文革とはなにか

文革の目的、理念、方法は、「文化大革命の綱領的文献」とされた「五・一六通知」(一九六六年五月一六日)、一九六六年八月、八期一一中全会で採択された「プロレタリア文化大革命についての決定」(略称「十六カ条」)、一九六七年一一月六日の『人民日報』『紅旗』『解放軍報』共同社説「十月社会主義革命の切り開いた道に沿って前進しよう」に盛られた「プロレタリア独裁下の継続革命の理論」などに示されている。これらは第九回党大会の政治報告(林彪報告)で総括的に要約されている。その核心はつぎのようなものである。

党、政府、軍隊と文化領域の各分野には、ブルジョア階級の代表的人物と修正主義分子がすでに数多くもぐりこんでおり、かなり多くの部門の指導権はもはやマルクス主義者と人民の手には握られていない。党内の資本主義の道を歩む実権派は、中央でブルジョア司令部をつくり、修正主義の政治路線と組織路線とをもち、各省市自治区および中央の各部門に代理人をかかえている。これまでの闘争はどれもこの問題を解決することができなかった。実権派の奪いとっている権力を奪いかえすには、文化大革命を実行して、公然と、全面的に、下から上へ、広範な大衆を立ち上がらせ、上述の暗黒面をあばきだすよりほかはない。これは実質的には、一つの階級がもう一つの階級をくつがえす政治大革命であり、今後とも何回もおこなわなければならない(「歴史決議」一九項に引用)。

文革とは要するに、党機構などの指導部内に発生した実権派を打倒するための、「下から上への」政治大革命である、とする考え方である。

、打倒の対象とされた実権派の立場から見ると、問題はどう理解されるか。造反派による「修正主義」批判や「奪権闘争」(造反派が実権派から権力を奪うことを「奪権」と称した。造反派は実権派から奪権したあと各単位において「革命委員会」を構成した)は、実権派からすれば、次のように論駁さるべきものであった。

修正主義批判に対して。

“文化大革命”において、修正主義あるいは資本主義とみなされて批判された多くのものは実際にはマルクス主義の原理と社会主義の原則である。

実権派批判について。

“文化大革命”において打倒された実権派は党と国家の各級組織の指導幹部であり、社会主義事業の中核勢力である。党内には“ブルジョア司令部”などは存在しなかった。劉少奇同志にかぶせられた“裏切り者、敵への内通者、労働貴族”の罪名は完全にデッチ上げである。“文化大革命”は“反動的学術権威批判”によって多くの才能ある、業績のある知識人に打撃を与え迫害した。

文革の方法について。

“文化大革命”は建前は大衆に直接的に依拠するとしていたが、実際には党の組織から離脱し、広範な大衆からも離脱していた。運動が始まると、党の各級組織は衝撃を受けてマヒ状態に陥り、広範な党員の組織生活は停止し、党が依拠してきた積極分子や大衆は排斥された。文革の初期には、毛沢東同志と党に対する信頼から運動に巻き込まれた人々もごく少数の極端な分子を除けば、党の各級指導幹部に対する残酷な闘争に賛成しなかった。

文革の歴史的評価について。

“文化大革命”はいかなる意味でも革命や社会的進歩とはいえない。中国では社会主義的改造が完成し、搾取階級が階級としては消滅したあと、社会主義革命の任務はまだ最終的には完成しないとはいえ、革命の内容と方法とは過去のものとはまるで異なるべきである。党と国家機構には確かに若干の暗い面が存在しており、むろん憲法や法律にしたがって解決する必要があるが、断じて“文化大革命”の理論や方法はとるべきではない」「“文化大革命”は指導者が誤って発動し、反革命集団に利用され、党と国家、各民族人民に重大な災難をもたらした内乱であった。

文革を推進した毛沢東派あるいは文革派にとっては「革命」であり、打倒され、後に復権した側からみると「内乱」である。ここで価値判断は全く対立している。一方は「修正主義に対する革命」であると言い、他方は「マルクス主義を堅持した者に対する内乱」だとしている。ここで「修正主義」の実態とはなにか、「マルクス主義の堅持」とはなにかが問われなければならないであろう。

文革の時期区分 第1段階

文革派と実権派の文革像が相反する理由はさまざまであるが、一つは時期区分とも関係している。文革派は概して、実権派打倒に決起して成功した第九回党大会まで文革理念の発揚期ととらえ、その後は「継続革命」すなわち文革体制の堅持を主張する傾向がある。これに対して、実権派の描く文革像は林彪事件で林彪派が失脚し、毛沢東の死とともに失脚した“四人組”粉砕までを含めて、文革期としている。前者はいわば狭義の文革期であり、後者はいわば広義の文革期である。

まず広義の文革期は「歴史決議」に習って、つぎの三段階に分けることができる。

1)第一段階。文革の発動から第九回党大会まで。

文革の開始をどこで押さえるかについてはいくつかの捉え方がありうるが、一九六六年五月の政治局拡大会議、そして同年八月の八期一一中全会によって文革が始まったとみてよい。前者によって「五・一六通知」が採択され、彭真・羅瑞卿・陸定一・楊尚昆“反党集団”(当時「四家店」と呼ばれた)が摘発された。後者によって「プロレタリア文化大革命についての決定(一六カ条)」が採択され、劉少奇・ケ小平司令部に対する闘争が始まった。

