オススメ本をお薦めするのは、なかなか難事だなあ。
素朴な理想主義者は、自分が旗を振れば皆がついてくると思います。
現実的な理想主義者は、自分の旗をどうやったら他人に振らせることができるかの画策を熱心に行います。
暴力主義者は、自分の“理想”を、他人に暴力を振るうための手段として活用します。
【ただいま読書中】
各国の不満も高まります。たとえばベルギーは、ドイツによって全土がほぼ廃墟と化していたのに講和会議ではほとんど無視されたことを怒っていました(第二次世界大戦でポーランドも同じ目に遭います)。イタリアも参戦によって最大限の利益を得ようと考えていましたが、やはり講和会議で欲求不満を高まらせていました。その結果国内で国粋主義者の勢力が強くなり、結果としてムッソリーニの台頭を許すことになってしまいます。中欧は、民族と宗教がミックスされていてきわめて複雑な状況でした。そこを人為的に分割することは、結局将来への火種を残すことになります。
結局、第二次世界大戦(あるいはその後の戦乱)は、ほとんどが第一次世界大戦で準備されていたことがよくわかります。
日本は、明治以来国家として急成長していましたが、第一次世界大戦でさらにチャンスをつかみます。パリに来た日本代表団の目標は、基本的に日本の国益に集中していました。国際連盟で人種平等条項を入れさせること・北太平洋の支配・ドイツが支配していた山東半島の割譲、です。さらに、他の列強から警戒されていることを知っていた日本政府は、その警戒心を和らげることも代表団に命じます。言うは易し、ですが。特に北太平洋は、グアムやハワイを併合していた合衆国ともろにぶつかります。合衆国でも日本でも、他方が侵略してくるという架空戦記小説が次々出回ります。
対ドイツ講和条約に連合国が全員一挙に署名することを目指すピースメイカーズは苦心惨憺の妥協工作を続けます。しかし「全員がほどほどの満足」は結局「全員が不満を持つ」状況でしかありません。排日法を持つ米と植民地を多く抱える英は「人種差別廃止条項」を認めるわけにはいきません。その代償に、ドイツの租借地だった山東半島を日本に与えようとします。こんどは中国が黙っていません。ところが中国も内乱状態。内政の混乱とヨーロッパ諸国への失望から、ロシアに起きている新しい政治実験への同調の流れが強くなります。オスマンの解体で、中東にも紛争のタネが蒔かれます。こちらは政治と宗教と軍事と石油が絡んでいます。そして(後にヒトラーの台頭を許す)講和条約に対するドイツ国内の猛反発。もっとも著者は「たとえドイツが満足する講和条約だったとしてもヒトラーは別の“不満"と要求を述べていただろう」と皮肉っぽく書いています。
ピースメイカーズは平和の名の下に様々な火種の温床を作り出してしまいました。ただ、同情もできます。現地に対する無知・個人的プレッシャー・解決を求められる様々な矛盾した要求……特に、印象的なのは民主主義と民族主義の対立です。連合国は民主的な手続きで物事を解決しようとしていましたが、そこに持ち出される要求の多くが民族主義的なもの(その典型がシオニズムでしょう)。普通に考えてもその両方を満足させるのは無理です。実はそれは、現在の世界にもそのまま言えることでしょう。
さらに本書の魅力は「個人」に焦点が当てられていることです。理想主義者のウィルソンが現実によって少しずつ打ちのめされていくところなど、思わず同情してしまいます。
ちょっと前に家族でボウリングに行ったときのことです。隣のレーンで遊んでいた高校生くらいの男子のグループがちと私の心のアンテナに引っかかりました。一人、どうも回りからの扱いがぞんざいな子がいるのです。一見皆楽しそうに会話してはしゃいでいるのですが、その子だけこずかれたり賭の条件を一方的に不利に突然変えられたりしています。
そのうち皆で自動販売機の方に行きました。見ていると、金を払っているのはその子です。賭に負けたから払っている、という風ですが、なんだかただたかられているだけのようにも思えます。
結局彼らは、相変わらず(一見)楽しそうに騒ぎながら消えていきました。私は今でもなんだか不愉快な思いを抱えたままです。何かするべきだったんでしょうか?
【ただいま読書中】
ブルーバックスなのにフィクションで始まるので意表を突かれます。『
チーム・バチスタの栄光』などに登場する“ロジカルモンスター"「白鳥室長」へのインタビューと著者の主張とが交互に繰り返される構造なのです。
日本の死者は年間100万人以上。そのうち解剖されて死因がきちんと確定されているのは約2%にすぎません。残りは体表からの観察だけで“死因"が決められているのです。まるで江戸時代のように。それで良いの?と白鳥サン(と著者)は問います。
解剖はたしかに不愉快なものです。だけど、解剖しなければわからないことはたくさんあります。死因・診断の見落とし・治療効果の判定……今の医学は死者を解剖することで進歩してきました。今のレベルで医学が停滞すれば良いのならいいのですが、皆さん同意見です? さらに解剖の単純な否定は犯罪や虐待もあっさり見逃すことに通じます。
厚労省は基本的に「解剖つぶし」の立場です。予算は削りまくり、「解剖は不必要」の宣伝を行い(だから国民の間には「解剖は拒否」の気分が蔓延していません?)、解剖医いじめもやります(たとえば解剖室の清掃は医者の仕事と規定されています)。
だけど、死因が確定していなかったら、近い将来始まる裁判員制度も事故調もきちんと機能しないのではないでしょうか。たとえばあなたが裁判員に選ばれて「死因はよくわからないけれど、外から見た鑑定意見が様々ある。その中で良さそうなのを選択して、有罪か無罪か適当に判断してくれ」と言われて“正しい判断"ができます? つまり死因確定は「あなたや私の問題」でもあるのです。
そこで著書が持ち出すのは「えーあい」=Ai(オートプシー・イメージング)。要するに死亡時に画像診断(全身CTやMRI)をするわけです。死者をすべてAiにかけて、そこで異常な所見を見たものだけ解剖すれば、不必要な解剖はなく、遺族の感情も不必要に傷つけられることがなく、死者の基本的人権も守られる、というわけです。そう、「死因確定は基本的人権である」が著者の基本的主張です。白鳥サンのふざけた口調に煙に巻かれることなく、本書を読まれることをオススメします。
15日(火)本当に影響?
