詩体  斉梁体  斉・梁両朝の諸家の詩。

斉梁の二国を通じておよそ八十年の世は南朝(宋・斉・梁・陳)が中心勢力を為していた時代である。
実に斉梁は南朝文化の最高潮に達した時期だと言うべきである。思想的には儒教老荘の他に佛教の興隆。芸術的には謝赫が気韻生動,骨法用筆の六法を唱え,画論の先鞭を付けたのは此の斉の時代である。

魏晉の頃から音韻学が起こり,佛教伝来の影響で,反切法は全く之に則つたものであるが,次第に佛教が盛んになるにつれて,声韻の研究も一層進歩し,周顒が平上去入を以て四声と為し,之を以て韻を制し『四声切韻』なる書を著はし文章の諧協を貴ぶようになったのも,齊の永明時代である。

梁に及んでは梁の武帝,簡文帝,元帝の外,沈約,江淹,范雲,任昉,呉均,何遜,庾肩吾,等そのほか幾多の詩人が現れた。殊に沈約は周顒の説を祖述し,「四声譜」を著し四声八病の首唱者として名高い。その他に鍾嶸の『詩品』が出て文芸評論のいとぐち,が開かれ劉勰の『文心彫龍』が出て修辞学が益々精密となった。斉と梁とは時代が接近していて二代に渉って生存していた人物も少なくないので,厳滄浪も斉梁両朝の詩家の詩を斉梁体と言って一時期の詩風と見做して取り扱っている。

斉梁体の特質は排偶駢儷体の巧妙と音韻声律の諧協とによって,辞句を修飾し極致な優美を表現をしようとする,点にある。後世六朝の淫哇と排斥されたのは専ら此の斉梁体であるが,初唐時代まで深い影響を与え,初唐の四傑と言はれる人達までが此の気習を脱することが出来なかった事実は,如何にその勢力が根強く関わっていたことを立派に証拠立てている。

芸術の花は何時の時代に於いても必ず文化が爛熟した時に開く,六朝時代,殊に南朝の文化が絶頂に逹した此の斉梁に於いて,唯美的の傾向が文学を支配し,華麗艶冶の文学を産出したのは当然の結果と言える。我が国の徳川時代の文化爛熟期に元禄文学が勃興したことを回顧すれば思い半ばに過ぎるものがある。

梁に於いて最も驚くべきことは一代の中に武帝,簡文帝,元帝の三帝の名手を出したことである。魏の宋室に於いて三曹(曹操,曹丕,曹植)の名手を出した外,例を見ない事実である。武帝は卽ち竟陵の八友の一人である蕭衍である,彼は文武兼備,英才逹識の人物で,精力は絶倫,非常に魏の曹操に似ている。万事微妙な時でも曾つて一日も読書を廃したことがないという。詩賦文章などは殆ど口を衝いて出る,筆を下せば万言立ち所に成る。「逸民」の詩は漢魏の古詩を読むようで,斉梁の風挌ではない。亦,武帝は晩年,侯景と仲違いを生じ臺城の宮中は囲みを受け糧食欠乏し五ケ月で遂に陥落した。

侯景は宮城に入って武帝に見え,武帝は盟の如く侯景を三公の位に就かせた。その時,武帝は年八十六歳。神色自若,侯景に向かって「あなたは,久しく軍中に在って苦労な事はなかったか,定めてお骨折りが多かったろう」と言って,宮城を囲まれた怨みは忘れたように,丁寧にその労苦を労った。侯景は恐縮の余り,仰いでいで視る勇気も失い,ただ汗が背中から,だくだく流れて返答も出来なかった。宮中を退いた後,侯景は人に向かって
 「俺は馬に乗って敵と戦争の真最中でも弓矢を懼れる事は殆どなかった。然し,今日,宮中で蕭公に拝謁して自然と懼れを懐いた。何んと天子の御威光と言うものは,犯し難いものである。俺は二度と,こんな偉いお方に会うという事は出来まい」と語ったと言はれている。此の一つのエピソード見ても如何に武帝が人傑であったかが解る。