六六年五月、キャンパス内に誕生した「紅衛兵」は、八月一日、清華大学附属中学紅衛兵に対する毛沢東の支持を契機として「造反」に決起し、八月一八日、毛沢東の天安門での接見には全国から一〇〇万の紅衛兵が集まり、紅衛兵パワーを見せつけた。九月五日の中共中央、国務院通知以後「授業を中止して革命をやる」(原文=停課閙革命)運動が発展し、全国的な経験交流(原文=大串連)が始まった。六六年一一月二六日までに毛沢東は前後八回、紅衛兵を接見したが、その数は一三〇〇万に上る。

他方、党中央の指導機構が改組され、中央文革小組が成立し(六六年五月二八日、組長=陳伯達、副組長=江青、顧問=康生)、政治局に代わって権力を行使するようになった(「五・一六通知」では中央文革小組は政治局常務委員会の下に置かれると明記されているが、「一六カ条」では「プロレタリア文化大革命の権力機構」と格上げされ、“二月逆流”以後、政治局と中央書記処にとって代わるほどの権力を行使することになった)。

「1月革命」の熱狂

毛沢東個人崇拝は熱狂的なほどに高まり、これによって集団指導が個人指導にすり替えられていったのである。文革を推進する側に立ってこれを進めたのは、林彪、江青、康生、張春橋らであった。造反の波が上海「一月革命」(上海市の造反派が上海市党委員会、人民政府の権力を奪権した事件)にまで高まったとき、すなわち一九六七年二月前後に実権派の反発も爆発した。譚震林、陳毅、葉剣英、李富春、李先念、徐向前、聶栄臻ら政治局委員および軍事委員会委員たちが六七年二月一四日、一六日に中南海懐仁堂で開かれた政治局ポン頭会で中央文革小組のやり方を鋭く批判した。しかし、毛沢東はこれを“二月逆流”と逆に批判し、二月二五日〜三月一八日、政治局の「政治生活会」を七回開かせ、実権派の活動を封じ込めた。

上海「一月革命」以後、各部門各地方の党政指導機関は奪権闘争され、あるいは改組された。省レベルでの奪権闘争の波は全国的に拡大し、六七年一月三一日黒竜江省革命委員会が成立したのを皮切りに、省レベルでの奪権闘争が推進され、頻発する武闘を「大連合」で妥協させ、「軍幹部、旧幹部、造反派代表」の「三結合」による革命委員会の成立を急いだ。六八年九月五日、チベットと新疆自治区の革命委員会成立をもって、全国に革命委員会が成立し、奪権闘争の段階は一段落し、翌年四月、第九回党大会を迎える運びとなった

武漢事件

解放軍は六七年一月二三日、毛沢東の指示により「革命的左派大衆の支持」のために介入した。三月一九日軍事委員会が「三支両軍」(左派、労働者、農民の三者を支持し、軍事管制、軍事訓練という二つの軍を行うこと)の決定を行った。以後、解放軍は学校、機関、工場などに進駐し、奪権闘争を支えた。

しかし、奪権闘争は六七年七月二〇日の武漢事件によって大きな壁にぶつかった。文革派の謝富治、王力が武漢の造反派支援のためにかけつけたところ、実権派を支持する大衆組織「百万雄師」によって王力が監禁される事件が発生した。実はこのとき毛沢東もまた宿舎の東湖賓館を包囲され、身動きできなくなっていた。周恩来の努力によりことなきを得たが、その後武漢軍区司令員陳再道らは反革命として処分された(七八年一一月名誉回復)。事後の弾圧により死傷した幹部、軍人、大衆は一八万四〇〇〇人に上る大惨事となった。武漢事件に衝撃を受けた江青は七月二二日、「文で攻撃し、武で防衛する」(原文=文攻武衛)のスローガンを提起し、武闘を煽る結果となった。

武漢事件を間に挟む六七年七〜九月、毛沢東は華北、中南、華東地区を視察し、以後、「左派支持」を事実上撤回し、「大連合」を呼びかけるようになった。この前後に、毛沢東の文革構想をまとめたものが「偉大な戦略配置」である。1)文化大革命の四つの段階、2)革命的大連合、三結合、3)造反派の世界観改造、4)中国は世界革命の兵器廠たれ、と呼びかけたものである。

三結合による大連合により奪権闘争が一段落した一九六九年四月に開かれた第九回党大会で選ばれた中央委員の構成は、約四割が軍人、三割が旧幹部、三割が造反派代表であった。

第2段階から第3段階へ周恩来排撃゛ケ小平 失脚

2)第二段階。第九回党大会から第一〇回党大会まで。

第九回党大会で文革派が権力を掌握したが、これはいわば奪権連合であり、林彪派と江青ら“四人組”との間、そして周恩来グループとの間に深刻な権力闘争が発生した。七〇年から七一年にかけて、林彪派は武装クーデタ(「五七一工程紀要」)を計画するところまで追い詰められた。七一年九月一三日、林彪らを乗せたトライデント機がモンゴルに不時着、炎上し、文革はきわめて重大な局面を迎えた。

