新安吏
 [原注]収京後作。雖収両京。賦猶充斥。
 京を収めて後作る。両京を収むと雖も賊猶を充斥する。杜甫、乾元元年冬末に華州を離れて洛陽に到る。二年洛陽より華州に帰る時、途上にて新安の吏と問答して此の詩を作る。此の詩より『無家別』に至る三吏・三別六篇は『垂老別』を除いて同時の作。前後の事情は以下の如し。官軍は至徳二載九月癸卯に長安を回復し、十月壬子に洛陽を回復する、翌乾元元年に賊安慶緒が勢いまた振るい、相州(?城)を成安府とする。九月に郭子儀に詔して李光弼等九節度の兵、凡そ二十万を率いて安慶緒を討たし之を相州に囲む。二年三月安慶緒は救いを魏州の史思明に求める。官軍利あらず、南に向かって潰え、緒節度の軍が引いて還る。郭子儀は朔方軍を以て河陽の橋を断ち洛陽を保ち、南北両城を築いて之を守り、詔して東都に留守させる。此の詩中の兵卒は新安より募集され洛陽の郭子儀が軍へとやられる。

客行新安道。喧呼聞点兵。   客行く新安の道,喧呼兵を点するを聞く
借問新安吏。県小更無丁。   新安の吏に借問す,県小にして更に丁無し
府帖昨夜下。次選中男行。   府帖昨夜下る,次選中男行く
中男絶短小。何似守王城。   中男絶はだ短小なり,何ぞ似て王城を守る
肥男有母送。痩男獨伶俾。   肥男は母の送る有り,痩男は獨り伶俾たり
白水暮東流。青山猶哭声。   白水暮に東流する,青山猶を哭声
莫自使眼枯。収汝涙縦横。   自ら眼をして枯ら使むる莫れ,汝が涙の縦横たるを収めよ
眼枯即見骨。天地終無情。   眼枯れ即ち骨を見ず,天地終に情無し
我軍取相州。日夕望其平。   我が軍相州を取る,日夕其の平なるを望む
豈意賊難料。帰軍星散営。   豈に賊の料り難きを意んや,帰軍営に星散す
就糧近故塁。練卒依旧京。   糧に就き故塁に近ずく,卒を練り旧京に依る
掘壕不到水。牧馬役亦軽。   壕を掘るも水に到らず,馬を牧するも役も亦軽し
況乃王師順。撫養甚分明。   況んや乃ち王師の順,撫養甚はだ分明なり
送行勿泣血。僕射如父兄。   行を送るも血に泣くこと勿れ,僕射は父兄の如し

訳文
私が新安の道を通って行くと,やかましく人の声がする,兵の点検が始まっている様だ,どんな次第かと新安の小役人に聞くと,「この県は小さくて,この上はもはや壮丁として取るべきの者はいません。昨夜府から兵籍が下って来ましたが,そんなわけで,第二位の若者を選ぶので「中年」が今後行くのです。」と言う。
そうであったか,見れば中男はひどく痩せて身丈も絶はだ短かく,身なりもよくない。こんなことで王城を守れるのだろうか」中年の中には肥えた男がいるが,それは母が見送りに来ている。また痩せた男がいるのは獨り者で寂しそうに見える。道端の渓流が暮れ残る白い光を浮かべて東に向って流れ行くのに,あたりの青山には見送る人々の哭き悲しむ声がまだ絶えず響いている。みなさんは,そんなに泣いて自ら眼を枯し尽くさぬがよい。そのように乱れ落ちる涙を収めなさい。

例え泣きからして,骨が出るようになったとしても,この天地と言うものは,つれないもので,致し方ないものだ」。我が官軍は賊軍から相州を取るというので,朝晩其の平なるを待っていた,それに意外にも賊の力は予想し難たく,彼等が勝つたため我が九節度等の軍隊は,それぞれ帰軍営に星散するようになった。そのうちで郭僕射の軍隊は此れまで通りで糧に就きもとの都(洛陽)を根拠として訓練をさせるのである。

壕を掘ることも有るが水の出る所まで深く掘るというのではない。馬を牧するも言っても軽い業にすぎない。そのうえ賊軍と違い官軍は道理の順当な軍隊で,兵卒を大事にして養うてくださる事は疑いないことである。だから皆さん方も自分の子供の出征を見送るにしても,血の涙を流すには及ばない。総司令官の郭僕射は彼等にとっては父兄のように慈しんでくださるお方である。