然し武帝の文学上の功績は帝自身の文芸作品のみでは論ぜられない。帝王として文学を奨励した,その功績が寧ろ偉大である。帝は国学を建て生徒を増し,五館を開いて五経博士を置き,儒学の復興を企てた。且つ屡々竟陵の七友は勿論,その他多くの文学者を華元殿,文徳殿等に召し,恩賞を下賜したことも少なく無い。故に四方の士は皆な風を聞いて起ち,競うて都下に雲集するように成った。梁が上は宋斉,下は陳隋に比べ,文学上,卓然一頭地を抜き特別の光彩を放つているのも決して偶然ではない。まして帝には昭明太子,簡文帝,元帝などの文学に秀でた皇子達が有り,能く父の遺風を継ぎ,文選の進歩に貢献した,故に一層の光輝を発した

昭明太子
は武帝の長子で名は統,字は徳施と言った。昭明はその諡である。天才江英俊,読書文学を好む,陸(亻+埀)・王筠・劉孝綽・劉勰などを引導し古今の文学を商確(牽きくらべる)して,後に文選楼を築いて劉孝威・庾肩吾等と文選三十巻を選んだ。文選は三十九種の文体に区別され,魏晉以後の文章の菁華を采った,之は総集の嚆矢(物事の始まり)である。隋唐以来文選の流行は非常なもので文選学は一科の学術として専問に研究されるようになった。その後世を裨益(役立つこと)した效果は顕著なもので,実に昭明太子の卓見である。詩を学ぶ人は,此のような事情をよく呑み込んで是非読んで置かねばならない書籍である。

簡文帝
は武帝の第三子で,昭明太子の同母弟である。昭明太子が死去したので嗣いで皇太子となり,終に帝位に即いた,簡文帝も又文学を好み文学の士を引いて倦む事無く,常に篇籍を討論したことは,兄昭明に譲らなかった。然し彼は文学に熱心では有ったが,詩は最も艶容を好んだ,艶詩は男女相思の情を歌うと言うより,閨房に関する題目を,遊戯的気分で綺麗な文字を以て製作したものに過ぎない。因って此の詩風を宮体と名ずけた。彼は更に徐陵に命じて『玉台集』を編纂させた,此の集は多く脂粉に関したもので,最も靡麗な作品のみを採つた蓋し玉臺集は極めて当時の風潮を代表したものと言える。清の『沈徳潜』は言う;
詩は蕭梁に至りて君臣上下唯だ艶情を以て娯とし,温柔敦厚の旨を失い,漢魏の遺音蕩然として地に掃えり』と。風儀の頽廃と,詩風の靡麗とは互いに相反映して益浮文弱の風が起った。この風潮は陳に入って益々甚しく,淫蕩な陳の後主の喜ぶ所となり,
玉樹後庭歌】のような艶曲を作り,孔都官,江総,等の諸狎客と倶に相唱和し,流連荒亡,遂に社稷を傾けて天下の笑いを招いた。故に唐初の「虞世南」は此の様な綺艶な詩を非常に嫌って排斥した。

元帝は武帝の第七子である。七歳の時に湘東王に封ぜられた。兄弟が文学に熱心で有った爲に帝も非常に詩文を愛した。然し元帝の詩は,概して軽艶で更に雄渾の風が無いのが通説として古今作詩専門家以外にも知られている。やはり宮体の亜流である。
侯景が叛いて簡文帝が弑せられた時,帝は王僧辯を遣わして之を討誅し,位に江陵で卽いた。承聖三年十月の事である。西魏の輔弼の臣于謹が江陵に迫った時,帝は尚を群臣を集めて「老子」を講じていたので,忽ち包囲され落城してしまった,因って帝は古今の図書四十万巻を焼き,宝剣を柱に打ち付けて之を折り 【
文武の道は今夜限りで尽きてしまった。】と大息し,悲憤の涙を揮って魏軍に降伏し殺されてしまった。

帝は分籍を愛し博学の人であったが,一眼が眇(すがめ)で性質は残忍で,人を殺すことは平気で,至って宜しからぬ人物だった。故に自分の最後も亦悲惨そのものであった。梁では宗室文学の外に更に沈約,江淹,何遜の三大家が当時鼎立して天下に雄視していた。
沈約は字は休文と言った。呉興武興(現在の浙江省呉興県。)の人である。左の目が重瞳子。とは【舜が瞳が二つあったとされており「史記」には項羽もそうで舜の末裔かとも称されている。 医学的には瞳が二つと言うのは「瞳孔膜遺残」として知られている胎生期に消失して丸い瞳孔を作るはずの瞳孔膜が残ってしまい二 ツの黒眼がある,歴史上実際には重瞳子は只だ四人:倉頡、虞舜、項羽、李煜。の名が有る。】聡明は人に過ぎ博く墳籍に通じ,典故に精しかった。故に聚書も二萬余巻に上ったと言う。