山口2区補選告示 2人が届け出
http://news.mixi.jp/view_news.pl?id=461084&media_id=2
>>補選の結果は、道路特定財源問題や日銀人事などを巡って対立が続くねじれ国会の攻防にも大きな影響を与えそうだ。
いつもの決まり文句ですが、補選の結果が政局に重大な影響を与えたことってどのくらいありましたっけ?(たとえば首相が「補選に負けた。国会解散だ〜」とか)
まあ、それくらいの覚悟で政党は選挙戦を戦っていると言うことでしょうが、マスコミがこんな決まり文句しか使えないとは情けない。もうちょっときちんとした記事と分析を期待……できないのでしょうね、この体たらくでは。
なんだか政府が「必要な道路は造る」とまるで住民のためを思って言っているかのようなフリをして必死に主張を繰り返していますが、さてさて、そのホンネは?
私が田舎に住んでいたときに感心したのは、一部の道路の立派さと、そのガラガラぶりでした。数分どころか十分間くらい時速ン十キロで走っても、信号も対向車もなし、なんて道路があちこちにあるのですよ。かと思うと、山中の集落と集落の間の山道が、すれ違いが困難で住民が困っていてもずっとずっとそのままだったり。
「道路の必要性」って、そこに住む人(道路を使う人)のものではなくて、その道路を造る人のための「必要性」なんじゃないか、が、現在の私の推定です。
あ、またニュースで言っています。「必要な道路は造る」って。誰にとって必要な道路のこと? その必要性を誰がどうやって判定するのか、明確にされていましたっけ?
【ただいま読書中】
『
マグニチュード10』アーサー・C・クラーク/マイク・マクウェイ 著、 内田昌之 訳、 新潮文庫、1997年、781円(税別)
7才のルイス・クレインが地震で両親を喪うシーンから本書は始まります。(子どもが災害に襲われて、成長してから……という点で、映画「
ツイスター」のオープニングをちょっと思い出します) 30年後、クレインはノーベル賞を受賞した天才地震科学者で、佐渡での巨大地震の規模とその発生日時(それも分単位)、さらにはどこが安全地帯で生存が可能かまで精密に予知して見せます。誰も信じなかったため結局損害は膨大でしたけれど。
本書は2024年の設定ですが、奇妙なことが多々起きている世界です。真空管が現役で、日光が忌み嫌われ(「日陰にめぐみを」という挨拶があります)、飲み物には「ドルフ」と呼ばれる内因性エンドルフィン=人間由来の麻薬が日常的に混ぜられます(ただ、「真空管」は「真空チューブ」と訳されるべきだったでしょうね。本書でも別の場所ではそう訳されているのですから)。詳しく語られない「マサダ・オプション」と呼ばれる全世界に影響を与えた大事件で、イスラエルとイスラムの関係には大変動が起きていますし、アメリカは中国系のコングロマリットが支配しています(その前はドイツが支配していたそうな)。さらには黒人差別はアメリカ国内では合法的となっています。その政治状況、「自分の団体の利益を最優先する権力者」たちの思惑が錯綜する中で、クレインは「地球上のすべての地点での正確な地震予知プログラム」を立ち上げようとします。ただしそれは「目的」ではなくて「手段」でした。
細かい描写が生きています。被差別層のニューカムは、自分と似たところを持つクレインに対して愛憎半ばの感情を抱いています。クレインも複雑です。単に地震予知をするだけではなくて、地震被災者の救助のことも思っています。しかし、クレインは天才だが分別を欠き孤立して生きているのです。女であることを隠して生きている人もいます。そして陰謀がいくつもクレインの研究所で交差します。
ここまでで大地震や火山噴火のスペクタクルを交えて200ページ。しかし本書は600ページ以上、試してみたらそのまま“立つ"文庫本でした。先はまだまだ長く、まるでカオス理論をそのまま小説化したかのように、事態は混沌とします。科学に身を捧げる人、スパイ、監視者、妨害者、裏切り者……様々な人が様々なことを行います。“活躍"しないのは法務部門の人間くらい。そして登場人物たちを特徴付けているのは“孤独”です。
結局予知に失敗して窮地に追い込まれたクレインは、乾坤一擲の勝負に出ると同時に全地球シミュレーターの起動を試みます。その目的は……「地球から地震を取り除くこと」。いやあ、驚天動地の展開……じゃないですね、地震をなくすのですから驚天静地……地は動かなくなるのです。どのような理論で、そしてどのような手段でそれをクレインは行うのか。自らのもくろみに突き動かされている孤独な人びとは、本当に連携できるのか。そして、タイトルの意味は? 物語はぐいぐいと巻末へ向かって突き進んでいきます。
後書きによると、クラークは梗概を提供しただけで、マイク・マクウェイが実際の執筆を行ったそうです(二人は顔を合わせたこともなかったそうな)。で、マイク・マクウェイは本書完成直後に急死。本当に惜しいことです。
ニュースでずいぶん力説していましたが、もしもあの政治家が「兵站は軍事活動ではない」と本気で言っているのだとしたら、日本は次の戦争でも勝てませんね。政治家が大好きな兵隊さんごっこをするためには、最低限、兵隊さんと鉄砲と弾薬と食料と水と情報管理システムと壊れたものの修理システムと傷ついた人の治療システムを現場に運ばなきゃいけないんですよぉ。そうそう、死体をどうやって本国に送り返すかの流通システムもね。
【ただいま読書中】
『
スイスの歴史』(刀水歴史全書43) U・イム・ホーフ 著、 森田安一 監訳、岩井隆夫・米原小百合・佐藤るみ子・黒澤隆文・踊共次 訳、 刀水書房、1997年、2800円(税別)
