永明体
◎ 西晉の詩人・陸機・陸雲・潘岳・藩尼・左思・張戴・張協・張華・張亢・夏侯湛・傳玄・皇甫謐
           劉逵・摯虞・張翰・謝混・王瓚
◎ 東晉の詩人・庾亮・郭璞・王義之・劉琨・陶潜・廬諶・呉隠之・恵遠・謝道韞。帛道猷

齊の世は七代で僅に二十三年ではあるが,武帝のときに文人・詩人・が多く竟陵に集まった。竟陵王は武帝の第二子で学徳共に勝れた人で大に文学を奨励した。其の時,集まった詩人・文章家の中に
謝眺・任昉・沈約・范雲・蕭深・王融・蕭衍・陸埵の八人が才藻,藻;津門も卓越していた。世に竟陵の八友と称した。
其処で此の八友などの詩体を永明体と言った。

永明は武帝の年号で十一年間継いた。永明体の詩は齊詩の代表的なもので,その特色は元華の修辞の技巧に加えるに晋韻の声律を以てしもものである。
四声八病の声律論は此の一派に属する人達が首唱したものである。随って陵・陳以後の詩は此の永明体の影響を受けているところが多い

謝眺は字を玄暉と言った,陳郡陽夏の人。少時より文学を以て名が高かった。始め豫章王大尉行参軍と為ったが,隋王文学,新安王記室,髙宗補政に除せられ,驃騎諮議参軍と為った。中書詔誥をつかさどり,中書郎に転じた,後に宣城太守に官職を授けられた。世に「謝宣城」と称するのは宣城の太守であった爲である。謝眺は艸(草)隷を好くし,最も五言の詩に長じていた。梁の武帝は「三日其の詩を読まざれば,則ち口の臭きを覚える」とまで言った。時の詞傑,沈約は,二百年来,此の詩なしと激賞している。
謝眺は当時の諸公の冠冕で才華絢爛,一時に照映した。故に謝眺は永明体の代表者と見なされている。然し,謝眺に至って駢儷の風は益々巧緻に進み醇朴の風は益々減じた。であるから後人が詩論に於いて玄暉に及んで漢道は終に滅びたと評論している。

要するに齊詩は益々繊巧となり,艶麗となり宋詩に比べて声色は更に開けたが,性情は益々隠れるようになった事は辞めない。故に六朝の詩風は此の永明時代に入って三たび変化したと言われている。時代の推移,人心の変化は,到底抵抗出来ないものの例である。然し六朝は儒教の思想から解放され,佛教老荘の思想を背景として,独立の文学が唯美的の方面に向かって,新運動を開始した時代と見なされている。それが唐の時代の文芸復興に非常な貢献をした,と言う事を見逃してはならない。

単に旧来の漢学者が,一時期,六朝の文学は道義礼文を無視し浮華軽薄,一部にデカタンスの傾向を示す,と非難した時代もあった。それは文学を単に儒教主義の上から律して,道徳を以って文学を支配すべきものと見た解釈に基づくもので,文学を一個独立の芸術として認識しないと言う時代があった。
六朝時代に何故に駢儷文が起こり,何故に麗縟の辞句が盛んになったか,という所以を理解する必要がある。

李白は建安以後の文学を罵倒して珍とするに足らず絶叫している,にも拘わらず,獨り謝眺に対して敬仰の意を表している。清の沈徳潜は『齊人は寥寥たり,謝元暉獨り一代有り,霊心妙悟を以って筆墨の中,筆墨の外,別に一段の深情,名理あるを覚ゆる』と説詩晬語に語っている。明の陸時雍は,『
謝眺は清綺絶倫毎に気の竭くるに苦しむも,其の佳處は則ち秀色天成にして力の構う所にあらず,詩品に微く細密を傷むというは非なり,其の病は乃ち材 継がざるにあるのみ』と言っている。このことは,如何に詩壇で重んぜられていたかと言うことが解る。

彼は明帝の建武中に尚書吏部中に遷った。廃帝東昏侯の永元の初に於いて江祐等は謀って始安王遙光を立てた。遙光は謝眺を兼ねて衞府で知っていた関係から,引いて黨となさんとした。然し彼は禍の身に及ばんことを懼れて従はなかった。そこで勅だと称して,召し收められ獄に下された。彼は時の厄運のために罪に陥り,享年三十六で悲痛な生涯を終った。臨終に際して沈約に語を寄せて 「
公は方に三代の史たり,亦た見ることを得ず没す」と言った。彼の生涯は幸福ではなかったが,齊の詩風は彼によって代表せられた,と言ってもよい程の大詩人である。


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