韓 愈
韓愈は文章では唐代第一流の文豪であり、先秦以後の名手である。孟子・荀子・荘子・韓非子などに踵を接ぐべき人物である。詩に於いても盛唐の李・杜にも匹敵する。中唐詩人巨頭である。韓愈、韓は姓、名は愈、字を退之という。唐の第八代皇帝代宗の大暦三年・秘書郎・韓仲卿の四男として生まれた。
愈の自称した昌黎は、河北省、山海関から約七十㎞西南の場所。大暦五年(770)父・仲卿がなくなった。三歳の愈は、以後、長兄の韓会に養われる。愈には三人の兄がいた。大暦十四年、愈は韓会の一家に従って韶州に行く。建中二年(781)韓会はその地で死亡した。四十二才だった。愈は十四才。兄嫁の鄭氏に連れられ苦労しながら洛陽に還った。愈は七才の頃から書を読み文を作り始めたが決まった師は無く独学で刻苦精励した。貞元二年(786)十九才の時、進士の試験を受けるため、長安に出た。従兄韓弇の知人馬燧の門下生となり勉強し、自信満々で受けた試験であったが、何度も落第した。
学問だけでは、官吏の世界は入れない。高い理想と明るい希望も様々な障害に出会い現実的になる、批評も生まれる。


    長安交遊者
長安交遊者。  長安に交遊する者
貧富各有徒。  貧富 各κ徒あり
親朋相過時。  親朋 相い過ぎる時
亦各有以娯。  亦た各κ以って娯むあり
陋室有文史。  陋室には 文史あり
高門有笙竽。  高門には 笙竽あり
何能辨栄悴。  何ぞ能く 栄悴を辨ぜんや
且欲分賢愚。  且く賢愚を分たんと欲す
    
日に数千言を記し、長ずるに及んで六経・諸子百家の学に通じた。貞元八年。二十五才の時、進士に合格。十八年門博士。十九年監察御史。上疏して宮市を極論したが為、徳宗の怒りに触れ陽山の令に貶せられた。元和の始め復び国士博士に拝せられ、都官員外郎・河東令・比部郎中・史館修撰・太子古庶子など歴任した。元和十四年憲宗が佛骨を宮中に迎えた時、国粋主義、儒教主義の上から反対し「論佛骨表」を上上し力諫い、逆鱗に触れ潮州剌史に貶えられた。継いで袁州に改められた。穆宗が位に就き翌年九月国子祭酒に拝した。

        論佛骨表   佛骨を論ずるの表
臣某言。伏以佛者夷狄之一法耳。自後漢時。流中国。上古未嘗有也。昔者黄帝在位百年。年百一歳。少昊在位八十年。年百歳。顓頊在位七十九年。年九十八歳。帝嚳在位七十年。年百五歳。帝堯在位九十八年。年百一十八歳。帝舜及禹。年皆百歳。此時天下太平。百姓安楽寿考。然而中国未有佛也。其後殷湯亦年百歳。湯孫太戌。在位七十五年。武丁在位五十九年。書史不言其年寿所極。推其年数。蓋亦倶不滅百歳。周文王年九十七歳。武王年九十三歳。穆王在位百年。此時仏法亦未入中国。非因事佛而致然也

臣某言う。伏して以んみるに,佛は夷狄の一法のみ。後漢の時より。中国に流わり。上古には未だ嘗って有らず。昔者,黄帝位に在ること百年。年百一歳。少昊位に在ること八十年。年百歳。顓頊位に在ること七十九年。年九十八歳。帝嚳位に在ること七十年。年百五歳。帝堯位に在ること九十八年。年百一十八歳。帝舜及び禹。年皆百歳。此の時天下太平。百姓安楽にして寿考なり。然り而うして中国に未だ佛有らず,其の後,殷の湯も亦た年百歳。湯の孫太戌。位に在ること七十五年。武丁位に在ること五十九年。書史に其の年寿の所,極わまる所を言わざれども。其の年数を推すに。蓋し亦た倶に百歳を滅ぜじ。周の文王年九十七歳。武王年九十三歳。穆王位に在ること百年。此の時仏法亦た未だ中国に入らず。佛に事(つかう)に因りて然ることを致せしに非らず。

漢明帝時。始有仏法。明帝在位僅十八年耳。其後乱亡相継。運祚不長。宋斉梁陳元魏已下。事佛漸謹。年代尤促。惟梁武帝在位四十八年。前後三度。捨身施佛。宋廟之祭。不用牲牢。昼日一食。止於菜果。其後竟為侯景所逼。餓死台城。国亦尋滅。事佛求福。乃更得禍。由此観之。佛不足事。亦可知矣
高祖始受隋禅。則議除之。当時群臣。材識不遠。不能深知先生之道古今之宜。推闡聖明。以救斯弊。其事遂止。臣常恨焉。伏惟睿聖文武皇帝陛下。神聖頴英武。数千百年已来。未有倫比。即位之始。即不許度人為僧尼道士。又不許創立寺観。臣常以為高祖之志。必行於陛下之手。今縦未能即行。豈可恣之転令盛也。今聞。陛下令群僧迎佛骨於鳳翔。御楼以観。舁入大内。又令諸寺逓迎供養。臣雖至愚。必知陛下不惑於佛。作比崇奉。以祈福祥也。直以年豊人楽。徇人之心。為京都士庶。設詭異之観劇翫之具耳。安有聖明若此。而肯信此等事哉