「スイス」と言えば、最近は「マイミクさんの一人が住んでいる国」が加わりましたが、それまでは傭兵・銀行・時計・連邦制・武装中立・アルプス・国民投票・チーズくらいしかすぐには思いつかない国でした。
人がアルプスに住むようになったのは、出土品によって紀元前16世紀まで遡れます。やがてケルト人が入植し、ローマ帝国へのゲルマン人の侵入に加わっています。それに対して、カエサルが(ガリアへの遠征の一環として)アルプスに兵を送り、結局紀元前15年にアウグストゥスの命により全アルプスが征服されます。こうして、ケルト系の住民の一部はラテン化します。そこにゲルマン人が侵入し、フランク王国が支配し衰退し……それでも、ブルグント・アレマニエン・ラエティア・ロンバルディアは小部族国家の性格を保ち続けました。
中世から近代へは、複雑です。諸侯とキリスト教と経済と外交が複雑に絡んで次々戦争が起きています。15世紀末のブルゴーニュ戦争で示した軍事力によって、“スイス”は国際舞台に華々しくデビューすることになります。ヨーロッパの各勢力はスイス傭兵を味方につけようと奔走するようになります。その頃スイスは、13の邦(オルト)からなる連邦組織=盟約者団でした。紋章は白のスイス十字。
宗教改革は、スイスの都市では政治と結びつき、農民にとっては独立運動でした。ただ、プロテスタントも“外国”のプロテスタントよりは盟約者団の連帯を優先したため、スイスは結果として内部に分裂の種を抱え込むことになります。ただ、各邦が各国と同盟を結ぶため、「スイス」としてどこかにつくことは不可能となり、しかも軍事力は強大で金さえ出せばどこにでも出かける……交渉相手としてはタフな存在ということになります。30年戦争では「中立」が意識的に選択され、スペイン継承戦争ではさらにそれが強固になり武装中立となります(スイス傭兵が両方の陣営に加わっていたのですが)。
プロテスタントの都市部では工業が発展します。農村でもチーズ生産が盛んになり、「豊かな国」というイメージが定着しますが、現実はちと違う、と著者は述べます。
18世紀には啓蒙主義がもたらされ、スイスは、傭兵よりも家庭教師の輸出国として知られるようになり、ドイツの啓蒙主義にも大きな影響を与えます。特徴は、実践重視と寛容の精神で、ユダヤ人に対する迫害も18世紀頃には下火になります(これはヨーロッパでは異色のことですね)。
フランス革命とその後の大変動の中でもスイスは中立を守ろうとします。しかし、フランスによる占領、独立回復、ナポレオンによる占領、(列強の支配下での)独立回復……ウィリアム・テルが“英雄”となり、スイス最初の統一憲法が作られます。
世界大戦中の「中立」がけっしてきれい事でなかったことも本書には書かれています。小国が生き抜くのは大変なことです。
……しかし、婦人参政権が連邦レベルで認められたのが1971年……ずいぶん遅かったんですね。まあ、日本もあまり威張れはしませんが。
「やたらと軍事力があるのに、内部は政治的にばらばら」といえば、幕末の日本も思い出せます。列強に支配されないためには、こういった“手”が有効なのかもしれません。日本と違ってスイスの場合は文字通り列強に囲まれていたのと宗教的にも複雑だったのがずいぶん違うから、あまり単純化はできませんけれど。
電車の中で若い人が二人話をしていました。「今日は何があっても遅れるわけにはいかないんだよな」「ああ、そうだ」「あれ、でも、もうこんな時間だ」「やばいかも」
電車の中で走ったら早くつくかもね、なんて茶々を私は内心入れました。えっと、相対性理論を応用したら、なんとかなるかな?
いや、私は「何があっても遅れるわけにはいかない」状況がこの世に存在することはわかっています。そして、マーフィーの法則から「遅れる可能性があるときには必ず何か起きて遅れる」ことも理解しているのですよ。
おやおや、あのお二人、真剣にあせり始めました。お気の毒に。どうも電車の乗り換え時間の計算をミスっていたようです。
本当に「何があっても遅れるわけにはいかない」のなら、何があっても良いように、代替手段をいくつも用意しておくものでしょうにね。事故で電車が不通になることだってあるでしょう。その時にはタクシーに乗るにはどこが有利か、とか考えておかなかったのかな。こんどからは、到着がぎりぎりにならないように、最低限、せめて10分は早く家を出ましょうね。
【ただいま読書中】
タイトルは「たげんのそらに」と読みます。
「雉も鳴かずば打たれまい」と同様の諺は世界中にあるそうです。「愚か者はスズメバチの巣をもぎ取る(フィリピン)」「去って行く虎に小石を投げる(インド)」「痛みのないおできを爪楊枝で刺す(カンボジア)」「オオカミが怖いくせに森に行く(ロシア)」「虎が徘徊するところに行って不運と嘆く(ミャンマー)」「ゴミ捨て場をつついてゴミまみれ(ネパール)」「刃物で遊んで怪我(ベルギー)」「喧嘩の仲裁をして殴られる(アラブ)」「ハイエナの相撲をヒツジは見に行かない(セネガル)」……まだまだ載っていまっせ。で、なぜかこれらの諺が「医者の不養生」のところに載っている不思議。
こんなふうに、ある一つの諺を発端にして、著者は自由自在に発想の翼をはためかせ、世界中を駆けめぐります。似た諺が出てくる出てくる。読んでいて楽しくなってしまいます。
ところが「寄らば大樹の陰」はあまり見あたらないそうな。これって、「日本的」な発想なんでしょうか? さらに少ないのが「馬鹿と鋏は使いよう」。これも日本的なのかしら。
「大山鳴動して鼠一匹」は、なにやら中国的なにおいがしますが、著者の調査では古代ギリシア(あるいはエジプト)出身の諺だそうです。
「飼い犬に手を噛まれる」に相当する諺はアジアには多くヨーロッパには少ないそうです。そのかわりヨーロッパに多いのは味方や友人を警戒せよ。文化の構造の違いでしょうか?
