漢字と漢字文化圏
                   篆書・隷書・書簡

 漢字と漢字文化圏 

題目  甲骨文字・篆書・隷書・

 漢字の起源については、黄帝の臣蒼頡が鳥の足跡を見て作ったと言う伝説があるが、実証的には、新石器時代の陶器に彫りつけられた符号(刻画符号とか陶文)を採り上げて説明することが多い。大部分は符号であり、文字とは言い難い。殷時代の甲骨文字に似ているものがある。中国河南省鄭州から土出した殷時代の中期の甲骨や青銅器に文字がある。

分量は少ないが、甲骨文字と金文は同時期に発見されている。甲骨文字は、亀甲や獣の骨に彫った文字である。河南省安陽市の西北郊外から多量に出土した。これは殷時代後期のもので、おおよそ西暦紀元前一一00年頃までの二百年あまりのもので、第二十二代武丁から第三十代帝辛までのもとされている。甲骨文字は約三千字あまり、原始的な象形の文字が少し残ってはいるが、すでに会意や形声の文字が相当に多い。本来の意味から離れて別の意味に仮借している文字もある。即ち、甲骨文字はすでにかなりの段階まで発達した文字であると言うことが解明されている。その字体は、現代の字体まで変化の経過をたどることが出来るものがある。甲骨文字は漢字の祖形である。文法も基本的に漢語である。

甲骨文の内容は、主として王が祖先や神を祭ったり、農作の収穫や戦乱の行方を占ったりした時の記録である。占いを担当した人と文字を彫る人とは別人である。甲骨文字の刻者は、少数だという見方がある。書風は、周初期には雄強で線や字形の変化が大きい。然し、次第に洗練されて字形が整い、等質な線で書かれるようになる。秦の始皇帝が天下を統一すると、中央集権国家を目指し、文字の統一も目指した。

統一して出来たのが篆書だという説が広く行われている、然し『説文解字』の序では秦の文字に統一した、特定の書体を統一したとは言っていない。秦の文字統一と言うのは、自国の文字を基準にし、他国の文字を廃止した。篆書、隷書は書体の名であるが、隷書は、事務処理に向いた簡略な書体と考えられる。実例で言えば、睡虎地出土簡のような文字であろうと推察される。未だ篆書の構造が残り簡略化して書きやすくなっている。秦隷と言うべきである。

近年の中国考古学がもたらした目覚ましい発掘研究は、これまでの不鮮明かつ欠落した部分のベールを脱がせつつある。紙は後漢の蔡倫の発明によるという伝承を覆したのは一九五七年・西安市郊外の「は橋」の前漢武帝期の墓中からの麻紙の発見。一九八六年に甘粛省天水県から前漢の地図を書いた「残紙」の発見。又、「甲骨は殷代の遺産」の考えを覆す、陝西省岐山県鳳雛村。甲骨文字一万七千余片の発見。湖北省雲夢睡虎地の秦の墓地からの竹簡・隷書。七十二年の湖北省長沙市で発見された馬王堆一号漢墓の軑侯・利蒼夫人の湿屍は、今世紀最大の発見とされた。更に、馬王堆三号漢墓から帛に書かれた古写本。

隷書について宋の羊欣の「古来能書人名」に「秦の獄吏程邈は大篆を善くす。罪を始皇帝に得て、雲陽の獄に囚わる。大篆の体を増減し、その繁復を去る。始皇帝これをよみし、出だして御史となす。書に名ずけて隷書という」。とある。程邈が大篆を作ったかどうかは不明であるが、秦の篆書が簡略化され実用面が強化され隷書に変化したことは確かである。古隷の線の魅力は人間の心に響くリズムがある。唐代の初めに発見された太鼓状の十個の石塊は、「張懐璀」によつて「石鼓」と称され、以後名だたる文人達の過眼を経て、著名な傳世品となった。最近の研究では戦国時代の秦の中期(前四世紀頃まで年代を下げてる。因みに、石鼓の文章は、狩猟に関する内容で故に石鼓を「猟碣」ともいう。四字句の韻文で構成され、十個総じて七百字以上あったと推定される。

郭店楚墓竹簡。上海博物舘蔵戦国楚竹簡(写真製版。全七冊の超一級品といえる。)郭店楚墓竹簡は一九九七年に湖北省荊門市郭店一号楚墓から竹簡が出土した。多数の副葬品と共に804枚の竹簡が発見された。竹簡の長さと綴じ紐の数。その簡の長さは  
        三十二・五 ㎝
        二十六・五 ㎝
        十五 ㎝から十七・五 ㎝