漢の明帝の時に。始じめて仏法有り。明帝位に在ること僅かに十八年のみ。其の後乱亡相い継ぎ。運祚長からず。宋斉梁陳元魏より已下。佛に事(つかうること)漸く謹しみて。年代尤も促れり。惟だ梁の武帝のみ位に在ること四十八年。前後三度。身を捨て佛に施し。宋廟の祭りにも。牲牢を用ちいず。昼日一食にして。菜果に止どまる。其の後竟に侯景の逼る所と為って。台城に餓死し。国も亦た尋いで滅ぶ。佛に事(つかえて)福を求めて。乃ち更に禍を得たり。此れに由りて之を観れば。佛の事うるに足らざること。亦た知りぬべし。高祖始じめて隋の禅りを受け。則ち之を除かんと議す。当時の群臣。材識遠からず。深く先生の道と古今の宜ろしきを知り。聖明を推し闡(ひら)き。以って斯の弊を救うこと能わず。其の事遂に止む。臣常に恨らむ。伏して惟んみるに,睿聖文武皇帝陛下。神聖頴英武。数千百年より已来。未だ有倫比有らず。即位の始め。即ち人を度して僧尼道士と為すことを許さず。又寺観を創立することを許さず。臣常に以為えらく高祖の志。必ず陛下の手に行わんと。今縦い未だ即ちに行なうこと能わずとも。豈に之を恣ままにして転た令盛んならしむべけや。今聞く。陛下群僧をして佛骨を鳳翔より迎えしめ。楼に御し以って観。舁いげ大内に入れ。又諸寺をして逓いに迎えて供養せしむ。臣至愚と雖も。必ず陛下の佛に惑いて。比の崇奉を作し。以って福祥祈めたまうにあらじ。年(みの)り豊かに人楽しむを以って。人の心に徇(したがい)。京都の士庶の為に。詭異の観,劇翫の具を設くるの耳なることを知れり。安くんぞ聖明此くの如くにして。肯えて此れ等の事を信ずること有らん哉。

然百姓愚冥。易惑難暁。苟見陛下如此。将謂真心事佛。皆云。天子大聖。猶一心敬信。百姓何人。豈合更惜身命。焚頂焼指。百十為群。解衣散銭。自朝至暮。転相倣効。惟恐後時。老少奔波。棄其業次。若不即加禁遏。更歴諸寺。必有断臂臠身以為供養者。傷風敗俗。伝笑四方。非細事也。夫佛本夷狄之人。與中国言語不通。衣類特制。口不先王之法言。身不服先王之法服。不知君臣之議父子之情。假如其身至今猶在。奉其国命。来朝京師。陛下容而接之。不過宜政一見。礼賓一設。賜衣一襲。衞而出之於境。不令惑衆也。 況其身死已久。枯朽骨。凶穢余。豈宜令入宮禁。孔子曰「敬鬼神而遠之。古諸侯。行弔於其国,尚巫先以桃茢。祓除不祓。然後進弔。今無故取朽穢之物。親臨観之。巫祝不先。桃茢不用。群臣不言其非。御史不挙其失。臣実恥之。乞以此骨附之有司。投諸水火。永絶根本。断天下之疑。絶後代之惑。使天下之人知大聖人之所為。出於尋常萬萬也。豈不盛哉。豈不快。佛如有霊。能作禍崇,凡有殃咎。宜加臣身。上天塩臨。臣不怨悔。無任感激懇悃之至。謹奉表以聞。臣某誠徨誠恐。



