司馬遷の「史記」に伯夷・叔斉傳がある。が・・・・・・。 父の君王は末弟の叔斉を後継者にする積もりだったが。 叔斉は、兄の伯夷に後座を譲ろうとした。伯夷は承知せず、 国外に逃亡する。叔斉も兄、伯夷の後を逐う。 孔子は言う。―「伯夷・叔斉は旧きを悪む。(にくしむ)とは、他人の怨恨 を言う。「宋の義疎」では、「人から怨まれる、ことが、少ない。と言う。 (論語の疎の説)ただし、梁の皇侃(おうがん)の「論語義疎」では 「人において怨み少なし」。と解している。司馬遷もそう解したと思われる。 独善の解釈: 通常は伯夷叔斉が国を譲ったことについて怨みをもたなかった、 と解されている。しかし、司馬遷の意は、あるいは周の武王が諫めを 聞かなかった。のを怨まなかった。と解すべきかも知れない。(哀公4年公羊傳の疎)。 天下は周の時代となった。伯夷・叔斉は、それは恥と、して義をもって周の 穀物を食うことを拒否しゼンマイを取って食らう。 飢えて死がせまったとき、歌を作った。その辞に言う。 「彼の西山に登り、その薇を取る、暴を以って暴に易え、その非を知らず。 神農・虞・夏・も忽ち没せり、我、安にか適きて帰せん。于嗟徂かん。 命の衰えたるかな。」そして首陽山において飢え死にした。 そのことから、怨みがあったのであろうが、そうではないのか。 『天道には親無し。常に善人に與す』(くみする)と言う。 伯夷・叔斉は善人と言う。仁を積み行いをいさぎよくした。こと。 かくのごとくであっても餓死した。 孔子は惟一人。顔淵を学をこのむと推賞した「回や、回や、しばし空し」 酒粕や糠にも食べあきることさえできず、とうとう夭折した。 天が善人に対する報いとは、いったい、どんなことなのか。 |