竹簡は横に並べて横糸で綴じて、丁度、すだれのようにクルクルと巻かれて収められ、何ヶ所で綴じられたは、書物によって異なっていたようである、

上海博物舘蔵戦国楚竹書(一)に付された陳燮君の序文では、上海楚簡の最短は二十三・八㎝。最長は五十七・二㎝。編綴は二ヶ所、と三ヶ所。の二種類がある。全体的にみると郭店楚簡に比べて上海楚簡の方が簡長が長い。のほぼ三種類に分けられる。形状は簡の両端が平らなものと台形にカットされたものと二種類ある。

上海博物舘蔵戦国楚竹簡の入手経路は、一九九四年春、上海博物舘馬承源元館長のもとに香港の張光裕教授からフアックスが送られて来た。それは香港の骨董市場に現れた竹簡の摹本である、馬氏は張氏に多くの摹本を送るように求めた、送られてきたのは、未知の先秦の古籍である、戦国楚簡の文字と一致することが判明し、張氏に購入の斡旋を依頼した。当時、香港は返還前で渡航手続きに二、三ヶ月を要し竹簡の流出・分散を防ぐ上で迅速な対応が求められた。続いて送られてきた三十数ページの摹本によって、これらの竹簡は総べて先秦の古籍で『易』以外の大部分が未知の著作であることが判明した。

そこで、張氏に鑑定結果の要点を連絡し、あらためて竹簡の保存状態や文字の書法・墨色などについての詳しい報告を求め、総合的に判断して、購入が決定された。そして、同年五月、これらの竹簡が上海博物舘に送られてきた。さらに其の年の秋から冬にかけて、先に購入した竹簡の残欠部とみられる、ひとまとまりの竹簡が市場に現れた。すでに歳末をひかえて上海博物舘には資金が無かったが、幸いにも香港在住の支援者が共同出資して買い取り、これらの竹簡は上海博物舘に寄贈された。

このようにして香港から上海博物舘に送られた竹簡は、その後三年にわたり脱水と汚れを除去する保存処理が施され、一九九七年から整理・研究が進められた。一九九九年一月五日付けの中国の日刊紙「文匯報」によれば、竹簡は千二百余簡、字数約三万五千。
内容は儒家・道家・兵家・雑家などの著作八十種余りに及ぶ、その多くは佚書。八十種の内の主なものには『易経』『詩論』『緇衣』『子羔』『孔子閑居』『彭祖』『楽礼』『曾子』『武王践阼』『賦』『子路』『恒先』『曹沫之陳』『四帝二王』『曾子立孝』『顔淵』『楽書』などが
有るという。これらの竹簡の正式な報告書は全七冊として上海古籍出版社から刊行が計画され二00一年に第一冊の馬承源主編『上海博物舘蔵戦国楚竹簡書(一)』が刊行された。
郭店楚簡の発見は盗掘が引き金になったとはいえ、研究者による科学的な発掘調査によるものであった。これに対して上海博物舘蔵戦国楚竹書は、盗掘されて香港の骨董市場に流出したものであるため、出土時期や出土地などは一切明らかにされていない。

上海博物舘蔵戦国楚竹簡は一九九九年一月五日付けの中国の日刊紙「文匯報」によれば、竹簡は千二百余簡、字数約三万五千。内容は儒家・道家・兵家・雑家などの著作八十種余りに及ぶ、その多くは佚書。
十種の内の主なものには『易経』『詩論』『緇衣』『子羔』『孔子閑居』『彭祖』『楽礼』『曾子』『武王践阼』『賦』『子路』『恒先』『曹沫之陳』『四帝二王』『曾子立孝』『顔淵』『楽書』などが有るという。これらの竹簡の正式な報告書は全七冊として上海古籍出版社から刊行が計画され二00一年に第一冊の馬承源主編『上海博物舘蔵戦国楚竹簡書(一)』が刊行された。郭店楚簡の発見は盗掘が引き金になったとはいえ、研究者による科学的な発掘調査によるものであった。これに対して上海博物舘蔵戦国楚竹書は、盗掘されて香港の骨董市場に流出したものであるため、出土時期や出土地などは一切明らかにされていない。福田哲之(島根大学教授))

運筆について起筆・収筆など古隷は秦の隷書を指すのが始まりであるが、郭店楚墓竹簡の書は右上がりの字形である。横画は右上がりの円転で弧を描くような筆勢で書かれている。書物として編綴された竹簡の形体を説明する場合、司馬遷の『史記』孔子世家の逸話である。

孔子、晩年に易を学び、豸(タン)・象・説卦・文言を序ぶ。易を読みて、韋編三たび絶つ。曰く、我に数年を仮し、是の若くならば、我れの易におけるや即ち彬彬たり。「韋編三絶 正読」。(中国文物・報)一九九一年十一月三日付け この「韋」は横糸を意味し「編」お通用字で、即ち「「韋編」=「編韋」であり、なめし革でなく横に綴じた糸の意味に理解すべきである。

参考文献

   書法名作鑑賞辞典。平凡社
   「ブイジアル書芸術全集」。雄山閣
   書跡名品叢書。二玄社