橋本 関雪 『関雪詩存
明治16(1883)年、明石藩の儒者であった橋本海関の長子として兵庫県坂本村(神戸市中央区楠町)に生まれ、漢学全般を幼い頃より修める。本名は橋本貫一。幼名は成常、諱は弘、関雪は画号)10歳の頃、京都岡崎で開かれた勧業博覧会で席上揮毫をしたのが評判となり、京都御苑に呼ばれ御前揮毫をする。その後地元で、四条派の画家片岡広曠かたおかこうこう)に手ほどきを受け絵画の道に進む。明治31(1898)年の頃より画家として立志。上京して、東京の谷中に住まい絵画修行を行う。

その後京都に戻り、当時若くして京都画壇の重鎮的存在であった竹内栖鳳の画塾へ入門する。当初は岡崎、その後は南禅寺に移り住み大正5
(1916)年の白沙村荘完成時に銀閣寺へと移り住む。白沙村荘完成に前後する大正2(1913)年から大正7(1918)年までの間、官展で連続入選を果たし画家としての名声を得るに至る。その後も南画の再興運動や、古典絵画の再評価などを積極的に行いながら生涯60度以上にわたり大陸へと遊ぶ。昭和20(1945)年、狭心症の発作により急逝。享年61歳。

   吉野懐古  (三首之一
毎吾繙国史。     吾れ国史を繙く毎に
殊覚涙潜然。     殊に覚う涙の潜然たるを
古木南朝雨。     古木 南朝の雨
春山日暮煙。     春山 日暮の煙
雲迷侵帝座。     雲は迷うて帝座を侵かす
花落着僧禅。     花落 僧の禅に着く
来此拝遺贈。     此に来って遺贈を拝し
依稀憶往年。     依稀として往年を憶う

   詠 史   (吉永法印
海内蕭曹誰後先。    海内 蕭曹 誰か後先
妖雲掩日暗山川。    妖雲 日を掩うて 山川暗し
何知方外拈華手。    何ぞ知らん 方外 拈華の手
支得南朝五十年。    支え得たり南朝 五十年

   帰故山
萬里長征罷。     萬里 長征 罷んで
南山夕掩扉。     南山 夕べに扉を掩う
春風吹古剣。     春風 古剣を吹く
鶏犬識戈衣。     鶏犬 戈衣を識る
荒室孤親老。     荒室 孤親 老い
故国三経非。     故国 三経 非なり
梅花依旧白。     梅花 旧に依って白く
寂寞待吾帰。     寂寞として吾が帰るを待つ

   安宅関跡
豆萁相煮性何急。     豆萁 相い煮る 性 何ぞ急なる
萬地松風似遂兵。     萬地 松風 遂兵に似たり
波濤不管英雄恨。     波濤 管せず 英雄の恨み
猶作当年警皷声。     猶を当年の 警皷の声を作す

    画 梅
寒衾如鉄夜無灯。     寒衾 鉄の如く 夜 灯無く
偃臥山中伴老僧。     山中に偃臥して 老僧に伴う
睡去不知明月到。     睡り去り 知らず 明月の到るを
梅花影落硯池氷。     梅花 影は落つ 硯池の氷

   宿野寺
荒厨無僕一灯微。     荒厨 僕なく  一灯 微なり
半断簾旌半破扉。     半ば断つ簾旌 半ば破扉
荷外西風吹雨急。     荷外の西風 雨を吹いて急なり
流蛍飛入病僧衣。     流蛍 飛で入る 病僧の衣

   題 竹
偃蹇蕭疎自為風。     偃蹇 蕭疎 自から風を為す
不嫌写竹賤於蓬。     嫌はず竹を写して 蓬よりも賤しきを
名園不是置身地。     名園 是れ身を置くの地にあらず
野水縦横月色中。     野水 縦横 月色の中
  ◇詩句深遠・以て味合うべし

  過曹峨江寄憶羅振玉
宛爾如君秀有余。     宛爾 君の如く 秀 余り有り
山高水長絵横図。     山高く水長うして 横図を絵く
終年擬結隣垣誼。     終年 擬し結ばん 隣垣の誼み
好買家田近鑑湖。     好し家田を買うて 鑑湖に近し
  ◇羅振玉は関雪が居住する京都の家近くに住んでいた。
   ◇曹峨江は江南の水郷。鑑湖という美しい湖がある。

   訪隣蘇道人
欲分却悔見君遅。     分れんと欲して 却って悔む 君を見ることの遅きを
数語鴉啼夕照枝。     数語 鴉は啼く 夕照の枝
他日夢思楊樹浦。     他日 夢思う 楊樹浦
提籃橋下繋船時。     提籃橋下 船を繋ぐ時
  ◇蘇道人:楊守敬の別号

   虎丘剣池
鏗爾風霜破石生。     鏗爾 風霜 石を破って生ず
錘沙戈法見忠精。     錘沙戈法 忠精を見る
夜深山鬼来当哭。     夜深く山鬼 来って当さに哭くなるべし
月落空潭時一声。     月は空潭に落つる 時に一声
  ◇蘇州は虎丘の剣池に顔真卿の「虎丘剣池」と朱書で刻し書いた池の石壁が有る。呉王が2千本とも3千本とも言う「刀剣」を剣池に埋没していると言う伝説がある。

     08/11/19      石 九鼎   著す