故事成語考>1>史記

                 中国故事考  1
   ☆ 憂国の詩人・・・・屈原。
   ☆ 伯夷と叔斉・・・・ 
   ☆ 張儀・・・・・吾が舌を視よ。
   ☆ 東方朔・・・・奇人。奇行。

     憂国の詩人・・・屈原
     魚腹に葬られる。

屈原は楚の王族の一人で、楚の懐王につかえ、左徒(補佐官)に任じられていた。屈原は学識豊かで政治的見識に富み、挨拶、対応の仕方など、政治家としての素養を充分に積んでいた。宮廷内では、王のよき相談役として国事を裁き、外交面でも賓客の接待、侯との対応に手腕を発揮し、懐王の信任はたいへん厚かった。

しかし、重臣たちのなかには屈原を嫉むものがいた。その一人、上官大夫は、ひそかに屈原を失脚させるチャンスを狙っていた。あるとき、屈原は懐王から法令の草案作成を命じられた。草案が出来上がりかけた時、上官大夫が押しかけて、それを未完成のまま、強引に懐王に提出させようとする  屈原は拒否したので、上官大夫は懐王に、こう讒言した。

「法令を作成するとき、王はいつも屈原にお命じになる。これは周知のことであります。ところが、あの男ときたら、法令が交付されるたびに、これは自分が作ったのだ、自分がいなければ王はなに一つ満足には出来ないと言いふらしています」懐王は顔色を変えた。それからは、以前とはうって変わり屈原を近ずけようとしなくなった。

屈原は歯軋りする思いであった。懐王は中傷や媚びへつらいを真に受け、臣下の進言の当否を見抜けないでいる、腹黒い臣下が国事を独占し、正当な受けいれられない。屈原は鬱々と楽しまず、悲しみに鎖させる日々がつずいた。この気持ちが『離騒』という長篇の詩となって吐露されている。懐王は最後まで過ちに気がつかなかった。屈原は、国の前途を憂い、国王の身を案じたが、奸臣たちの計略にかかって、江南に追放されてしまった。

髪をふり乱し、入江のほとりを吟行する屈原。顔色は憔悴し、体は枯れ木のように痩せ衰える。  漁師が屈原を見かけて声をかけた。
「あなたは屈原さまではありませんか。どうして、こんなところにおられるのですか」 「世の中が濁っているのに、私ひとり澄んでいる。どの人間もみな酔っているのに、私ひとりが醒めている。だから、放逐されたのだ。」

「ものごとに拘泥せず、世の推移に身を任せる、これが聖人の行き方だと聞いております。」    世の中が濁っているなら、なぜその流れに身を任せないのですか。すべての人間がみな酔っているなら、なぜどぶろくでも飲んで、ご自身も酔わないのですか。胸中に珠玉を懐きながら、なぜ   ご自分から放逐されるようなまねをなさったのですか」

「顔を洗い体を拭いたあとは、冠の汚れをはたき、衣服も埃をはたいて見につける、と言うではないか。潔白の身を垢で汚すわけにはいかない。そんなまねをするくらいなら、いっそ江水の流れに身を投じて、魚の餌食になった方がましだ。世俗のどす黒さに身を投じる事などまっぴらだ」 かくて、屈原は石を懐に入れると、泪羅に身を投じて死んだ。

     伯夷と叔斉

伯夷と叔斉は諸侯のひとつ、孤竹国の君主の子であった。伯夷は長男、叔斉は三男で、父親は 三男の叔斉にあとを継がせるつもりでいた。しかし、父君が死去すると、三男の叔斉は長兄の  伯夷に君位を譲ると言いだした。伯夷の方もウンと言わない。「お前に継がせるのが、父上の遺志だ。私が継ぐわけにはいかない」 こう言って伯夷は出奔してしまった。叔斉も即位をこばんで、兄の跡を追って出奔してしまった。