本書には色っぽい文章もたくさん出てきますが、いずれも一ひねりしてあります。私が笑ってしまったのはロシアの諺「男は常に欲し、しかれども常にできるとは限らず。女は常にでき、しかれども常に欲するとは限らず」……この諺から展開するタイの男娼の世界の紹介は……男としては、「あ゛あ゛」とため息をつきたくなるものです。
著者のペンは古今東西を駆けめぐり、「似ている諺がどこにでもある」と感心するだけではなくて、「これはローカル」と気づかせてくれて、しかもこの連載当時の世界情勢についてもばったばったと軽快にことばでいろいろなものをなぎ倒してくれるものです(そうそう、ブッシュとコイズミが好きな人は読まない方がよいかもしれません。悪口がてんこ盛りですから)。さらに下ネタまで登場するのですからサービス精神旺盛な本と言えます。いろんな意味で“お得”です。
21日(月)関山・思川・天の川・楊貴妃・虎の尾・鬱金
何を列挙したんだ、と思われるかもしれませんが、どれも桜の名称です。たとえば思川(同じ名称の川が栃木県にあって、川岸のサイクリングロードを自転車で走ったことがあります。気持ちの良い川でした)は小振りの花が特徴的ですし、天の川は枝があまり横に広がらずすっと縦に天を目指して伸びています。鬱金の花は桜色ではなくて緑白色。虎の尾は枝が虎の尾のようにうねうねっと伸びていますし、紅手毬は花が手毬のように丸まっています。花笠は花が全部下向きで、見上げたらまことにきれい。ちなみに桜は300種類はあるそうです。
ずっと昔の大阪通り抜けオフで、造幣局の桜を見たことを今でも時々思い出します。で、昨日八重桜見物に行ってきました。ちょうど今通り抜けをやっていますが、残念ながら大阪までは行けなかったので近場で間に合わせました。でも、桜は桜。載せた写真は見たほんの一部ですが、左から、楊貴妃・思川・鬱金です。
【ただいま読書中】
『にっぽん列島桜旅』藤井正夫 著、 グラフ社、1981年、980円
「桜」をライフワークとした写真家の本です。日本中の桜を撮影し続けて、心に残った桜を南から北へ順々に紹介しています。この本一冊を持てば、桜前線を追っての「桜巡礼の旅」ができるかもしれません。
なぜか沖縄は省略されて、旅は鹿児島から始まります。桜島を借景にした磯庭園でのソメイヨシノ。熊本では熊本城。ローアングルから桜の花を通して見上げる天守閣の写真が印象的です。戦国の荒々しさを残した熊本城と対照的に優艶なのが姫路城の桜です。「見せる城」に桜が配置されると、もう優艶の極致だそうです。そう言われると一度見に行きたくなります。
奈良は吉野が紹介されています。ただ、桜が多すぎてかえって写真になりにくい、と贅沢な悩みも。著者は「一度ヘリコプターに乗って花吹雪の吉野を上空から撮してみたい」と書いていますが、NHKの番組で、パラグライダーとビデオカメラでそれをやってた人がいましたっけ。あれはまた別世界(桃源郷というか桜源郷?)でした。
京都は……個人的には哲学の道での散歩が忘れられません。上を見れば満開の桜、前を見たら延々と続く桜の並木と花吹雪、そして下を見たら花びらが次々流れる疎水の水面。桜に塗り込められたような空間をゆったり歩くのは、贅沢な時間の過ごし方でした。
北陸・中部は私にとっては完全に未知の領域です。なぜか桜の季節には行ったことがないものですから。ただ、著者が紹介する桜を見たくなる気持ちと同時に、著者が「桜は排気ガスや土壌汚染に弱い」と心配するのを聞くと、車で見物に行ってはいけないのか、とも思います。
東京では上野公園が取り上げられていますが、主に書かれているのはそこの桜が置かれた悲惨な状況です。管理は悪く病気がちで、しかも花見のシーズンには平気で根を踏み枝を折る輩が……著者は桜に代わって涙しています。新宿御苑には八重桜が多く、関山・普賢象・松月、と著者は指折り数えます。おそらく今が見頃でしょう。千鳥ヶ淵のソメイヨシノは、私が歩いたときにはもう葉桜でしたが、満開の盛りに見たかったと今でも心残りです。
東北の桜も私はあまり知りませんが、福島県の三春の滝桜は、文章を読んでいるだけでその姿が目に浮かぶようです。口絵にカラー写真が載っていますが、樹齢数百年のしだれ桜ですか。その“迫力”はやはり実見しないとわからないのでしょうね。
北海道の桜のトップバッターは函館で、5月10日頃だそうです。函館公園には3000本、五稜郭公園には200本、と聞くとこれも見に行きたくなります。
桜はもともとは農事と密接な関係があったそうです。「あの桜が咲いたからそろそろ田植えの準備をしよう」とか。ただ単に花見をして楽しむだけのものではありませんでした(もちろん農作業の間に手を休めて楽しむことはあったでしょうが)。あるいは信仰の対象だった桜もあります。ただ、花を見て桜を見たつもりにはならない方がよいのかもしれません。それと、全国で桜は痛めつけられています。その桜の姿はそのまま日本の将来である、と著者は警告します。