周恩来が党中央の日常工作を主持するようになり、七二年周恩来は極左思潮を批判しようとしたが、毛沢東は批判対象を「極右」だとして、これを妨げた。七三年八月第一〇回党大会が開かれ、江青、張春橋、姚文元、王洪文が政治局内で“四人組”を組んだ。

3)第三段階。第一〇回党大会から一九七六年一〇月まで。

第一〇回党大会以後、周恩来は経済の再建に取り組もうとしたが、一九七四年初め、江青ら“四人組”が「批林批孔」運動を始めた。これは元来は林彪グループ摘発の運動として始められたものだが、運動の矛先を周恩来にまで拡大したものであった。毛沢東は初めは「批林批孔」運動を許可したが、その後江青らを逆に批判した(“四人組”を組む勿れ、江青には組閣の野心がある、など)。一九七五年周恩来のガンが重くなり、小平が党中央の日常工作を主持するようになった。小平は一連の重要会議を開き、各方面での工作を整頓したが、毛沢東はこれを許さず、“小平批判、右傾巻き返しに反撃する”運動を発動した。中国はふたたび混乱に陥った。七六年一月、周恩来が死去し、四月周恩来を追悼する天安門事件が起こった。この事件の黒幕が小平だという理由をつけて、小平は再失脚した(江西ソビエト時代を含めれば、三度目の失脚であった)。

文革一〇年を歴史決議のやり方にならって三段階に分けた。この分け方は、まず妥当なものであろう。ただ、ここで一つの欠点は、どうしても結果からすべてを解釈する偏向に陥ることである。なるほど政治的行動は結果がすべてであると言ってよいのだが、問題を分析するに際しては、もう少し余裕をもって多面的に考察する必要があろう。

文革の評価

文革はなぜ失敗したのであろうか。文革とは、毛沢東の煽動により、紅衛兵がまず造反し、ついで労働者たちが造反した社会的大衆運動である。ここで問題は二つの側面から考察できよう。一つは毛沢東のイデオロギー、そして具体的な政治的指導の問題である。もう一つは、造反に決起した大衆の側の問題である。両者は毛沢東個人崇拝を媒介として結合されていた。造反の帰結は既成秩序の崩壊であり、各種造反派は際限なく武闘を続け、ついに解放軍の介入によって辛うじて秩序を維持する形になった。

文革を「社会的進歩ではなく、内乱にすぎない」とする中国当局の評価はすでに紹介した。この評価は、文革を肯定的に評価することによって自らの政治的地位を保とうとするすべて派(原文=凡是派、華国鋒らを指す)と闘争しつつ、文革を否定することによってすべて派を打倒し政策転換をおこなうべく、復活した旧実権派が提起した評価であるから、そういう政治的文脈における文書であるにすぎない。「歴史決議」と銘打たれているが、過渡的な文書であることは明らかである。そのような政治的立場から独立した自由な隣国の研究者としては、もう少し自主的な評価を試みたい。

社会主義経済の試行錯誤

一九八九年五月一五〜一八日、ソ連のゴルバチョフ書記長が訪中し、三〇年ぶりに中ソ和解が成立したことは文革評価に対しても考察の有力な視点を与えるものである。

ケ小平路線がかつて「修正主義的」と非難された政策よりは数倍も「修正主義的」な経済改革路線を採用し、ゴルバチョフもこれに追随しようとしているかに見える。これは現代社会主義諸国(後進社会主義国)において商品経済を排除した計画経済(指令性経済)が破産したことを示している。

文革は商品経済の排撃を極端まで進めたが、このような形の、物質刺激を排除し、精神的刺激を一面的に強調して経済を運営しようとした試みが失敗した。文革期の経済建設の失敗に鑑みて、毛沢東的経済発展戦略が否定された。そして文革期に批判されたケ小平流の「白猫黒猫」論が復権した。他方、ソ連では文革のような試行錯誤を経験せず、計画経済を堅持してきたが、やはり経済改革を迫られている。歴史におけるif、すなわち仮定は無意味だとよくいわれるが、考えるヒントとしては重要である。つまり中国で仮りに文化大革命が起こらなかったとすれば、計画経済が堅持され、発展してきたはずだが、やはり経済改革が必要とされたであろう。ゴルバチョフ改革はこのことを示唆しているものと解釈できるのである。

この意味で歴史を回顧すると、一九三〇年代に成立したスターリン型の計画経済体制が原点である。五〇年代末にはすでにその限界が意識されていた。中国ではその限界を克服すべく毛沢東型社会主義建設が模索された。この毛沢東モデルを肯定するか否定するかをめぐって文化大革命が発生したといえるわけである。ソ連ではフルシチョフ時代に経済改革が試みられるが、まもなく挫折し、以後ブレジネフ時代の長い停滞を経て、ゴルバチョフ時代になってようやく再び改革が舞台に登場したことになる。文革は総括されたか?