その後、二人がどこでどんな暮らしをしていたかは解らない。周へ現れたときには、すっかり年老いていた。二人は、周の文王が老人を優遇すると聞いて、周へたよって来たのだった。しかし、周へ来てみると分王は已に亡く、あとを継いだ武王が、今しも殷の紂王を征伐するため出陣するところだった。二人は、武王の馬車に駆け寄るなり、馬にすがり武王に抗議をした。

「父君の葬儀もせずに戦争沙汰とは、それでも孝と言えましょうか、臣下の身でいかに暴君とはいえ、主君を刺殺しようとは、それでも仁と言えましょうか」武王の従者が、二人を斬ろうとしたが、そばにひかえていた太公望がおしとどめた。「義人じゃ、助けてやれ」 このひとこと二人は救われ、従者が抱えるようにして、その場から連れ去った。

武王が殷を滅ぼしたあと、天下はことごとく周を宗室と仰いだが、伯夷と叔斉は、義として周の粟を食むわけにはいかないと決心し、首陽山にかくれ住み、ワラビを食料として露命をつないだが、やがて餓死した。

    傾危の士。 
弁舌が巧みで国家を傾け危うくする人。危険な人物。

戦国時代に魏の国の張儀は風雲を望んで、鬼谷先生に権謀術数の道を学んだ。のち、楚の宰相 昭陽の食客となったが、「和氏の壁」の紛失で貧乏人になった。その為にある疑いをかけられ、辱 めを受けた。半死半生で故郷え帰ると、妻が「なまじ読書游説などしなかったら、こいう辱しめは受けることはなかったろうに」と嘆くと「わしの舌を見てくれ。まだ、あるかどうか」と言った。妻が笑って「ありますよ」と言うと「それなら安心だ」と言った。舌さき三寸、世を渡り歩く張儀。

    奇人。奇行。東方朔
武帝は退屈すると、いつも東方朔に話し相手をさせ、そのたびに上機嫌になる。東方朔は時には 陪食にあずかることもしばしば、食事が終ると、食べ残した肉を全部フトコロに入れてもち帰る。  勿論、着物はベトベトになってしまう。また、絹物を頂戴すると、それを無造作に担いで退出する。 帝から賜った銭や絹物がたまると、それで都のうら若い美女を娶る。が、一年もたつと、その女を さっさと捨てて新しい女を迎える。こうして、賜り物は銭も物もことごとく女のためについやす。   同僚の侍従たちは、こんな東方朔をなかば気ちがい呼ばわりしていた。

武帝が耳にしてこう言った「朔に仕事をさせれば、なに事も見事にこなすに違いない。君たちには足元にも及ばないのだぞ」東方朔が一人で殿中を歩いているとき、一人の侍従が声をかけた。    「やあ、朔さん、あなたは気が触れているんじゃないかと、もっぱらの噂ですよ」 「そうでしょうな、なにしろ私などは ”朝廷の中に隠遁しているものですから”昔の人は、もっぱら山奥に隠遁しましたがね」

酒宴の席でも同様である。酔いがまわると、四つんばいになって歌いだす。
          世俗の中に身を沈め 御殿の中に身を隠す
          身を隠すには山奥の 草むす庵と限るまい
あるとき、学者たちが集った席で、東方朔にこう皮肉を言う者がいた。「先生ほどの豊かな学問見識がありながら、帝にお仕えして数十年、たかだか書記官どまりとは・・」 「乱世にあっては、国の存亡は人材の得失によって決せられる。したがって、高位に迎えられる機会も多い。

だが、現代のように秩序はかたちずくられ、天下の隅々まで安定している、こう言う時代には   賢者も愚者も識別し難いのです。昔の人も”天下に災害なければ、たとい聖人たりとも、才をふるう余地なし”と言っています。だからと言つて修養を怠ってよいと言うことではありません。自分自身が充実していれば、外見上の出世などは問題ではありません。」学者たちは答えるすべも無く、だまりこんでしまった。



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