日本政府が「鳥インフルエンザのワクチンを、まず医者に打つ」と
発表したら「医者だけ守るのか」という非難が聞こえました。だけどこれをたとえば「まず6000人の赤ん坊で新しいワクチンの安全性の臨床テストをする」と発表したら、そういった“非難する人”はこんどは「赤ん坊はモルモットか」と非難するんじゃないかなあ。実際には、新しいワクチンは、効果は不明・副作用は確実にある、わけで、最初は志願者でテストするべきじゃあないかしら。
さらに私が問題にしたいのは「(そうやってテストが済んだ後の)ワクチンの優先リスト」に国会議員がちゃっかり入っていることです。「国会議員はこの国で優先的に生き延びるべきか」というアンケートを国民全体に取ってみたいな。
【ただいま読書中】
ご存じの方が多いでしょうが、インフルエンザはただの「ひどい風邪」ではありません。人命を奪うおそろしい病気なのです。さらに、現在流行がおそれられているインフルエンザはただの「新しい型のインフルエンザ」ではありません。人命を奪うだけではなくて社会を破壊する可能性がある疫病なのです。
人には人の、鳥には鳥のインフルエンザがあります。ところが時に、鳥のインフルエンザが人に感染することがあります。するとニュースで「鳥インフルエンザで死者」と報じられます。ところが問題はこの次。本来鳥の病気ですから人に感染するのはいわば偶発事故です。問題は、人に感染した鳥インフルエンザウイルスが突然変異を起して「人→人」への感染力を獲得してしまった場合です。多くの人は過去の病気に対しては免疫力を持っていますが、新しい病気に対しては無防備です。そこで世界的な大流行(パンデミック)が起きる可能性があるのです。
弱毒型の鳥インフルエンザは主にカモなどの渡り鳥の腸管や気管の中で静かに生きています。それが鶏に感染しても普通は産卵率が下がる程度です。ところが鶏で感染を繰り返しているうちに突然強毒性(高病原性)に変異してばたばた鶏を殺すようになることがあります(特にH5型とH7型)。それがさらに人に感染することがあるのです。すると何が起きるでしょう。
2003年からの5年間で335人が強毒型H5N1鳥インフルエンザに感染していますが、おそろしいことに致死率は60%。さらに特徴的なのは、40才未満の患者が圧倒的に多いことが特徴です。若者を大量に殺す、それが人に感染した鳥インフルエンザです。
強毒型の新型インフルエンザは、気道に限らず全身に感染します。さらに、感染に対して発動された防御機構が暴走してサイトカインが過剰に生産され、その結果サイトカイン・ストーム(過剰なサイトカインによって全身の臓器が傷つけられる)と呼ばれる現象が発生します。だから人がばたばた死ぬのです。「スペイン風邪は大変だったけれど、それほど死者が出なかったアジア風邪の例もあるし」なんてのんびりしている場合ではありません。スペイン風邪は弱毒型のインフルエンザで、たまたまサイトカインストームを起こしたので死者の数は増えましたが、それでもまだ“おとなしい方”なのです。
もちろんそんな最悪最凶の疫病は流行しないかもしれません。ウイルスは強毒型に突然変異しないかもしれませんし「人→人」への感染性を獲得しないかもしれません。自然は気まぐれですから。しかし「流行はしないだろう」と高をくくっていたら足をすくわれるかもしれません。自然は気まぐれですから。
結構専門的なことも書かれています。(たとえば、ウイルス遺伝子で、増殖至適温度を決める部分についてとかウイルス分離法の記載など) だけどそれは数学の本で数式が登場するようなもので、そういったムズカシイところはとばしてもちゃんと意味は通じるように書いてあります。
そうそう、クジラもインフルエンザに感染するって、ご存じでした? 私は知りませんでした。どんな症状なんだろう? クジラがくしゃみ??
「戦争の世紀」とよく呼ばれます。たしかに19世紀とは戦争の“質”がまったく異なります。戦場で軍隊同士が決戦してその結果で勝った国がトロフィー(都市や港)を得る、という“19世紀型の戦争”が、20世紀にはとにかくたくさん殺したくさん破壊して相手の国をとことんたたくものになりました。ただ、それは現在「テロ」に変貌しています。
また、共産主義の実験が大々的に行われた世紀でもあります。実験は結果としては失敗でしたが、その“収穫”は共産主義の国よりはむしろ資本主義の国で活かされているように私にはみえます(たとえば社会福祉の面で)。
また、知識の世紀でもありました。大量の知識が獲得され「専門家」が大量に生まれました。一般人でさえ知識を大量に保有するようになり、インターネットがその動きをさらに加速しています。しかし専門家同士の連携はうまくいかず、さらに現在、人は知識におぼれようとしています。
石油の世紀でもあります。ただ、石油はそろそろお終いです。
さて、人類にとって21世紀はどんな世紀になるのでしょう?