然れども百姓愚冥にして。惑い易く暁り難し。苟も陛下の此くの如を見れば。将に真心に佛に事うと謂い。皆云わん。天子の大聖なるも。猶を心を一にして敬信する。百姓何に人ぞ。豈に合に更に身命を惜しむべけんや。頂を焼き指を焼き。百十群れを為し。衣を解き銭を散じて。朝より暮に至るまで。転た相い倣い効ぶ。惟だ時に後れんことを恐れ。老少奔波して。其の業次を棄てん。若し即だちに禁遏を加えずんば。諸寺を更歴して。必ず臂を断ち身を臠(きり)て以って供養と為す者有らん。風を傷(やぶる)り俗を敗りて。笑を四方に伝えんことを。細事に非らず。それ佛は本夷狄の人にして。中国と言語通ぜず。衣類製を特にす。口に先王の法言を言はず。身い先王の法服を服せず。君臣の議,父子の情を知らず。假如(たとえ)其の身今に至るまで猶在りて,その国命を奉じ。京師に来朝すとも。陛下容れてこれに接せんことを。宜政に一見し。礼賓に一設し。衣一襲を賜うに過ぎず衞りてこれを境より出して。衆を惑話しめじ。況やそ其の身死して已に久し。枯朽の骨。凶穢の余。豈に宜ろしく宮禁に入れしむべけんや。孔子いわく。「鬼神を敬して遠ざく」と。古の諸侯。弔を其の国に行うものだ,尚を巫祝をして先ず桃茢を以って不祓を祓除せしめて。然して後に進んで弔す。今故無くして朽穢の物を取って。親ずから臨んで観たまう。巫祝先んぜず。桃茢用いられず。群臣其の非を言うさず。御史その失を挙げず。臣実に恥じる。乞う此の骨を以ってこれを有司に附して。諸を水火投じ。永く根本を絶ち。天下の疑がいを断め。後代の惑いを絶ち。天下の人をして大聖人の所為する所。尋常より出るずこと萬萬なることを知らしめたまえ。豈に盛んならずや。豈に快からずや。佛如し霊有りて。能く禍崇を作さば,凡そ有らゆる殃咎は。宜ろしく臣が身に加うべし。上天塩臨す。臣は怨み悔まず。感激懇悃の至りに任うることに無し。謹しんで表を奉って以って聞く。臣某誠徨誠

        遊山西村             山西村に遊ぶ

      莫笑農家臘酒渾      笑う莫れ 農家 臘酒の渾れるを  
      豊年留客足鶏豚      豊年 客を留むるに 鶏豚足る
      山重水復疑無路      山重 水復 路無きかと疑う
      柳暗花明又一村      柳暗 花明 又た一村
      簫鼓追随春社近      簫鼓 追随して 春社近く
      衣冠簡朴古風存      衣冠 簡朴にして 古風存す
      従今若許閑乗月      今従り若し閑かに月に乗ずるを許さば
      挂杖無時夜叩門      杖を挂き 時と無く 夜に門を叩かん


 
       雨中泊趙屯有感。 雨中 趙屯に泊して感有り。

      帰燕羈鴻共断魂     帰燕 羈鴻 共に魂を断つ 
     荻花楓葉泊孤村     荻花 楓葉 孤村に泊す
     風吹暗浪重添纜     風は暗浪を吹き 重ねて纜(ともずな)を添え
     雨送新寒半掩門     雨は新寒を送り 半ば門を掩う
     魚市人煙横惨淡     魚市の人煙 横たわって惨淡たり
     龍祠簫鼓閙黄昏     龍祠の簫鼓 黄昏に閙がし
     此身且健無餘恨     此の身 且く健ならば餘恨無し
     行路雖難莫更論     行路難しと雖も更に



雑説 (四)
世有伯楽、然後有千里馬。千里馬常有、而伯楽不常有。故雖有名馬祇辱於奴隷人之手、駢死於槽櫪之間。不以千里称也。馬之千里者、一食或尽粟一石。

食馬者、不知其能千里而食也。是馬雖有千里之能食不飽力不足。才美不外見。且欲與常馬等、不可得。安求其能千里也。策之不以其道、食之不能尽其材。

鳴之不能通其意。執策而臨之曰、天下無良馬。嗚呼其真無馬耶。其真不識馬耶

       
世に伯楽のような馬を見分ける人が有って、それでこそ一日千里を走れる馬が見出されて存在する。千里の馬はいつでもいる、しかし、それを見分ける伯楽は、常にいるのではない。立派な馬がいても、只、しもべ達の手で辱しめられて、終には、かいば桶と馬屋の踏み板との間で、他の馬とならんで死んでしまい、千里の馬と言って、ほめはやされないのである。 馬の一日千里走れる者は、一食に、粟一石を食い尽くすものもある。

馬を養うものは、その馬が千里を走ることが出来ることを、知って養なっているのではない。この馬に千里を走る能力があっても、食物を十分に食わなければ、力が足らない。その働きの立派なことが外に表れない。その上、常の馬と同じでありたいと思っても、それさえ出来ない。どうしてその馬の千里を走ることを求められよう。無理なことである。馬を鞭打ち使う場合には、それにふさわしい方法を以ってせず、馬を飼うには十分に食はせてその才能を残りなく発揮させることができない

馬は苦しさ、不満を鳴いて訴えても、伯楽と違って、使う人は馬の気持ちを解かる事ができない。鞭を手にとり、馬に向って『天下に良馬がいない』と言う。これが世の多くの馬を使う人々の有様だ。嗚呼(ああ)、本当に馬がいないのだりうか、本当に馬はいても馬の良否を見分けることが出来ないのであろう

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