楽   府
楽府と言うのは楽章、即ち音楽にかける歌のことである。元来中国上代の詩は皆な音楽

に会わせて歌ったものである。 《詩楽一致》 詩は即ち楽府であった。例えば詩経三百篇
音楽の如きは国風といい雅頌と言うが、何れも諸国の民謡や、朝廷宗廟の楽章であり皆

なにかけて歌はれたものである。曾の後に出来た《屈原の九歌》も同じく歌はれたもので

ある、然 し之は《楚声》である。漢の武帝は豊沛の出身の人であり、之に従う漢代の

元勲功臣、には楚人が多く、従って楚歌が大いに流行した。例えば項羽の垓下の歌。

高祖の大風の歌。武帝の秋風辞などは何れも楚声である。楽府と詩とは明白に区別されて

いなかったが、漢の武帝の時代に及んで始めて、別けられるようになった。

武帝の時代は漢が興って七十余年も経過し、財政上にも余裕が生じ、文化の隆昌を極めた。

武帝は一代の盛典を起こし、自己の威容を誇示しようとした。そこで祭祀の体裁を起こした。

始めて楽府と言う音楽研究の役所を置き音律に通じた「李延年」を協律都尉として楽府の長官

に任じ、広く天下の詩を求めた。同時に辞賦に巧みな「司馬相如」を筆頭として著名な文士数十

人を揚げて新たに歌詩を作らせた、是が有名な《郊祀十九章》が出来た。。そして盛んに楽府の

新声を起こした。

楽府の上手な者は 『記録上』 中国でも比較少ない。盛唐では李白、杜甫、高適、岑参、中唐

では韓愈、白居易、張籍、王建、等は楽府の作者として有名である。他に余り優秀な人はいな

い。元では独り 楊鉄崖 が新楽府に力を注いでいる。日本では徳川時代に頼山陽が日本楽府

と言う物を賦して日本の歴史的事実を唄っている。所謂詠史楽府である。

凴鈍吟は唐代以後、楽府の分科として、以下七種を挙げている。明代には史論史讃のような

ものをも、作者は自ら楽府と称して遺物の一篇を残している。詠史楽府の一体を加えて八種と

すれば以下の如くである。

1,詩を製して楽に協う。

2,詩を采して楽に入れる。

3,古しえ此曲あり、其の声に依って詩を作る。

4,自から新曲を製す。

5,古に擬す。

6,古題を詠出する。

7,杜陵の新題楽府。

8,詠史楽府。

 古詩と楽府の区別
以上に記したように古詩体と楽府体とは何れも漢代に発生した詩体である。

二つの体裁の区別は何処にあるか。
第一、詩は漢代に於いては五言を標準として意義を尊び、文章も亦雅馴であることを肝要とした

が、楽府は節回しを着け音楽にかけて歌うものであるから、その詞(ことば)は長短錯綜の変化

を尊び句法が一定していない。文字も亦 「雅」と「俗」とを托さない。

第二。詩は作者自身の境遇により種々の感情を文字に表現して専らその気持ちを述べ、不平を

慰め、憂鬱を散じたりして、極めて主観的のものであるが、楽府は作者の境遇には頓着しない。

眼前に展開する事実をそのまま取り込んで、之を詠じ、音楽にかけて歌い、聴くものに感動を与

うることを主として甚だ客観的のものである。
要するに、古詩と楽府の分かれ目は音節の一点にあると心得れば帰納する、


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