【ただいま読書中】
石油の生産量のピークは、実は2007年ではないか、と言われているそうです。ということは、今から「安い石油をじゃぶじゃぶ使う」生活はもう望みにくくなる、ということです(CO2排出抑制のためにもそれはできないでしょうが)。本書で問題にしているのは「原油が枯渇すること」ではありません。「原油の生産量が減少に向かうこと」です。それが世界の経済と政治に大きな影響を与える、と著者は考えています。増大する需要と減少する生産のすれ違いによって生じる、最大の(そして最後の)オイルショックです。そして“残り少ない原油”の奪い合い。私は映画「マッドマックス2」http://www.amazon.co.jp/gp/product/B00153IK4E?ie=UTF8&tag=m0kada-22&link_code=as3&camp=767&creative=3999&creativeASIN=B00153IK4E(世界は無法地帯と化し、精油所を巡って“戦争”をやっている)を思い出しますが、そういえば“予行演習(まず資源のないイスラム国家、ついで資源のあるイスラム国家で)”をやった国がありましたね。アフガニスタンとイラクでのお話です。ただ、世界をでかいチェス盤と見るアメリカの世界戦略に対抗するのはEUとイスラム、そして新興のロシアと中国。なかなかこの“ゲーム”は一筋縄ではいかないようです。春秋戦国時代の合従連衡を思い出します。特にここで紹介されている「原油のドル建てをユーロ建てに変更する企てを阻止する」という観点からイラク戦争を分析した論説や、マイケル・ムーアがイラク戦争開戦二日前にジョージ・ブッシュに送った書簡はなかなか印象的です。
ではどうするか。まずは代替エネルギーです。すぐ思いつくのは天然ガス。ただ、天然ガスの生産量ピークは2019年とか。単にシフトしても問題を先送りするだけです。さらに天然ガスは、CO2排出は原油よりは少ないものの、天然ガスそのものが温室効果を持ち、使用時に漏れるガスによっていろいろとまずいことが予想されています。
安価ではなくて高価な石油に依存する、という手もあります。石油が高価になればこれまで採算が合わなくて採掘されていなかった油田が復活したりオイルサンドが使われたりするでしょうから、それなりに供給量は維持できるかもしれません。ただ、高価というのはきついですよ。
では別の代替エネルギー。原子力・太陽光・風力……それぞれ一長一短ありますが、決定的なものはありません。バイオエネルギー……食糧不足を招きそうです、というか、すでに招いています。
資源インフレが起きたら、先進国の経済は縮小します。税収は減少し、結果として福祉予算は切り詰められることになります。本書のキモは、では福祉国家が生き延びるためにはどんな手があるか、にあります。しかしここに載せられている「福祉国家病の病理メカニズム」の図は、見ていると憂鬱になります。さらに、エネルギーが不足することは人口減少も招くそうです。
ただ、今の官僚組織と政治システムでは、ポスト石油文明に対応することは不可能です(現在でも、不況と少子高齢化だけでぼろぼろ手落ちばかりですね)。本書で提案されているのは、NPOの活用と教育(全生涯学習)、そして真の意味での“省エネ社会”の構築です。
さて、数十年後に人類が生きているのは、そういった持続可能な世界なのか、あるいはマッドマックス的な世界なのか、どちらにしても今とはずいぶん違った社会になっているのでしょう。その日がくるのは、そう遠いことではなさそうです。
「人を殺したら死刑になれると思った」と殺人を犯す馬鹿たれが次から次へと登場します。これ、何とかならないのか、と思います。そんな奴に殺されたら、まったく浮かばれません。(もちろん、どんな奴にでも殺されたら浮かばれないとは思いますが)
で、こんなのはどうでしょう。
「死刑になりたい」という希望者は刑務所に収容します。で、死刑を執行したら次は自分が死刑にしてもらえるのです。こうしたら、最初の希望通り、人も殺せますし死刑にもなれます。そういった人間に理不尽に殺される人が社会から減少します。捜査したり逮捕したりの手間も省けます。さらに、死刑を現在執行している人たちが嫌な仕事から救われます。
良いことばかりのようですが、いかが?
【ただいま読書中】
イギリス人ジョナサン・パインは、かつて勤めていたカイロのホテルで、愛した女ソフィーを死に追いやってしまいました。チューリヒの名門ホテルに移ったパインはそこでソフィーの死の原因となった貿易商リチャード・ローパーを客として迎えます。バグダッドが爆撃されている映像がTVで流されている夜のことです。ただし、ソフィーの死の本当の原因は、ソフィーが持っていたローパーの書類をパインがこっそりイギリスのスパイに売ったことだったのです。パインを挟むのは、自責と憎しみ。
カイロとチューリヒ、湾岸戦争とパイン自身の過去、場面は細かく転換されます。著者はいつものように、ストレートに話を進めず、読者をじらします。
突然場面が変わって、イギリス情報部。冷戦終了に伴う機構改革によって新しく作られた小さなエージェンシーを任されたバーは、死の商人ローパーの尻尾をつかもうとしていました。そのためにバーが目をつけたのが、パインです。しかし、集められた資料が示すパインの人間像は矛盾に満ちたものでした。
パインは経歴と名前を偽装し、ホテルの金を横領し、そして殺人犯として追われることになります。まるで秘やかな吐息のような文章で、パインの遍歴が語られます。エスピオナージュを読むよりも、純文学を読む覚悟で本を開いた方が良いんじゃないか、とさえ思える文体です。この妙な禁欲主義の人間の内面に迫る筆に共感できるかどうかで、本書の評価は大きく分かれるでしょう。そもそもなぜパインがすべてを捨ててスパイになるのか、その動機も不明なのです。とりあえず思いつくのは、ローパーへの復讐・イギリス情報部への復讐・自責、くらいですが、さて、そのどれかなのか、あるいはもっと別のものなのか、じっくり腰を落として読み解いていかなければなりません。
