詩の六義と詩体。 詩体 宋の厳滄浪は,[風雅頌が既に亡びると一変して離騒となった。再変して西漢の五言となった。三変して歌行雑体となった。四変して沈宋(沈佺期・宋之問)の律詩となった。五言は李陵と蘇武に起こった七言は漢武の栢梁に起こった」と述べている。 四言は漢の楚王の傳,韋孟 [漢の韋孟,字は元甫,漢の高祖の弟元王の傳となり,子の夷王と孫の王戊に及んだ。戊は荒淫で道に遵はなかった。因って詩を作って諷諫した。此の詩は古詩源にある ]。に起こった。 六言は漢の司農,谷永 [漢の谷永,字は子雲と言う楼護と倶に五侯の上客となり,後に大司農となった。六言の詩は任昉の文章縁起に見える,然し目が有って詩が無い。]に起こった。 三言は晉の夏侯湛 [晉の夏侯湛,字は孝若と言う。官は散騎常侍で中書侍郎を歴た。集って三言の詩がない。臆測ながら已に佚したと思はれる。]に起こった。 九言は高貴郷公 [魏の高貴郷公,諡は髦と言う。東海定王の子,斉王廃せられ大臣が之を立てた。司馬昭に弑せられる。其の九言の詩は文章縁起に見える,高貴郷公は四代目の魏主]と,言って詩の変遷を論じているが,時代に依って詩の流派と大製が異なってくるのも世勢の免れない所で,詩が起こって四千年の長い月日に及んでいる故,其の変化も亦た怪しむ事はない。 年号及び時代に依って命ずる者 建安体。[漢末の年号で,魏の曹子建父子及び鄴中七子の詩(厳滄浪自注)] 建安は後漢献帝の年号で二十五年間継続した。三国鼎立の際に於いて,魏と蜀とは何れを正統とすべきかは歴史家の間に議論のある所で,晉の陳寿の三国志[魏は四紀二十六列傳,蜀は十五列傳,呉は二十列傳,すべて六十五巻]は魏を正統としているが,明の劉剡之は宋の少微の江氏の通鑑節用と,宋の朱文公の綱目により蜀を正統としている。元の曾先之の十八史略も亦後節に楢っている。政治的には蜀を正統とすべき,と言う意見も正論であるが,文学的には魏を以て漢の正統を継いだものと言うべきである。 魏は実に文学史上に偉大な役割を演じている。殊に曹操の中国文学史に於ける功績は著しい。大体魏の文学と言えば鄴中の七子に因って代表されるが,然し此の七子の文学を操縦したのは曹丕,曹植の兄弟の力で,之を陶冶したのはやはり曹操である。故に魏の文学と一口に言えば,曹氏一門,則ち三曹の文学と称してもよい。実に曹操は建安文学の創始者で六朝文学の開拓者である。詩を学ぼうとする者は建安の文学を疎かにしてはならない。 曹操の膽略は一世を蓋うだけあって,詩風も亦沈雄俊爽で,三曹の中でも獨り倫を絶っている。槊を横へて詩を賦すという英雄である故,気魄の充ちた悲壮,激越な調である。[鐘嶸の詩品]に[曹公は古直にして悲凉の句あり]と批評しているが,好く穿った言葉である。此の気象が�健邁雄渾で風雅の遺音を備えた所に建安体の特色がある。 植も亦非常に乃父に似ていて,才藻が宏富,気骨が雄高,魏一代の大家と言うばかりでなく,六朝を通じて第一位に立つ人物であろう。。[鐘嶸の詩品]に[陳思の文章に於けるや,例えば人倫の周孔あり,鱗羽の龍鳳あり,音楽の琴笙あり,女工の美しい文章を例えるが如し]と言う。 丕は乃父の悲壮慷慨という風は更になく,女性的に多情多涙で,其の詩調は便娟婉約,巧みに人情を写している。 丕,則ち文帝からは全くの魏音である.。故に厳滄浪は自注に[魏の曹子建父子及び鄴中七子の詩] 書いて曹丕の詩を除外している。鄴中の七子とは孔融・陳琳・王粲・徐幹・阮踽・応瑒・劉楨のことである。 鄴は魏の主都であるから,このように呼ばれたのである。亦,時代的に建安の七子とも呼ばれる。此の七子は当時の詞苑に非常な光彩を添えた人々である。 魏の文帝(曹丕)の典論に【今の文人魯國の孔融文舉,広陵の陳琳孔璋・山陽の王粲仲宜,北海の徐幹偉長,陳留の阮瑀元瑜,汝南の応瑒,徳璉東平の劉楨公幹,この七子は学に於いて遺す所なく,辞に於いて假る所なく,みなおもえらく自ら驥騄を千里に騁せ,仰ぎて斉へ並び馳せる。王粲は辞賦に長じ,徐幹は詩に斉気あり,然れども粲の匹なり,粲の「初征」,「登楼」,「槐賦」,「正思」,幹の「衣」,「猿」,「漏巵」,「員扇」,「橘樹賦」の如き,張蔡と雖も過ぎざるなり,然れども他の文に於いては是に称う能はず琳瑀の章表書記は今の雋なり。応瑒は和にして壯ならず,劉楨は壯にして密ならず,孔融は礼気高妙人に過ぐるものあり,然れども持論する能はず,理辞に勝たず,雑するに嘲戯を以てするに至る,其の善くする所に及んでは揚班が儔なり】 と以て七子の才幹の一斑を知る事が出来る。 Copyrightc 1999-2011"(IshikyuteiKanshikan)"All rights reserved. IE6 / Homepage Builder vol.4 http://www.ccv.ne.jp/home/tohou/index |