中野逍遥
中野逍遥(1868~ 1894)。名は重太郎。字は威卿。逍遥と号す。別に狂骨子と号す。愛媛県は伊予宇和島の人。明治二十七年七月東大漢文科を卒業するも、その年十一月十六日肺炎で逝去。

時に、年二十七歳。翌年、学友の宮本正貫(広島県大崎島中野出身、広島医学校・東大漢文科卒)等相謀って『逍遥遺稿』正外二編を刊行する。その稿は昭和四年・岩波文庫から発刊された。
逍遥が死去した時、島崎藤村は逍遥を悼む長詩を作っている。

    偶成 (一)
半生漂泊耗窮途。    半生の漂泊 窮途に耗らす
莫及二毛侵鬢鬚。    及ぶなし 二毛の 鬢鬚を侵すに
柱石何人推伊呂。    柱石 何人か 伊呂を推さん
昇平誰使唱唐虞。    昇平 誰をして 唐虞を唱えしむる
煙松雨霄釵翻翆。    煙松 雨霄れて 釵 翆を翻るがえし
露竹風吹剣滴珠。    露竹 風吹いて 剣 珠を滴らす
独依小窓思何極。    独り 小窓に依って 思い何ぞ極らん
無涯名月満皇都。    涯ぎり無く 名月 皇都に満つ
  ◆耗 :損耗。
  ◆窮途 :困窮。
  ◆二毛 :白髪。晋の潘岳は三十二歳で二毛となった。故事による。 (莫及二毛侵鬢鬚=私はまだ若い、しらが鬢や鬚を侵す年の三十三才に及んでいない。
  ◆柱石 :国家の大忠臣。
  ◆伊呂 :殷の伊予と周の呂尚と。共に開国の元勲。
  ◆唐虞 :唐は堯王。虞は舜王。 堯舜の二字で時代の太平の世を指す。


    偶成 (二)
一片精光夜色敷。    一片の精光 夜色敷く
茫茫風露満皇都。    茫茫たる風露 皇都に満つ
問牛宰相今邈矣。    牛を問うの宰相 今 邈たり
横槊英雄安在乎。    槊を横たえる英雄 安くに在りや
千載高標杜子美。    千載の高標 杜子美
生平雅致邵堯夫。    生平の雅致 邵堯夫
此間眞味誰知得。    此の間 真味 誰れか知り得ん
八百八街大月孤。    八百 八街 大月孤なり
  ◆問牛宰相 :漢の宰相・丙吉が牛の喘ぐのを看て陰陽を燮理したという故事。
    「宰相たる職務は天地の異変に対処するこである。」
  ◆横槊英雄 :魏の曹操のこと。
  ◆杜子美 :杜甫のこと。
  ◆邵堯夫 :北宋の哲学者・邵雍。『伊川撃壊集』の著がある。哲学的な詩が多い。
  ◆八百八街 :東京のこと。江戸八百八町という。

    将向東都留別 (二首之一
招朋此夕且憑楼。    朋を招いて 此の夕 且らく楼に憑る
大月照来不説愁。    大月 照らし来って 愁を説かず
秋高南海三千里。    秋高く 南海 三千里
雲滅東程十五州。    雲滅っす 東程 十五州

    将向東都留別 (二首之二
秋風吹湿蛾眉面。    秋風 吹いて湿らす 蛾眉の面
酔指天水天尽畔。    酔うて指す 天水 天尽くるの畔
憐君一点涙香痕。    憐れむ君が 一点 涙香の痕
染入客衣不堪澣。    染めて客衣に入れば 澣うに堪えず
  ◆この詩、仄韻を以てするも失粘している。

    四 期
山落落兮水滔滔          山 落落として 水 滔滔たり
豪傑之心事如此          豪傑の心事  此くの如し
月皎皎兮波灔灔          月皎皎として 波は 灔灔
才子之胸襟如此          才子の胸襟  此くの如し
霜凛凛兮斗耿耿          霜 凛凛として 斗 耿耿たり
烈女之風標如此          烈女の風標 此の如し
花裊々兮風細細          花 裊々として 風 細細
佳人之心腸如此          佳人の心腸 此くの如し
豪傑如夏               豪傑は 夏の如く
才子如秋               才子は 秋の如く
烈女如冬               烈女は 冬の如く
夏與冬使人粛然          夏と冬とは 人をして粛然たれしむ
吾愛秋天之清高無塵無雲    吾は愛す秋天の清高にして塵なく雲く
尤喜春夜之微茫如夢如烟    尤も喜ぶ春夜の微茫にして夢の如く烟の如きを
 ◆此の詩は四期を例して、作者の感慨を述べている。詩体は「楚辞」に似せているが、近体詩の「二+二+三=七字」の原則は無い。古代を代表する中国文学は楚辞・詩経。唐詩はこの、漢魏六朝の古典詩が源泉となっている。楚辞は長江(揚子江)一体の、楚の国が発祥地。詩経は黄河流域を有する北方文学・各々韻文の一ジャンル。形式には”詩経”の多くが四言詩に対し゛楚辞”は”兮”文字。七言・六言の言語が多い。詩経の作品は短文が多いが楚辞は長篇である。

   発 郷
十里家山不客吾      十里の家山 吾を容れず
又抱狂骨上征途      又た狂骨を抱いて 征途に上る
美人泣訴百年恨      美人 泣いて訴える 百年の恨
雲惨憺兮離亭晩      雲 惨憺たり 離亭の晩
玉笙吹起満眼愁      玉笙 吹いて起こす 満眼の愁
長江之水自天流      長江の水 天より流る
英雄剣下傷心地      英雄 剣下 傷心の地
悲士歌辺感慨涙      悲士 歌辺 感慨の涙
秋風名月皤人鬢      秋風 名月 人の鬢を皤くす
鳴乎人世茣作読書子   鳴乎 人世 読書の子と作るなかれ
  ◆この詩、郷里を出発するときの感慨を述べる。詩体は七言古詩換韻格である。
  ◆「人世・・・の句」 :蘇東坡の「人生識字憂患如・・・・・」あり。

      08/11/13     石 九鼎