……私は、このいじいじした本、好きです。そういえば007も、映画はスカッとエンターテインメントでしたが、小説はけっこういじいじしていましたっけ。
さて、パインはとんでもない手段でローパーの懐に首尾良く飛び込むことに成功しますが、まさにその瞬間、政治と経済(死の商人を利用したい勢力)によって情報組織上部での妙な綱引きが始まります。下手すれば、パインの命にも関わる動きが。
というところで、下巻へ。
グリーンピアなどで年金原資を無駄遣いし、年金の名簿をわざときちんと管理せずに5000万件も散逸させ、名寄せもちんたら、問い合わせの通知は出すフリだけして、でも、保険料の年金からの天引きはきちんとする連中は、公務員の年金や議員年金はきっちり満額もらうつもりでいるのです。
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ローパーの“仲間”になったパインは、注意深く活動を続けます。注意は必要です。自分の命がかかっているのですから。背後に気を配りながら部屋をめぐる吐息のような活動を続けていたパインは、自分のほかにも“スパイ”がいることに気づきます。そして自分自身も強く疑われていることも。
その頃ロンドンでは、権力闘争がやはり密かに続けられていました。既得権益に群がる人びと、省益にこだわる人などが、現場の足を引っ張ろうと努力を続けます。その影響で、組織の中にいた密告者が雲隠れします。作戦に小さなひび割れが生じているのです。放置したらその亀裂は大きくなり、ついには作戦は失敗することになるでしょう。
パインはローパーの活動の一端をついにつかみます。単なる武器商人ではなかったのです。偽装取引で武器を提供して、その見返りは麻薬。その麻薬を売ることで巨富を得る。それがローパーのやり口でした。武器によって人が死に、麻薬によっても人が死にます。そしてローパーは優雅にシャンパンを飲み干すのです。
そして緊急事態勃発。イギリス側からの情報漏れが発覚したのです。アメリカ側は表面的には静かに激怒します。押さえ込んだだけ怒りの圧力は高まります。
そして、ジャングル。文明の手が及ばないところで、ローパー一行とパインは、情報部の監視の目からも離れてしまいます。そこで行われているのは、顧客向けの実弾を用いたデモンストレーション。
そしてロンドンでは、事態は不可解な停滞状態に陥ります。どちらの向いても「ノー」の壁に取り巻かれているような、まるで不条理な。明白な犯罪が堂々と行われようとしているのに、なぜか皆がそこから目を背けようとしているのです。現場管理者がどう動こうと頑丈な煉瓦壁がすべての行く手をふさぎ、そこにはでかでかと「ローパーのケースはあきらめろ・パインは見捨てろ」と書いてあるのです。
計算や論理が横行します。しかし、怒りや倫理観や慰めや恥で動く者もいました。最後のプラフが発動します。
ずっと偽名の「トマス」で呼ばれていたジョナサン・パインが、きちんと本名で呼ばれたときに示す微妙な取り乱しようは、なんとも不思議な効果を私に及ぼします。まるでただ「役」を演じるためだけに人生を消費しているかのような人びとの中で、パインが「素」に戻るのはこの本名を特定の人間に呼ばれたときだけのようなのです。
自分自身の人生ではどうなのだろう……私は自省します。私自身も何かの役を演じ続け、何かから逃げ続け、あるいは何かを追い求め続けているのでしょうか。
イラクに“それ”が存在していると主張したら、その証明のために、アメリカに限っては使用を許されているものがあります。結局イラクに“それ”が存在しなくても別に問題にされず、アメリカがせっせと何かを使用した(イラクやアフガニスタンで大量に人命を破壊した)ことも問題にされません。
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『
核を売り捌いた男』ゴードン・コレーラ 著、 鈴木南日子 訳、 ビジネス社、2007年、2600円(税別)
アブウドル・カディール・カーンは少年時代に血の分離独立(インドとパキスタンの独立。インド領のイスラム教徒・パキスタン領のヒンドゥー教徒が数百万人虐殺された)を経験します。カラチの大学で冶金学を学び、渡欧して博士号を取得、就職したオランダのURENCO社ではウラン濃縮技術開発に携わると同時に機密書類を多数翻訳します。
1971年のバングラデシュ独立(東パキスタンがインドの支援で西パキスタンから独立。印パ戦争でパキスタンが敗北)で大きな痛手を受けたパキスタンはリビアから資金を得る代わりに核開発を行いそれをリビアに供与する密約を結びますが、両国の足並みはそろわず、同時にイスラム圏では核開発を行えばイスラエルの攻撃を招くという憂慮がありました(パキスタンの場合にはイスラエルから遠いし対インドという大義名分がありました)。そして、インドが核実験を行った1974年、カーンはパキスタン政府に核開発を進言しそのために自分が役に立つと申し出ます。
国内や海外に自身が持つ人的ネットワークをフルに活用し、政治と軍事と外交と商業の狭間を上手くついて、カーンは部品を世界各地(主にヨーロッパ)から調達します。アメリカはアフガニスタンでソ連に対抗するのに忙しく、CIAの調査は議会からの圧力(“友好国”にいちゃもんをつけるんじゃない!)に潰されます。先日読んだ『ナイトマネジャー』でも現場の捜査員が“上”の政治的(あるいは商業的)判断に足を引っ張られるシーンがありましたが、こちらは実話です。やれやれ。
アメリカの“保護”が終わった頃、パキスタンでの核開発も一段落し、カーンはパキスタンという国家に縛られずに求める者に核技術を売る方針を明確にします。たとえばイラン(2003年のIAEAによるイラン査察で、カーンが作ったのと同一の遠心分離器が見つかっています)。
1998年5月11日、インドは核実験に成功したと発表します。世界の目はパキスタンに注がれます。制裁をちらつかせる国と援助を申し出る国がありましたが、シャリフ首相は5月28日核実験を行います。実験が成功したら、次は運搬手段です。F-16はアメリカが軍事援助を差し止めたためボツ。弾道ミサイルを中国から購入しようとしますが、これも最後には結局ボツ。次の候補が北朝鮮のノドンです。ところがその頃にはパキスタンの外貨準備高は危険水準となっていました。そこで外貨の代わりにウラン濃縮技術の提供です。お互いに相手がほしいものを持っていたのです。
……ものごとはすべてつながっているのだなあ、としみじみ思います。
パキスタン国内で権力・人気の絶頂となったカーンですが、それは堕落への道でもありました。カーン・ネットワークはパキスタンからは半独立の形で国際的に活動を続けますが、「国際的ネットワーク」という概念が当時なかったため、各国の情報機関は怪しみながらも全体像をつかめませんでした。しかし、カーン自身の不審な海外旅行の繰り返しが情報機関の注意を引き、同時に国内ではムシャラフ大統領が勝手を続けるカーンを引退させようとします。没落の始まりです。同時多発テロ関連の捜査で、アルカイダとパキスタンのつながりが見つかり、さらにリビアのカダフィ大佐は英国と「取引」をしようとします。提供するのはパキスタン(カーン)から得た核開発の情報。
かくしてカーン包囲網は狭まります。ただ、カーン・ネットワークから切り離して守らなければならないものもあるため(たとえば某大統領)、その手技には必要以上の慎重さが要求されました。「政治」は複雑なのです。
核保有国が核拡散をきらうダブルスタンダードが存在する以上、カーンは一方では大国の横暴に抵抗する英雄であり、他方では世界を破壊しようとする犯罪者です。さらに、核技術は金のなる木になる(核保有国の業者が、それを持たない国に売れば大もうけできる)という商業的事情が事態を複雑にします。結局カーンは自宅軟禁となり、ネットワークは解体されましたが……本当に解体されたのかどうか、誰にも確認はできません。「独裁体制の国の方が、やめたことの確認は楽だ」と著者は皮肉っぽく書きます。そして、もしかしたら現在でも、ネットワークの残りが活動を続けているのかもしれません。
単純に「あの時代は良かった」と言うだけだったら、その“ノスタルジー"はニセモノだと私は言います。だって「すべてがどこからどこまでも良かった時代」なんてものは(まず間違いなく)存在しないはずですから。エデンの園にだって蛇は住んでいたのです。もし“正しいノスタルジー"があるとしたら「あの時代には良い思い出がたくさんある」でしょう。もちろん良くない思い出もあるでしょうが、それを思い出さなくてもよいくらい良い思い出があればいい、なのです。
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「花見」とは「花を見る」ことではありません。たとえば大阪造幣局の通り抜け、あれも咲き誇る桜を「見」てはいますが、あくまで「通り抜け」であって「お花見」ではありません。ではどこが違うのでしょうか。
著者は「花見」とは「群桜」「飲食」「群衆」の三つがそろったものとしています。ところが、著者が世界各地で見聞したりインタビューをしたところでは、この「花見」は日本以外ではほとんど行われていませんでした(日系移民の多いブラジルは例外として)。花を見ることはあっても、花の下でのどんちゃん騒ぎはないのです。つまり、花見は「日本的」なものである、が著者の確信です。
私だったらまずは辞書を引くかな。ということで「日本国語大辞典」を引いてみました。平家物語に「花見」があるそうです。それから農村での習俗(外竃(そとがま)の行事の一つ)として、春に皆が景色の良いところに集まって一日飲食をするものがあったそうな。
日本では昔から薬狩りや紅葉狩りで戸外の“ピクニック”を楽しむ風習がありました。当然花を楽しむものもあったはずです。
本書では、貴族の花見が奈良時代には梅だったのが平安時代には桜に移行したこと、農民の春の行事「春山行き」「春山入り」(花が咲く頃に飲食物を持って近くの丘に登り一日を過ごす)、この両者が元禄時代に合体して現在の花見になった、と推定しています。そういえば豊臣秀吉も有名な花見をやっていますね。たしかあれも桜でした。
著者は「桜」ではなくて「花見」にあくまで注目します。「大和魂」などと結合された「桜」(櫻花)は実は「日本人」とは離れたものになっているのではないか、というのが著者の考えです。よく桜と大和魂の引き合いに出される本居宣長の歌「敷島の大和心を人問はば朝日に匂う山桜花」も、後世解釈する人がいろいろ言ってはいますが本居宣長自身の考えは彼の著作「玉勝間」の「花はさくら、桜は、山桜の、葉赤くてりて、ほそきが、まばらにまじりて、花しげく咲きたるは、またたぐふべきものもなく、うき世のものとも思われず」にある、と著者はします。というか、著者は花見に背を向けて「桜論」「桜観」を熱心に開陳する人に対しての反感を隠しません。「桜にかこつけて、我が身の不満や不安(自分自身の懊悩)を何かに向けようとしている」とまで言います。著者にとって、軍国と西行と梶井基次郎とはすべて“同じジャンル”の存在なのです。
私も「潔く散る」が日本人が尊ぶ桜の本質であるとは思っていません。お花見の実情はどうみてもそんな「滅びの美を愛でる」ものではありません。百歩譲ってもしも「散る」ことに価値があるとしてもそれは「来年もまた咲く」が裏付けとしてあるからだ、と考えています(あれれ、これ、前にも書いたことがありますかね?)。たとえば「桜に病気がはやってどんどん枯れた。この桜がこの世に残った最後のもので、花も今年が最後」といった「究極の滅び」が桜につきつけられたら、日本人はそれまでと同じようにお花見ができるでしょうか? もしそうなったら、きっとこれまでの「桜論」は吹っ飛んでしまうんじゃないかと私は想像するのですが。
なんだか急に落語の「長屋の花見」や「花見酒」が聞きたくなりました。