彼の一生涯は宋,斉,梁の三代を通じている。宋の時には蔡興宗が引いて記室参軍とした。斉の時には太子の家令となった。「
沈家令」と言うのは此の理由である。以後は吏部郎に遷り出て東洋の太守となった。明帝が召して國祭酒,司徒左長史,五兵尚書,とされ,梁の時には,武帝が禅を受けるに及んで,佐命の功臣を以て尚書僕斜に遷り,建昌県侯に封ぜられ,尚書令に遷った。侍中詹事は此のように,次いで特進を加えられ,逝去してから諡を隠侯と言った。

彼は宋・斉・梁と言う易姓革命の時期に,よく世に處し禍を免れ,却って益々榮誉の地位に進み天寿を全うしたのは,彼が如何に交際に巧みで聡明な人物であったかを証拠だてている。謝眺の詩と任昉の文は斉梁を通じて双絶との定評であったが,彼はこの二人の長所を兼備し,辺幅闊く詞気厚く,尚を漢魏の遺音を存し。彼が「
四声譜」を著したのは,詩学上に於いても,文学史上特筆すべきで功績がある。更に彼の著作は晉書,宋書,斉書,高祖紀,宋文章志等の数百巻に上っている。詩文の大家として著作の多い事は六朝三百余年,彼の右に出る者は無いであろう。尚かつ彼が後進を推奨したのは,大いに文学を進歩させた,王筠,張率,何遜,劉孝綽,呉圴,劉勰等は皆な彼の推挽(※引き立ての意)の賜物である。

江淹
は字は文通と言った。済陽江城の人である。沈約と同じく,宋,斉,梁の三朝に歴任した。宋では建平王の景素が引いて鎮軍参事とした。廃帝義符が失徳が多いので景素が兵を挙げようとした。江淹は屡々此の事を諫めたが容れられず、遂に退けられ呉興の令と為った。斉になって高帝から召し出され,史館に入り中書侍郎に拝せられた。明帝の時に秘書監衞尉卿に累遷した。梁になってからは散騎常侍となり金紫光録太夫に至り,澧陵県侯に封ぜられた。天監四年病死し享年六十二歳であった。

江淹は文章を以て顕はれたが,晩年に才思微しく退いた,との評判であった。その理由は彼が斉の時代に宜城の太守の時代に官を辞して家に帰り,一夜,張景陽と言う人が,やって来たことを夢みた。景陽は淹に向かって「僕は君に以前一匹の錦を預けて置いたから,今,返して貰いたい,ので此処まで来たのだ」と言う。淹は自分の懐を探ったら数尺の錦を得たので之を与えた。その時,景は大変怒って「何でこんなにメチャメチャに君は裂いて破ったのだ!。実に失礼千万だ。」と言って,傍にいた丘遅と言う男を顧みて,「此の余った数尺は,もう役にたたないから君に遣ろう」と言った。以来,淹の文章は躓いて進まなかったと言う。

又或る一夜,一丈夫が自ら「俺は郭璞である」と言って,やって来た。「僕の筆が君の處に数年間,預けてあるから,返してくれないか」と言った。淹は懐を探って五色の筆が一本あったので之を授けた。それ以来,詩を作っても一向に美句を得たことが無いと言う。そこで時の人々は錦の切地も五色の筆も,人から取り上げられ江淹の才が尽きてしまったのだ,と言った。然し彼の著作は数百篇あり,就中 「恨賦」,「別賦」などは著名なもので彼の人生観を巧に表現している。

何遜は字を仲言と言った。東海郯の人である。八歳で能く詩を賦した。弱冠で秀才に挙げられ,范雲がその対策を見て大に称揚し忘年の交わりを結んだ。梁の天監の頃,安成王の参軍事となり江州の府に隋従し,尚書水部郎を兼ねた。南平王が再び引いて賓客となし記室の事を掌らせた。王は彼を武帝に薦め,呉均と倶に寵幸されたが,稍や疎隔された。彼は曾て楊州へ法曹と為った時に,その官舎に梅が一株あり春星の群がる如く的々と盛んに開いた。

彼は常に其の范下に吟詠して愉しんでいた。後に洛陽に還ってから,其の梅花の事を思い出し,再びその任を請うて楊州に至った。花は丁度,満開の見頃であった。彼は花に対して余念無く終日彷徨していたと言う。此の様に風雅な人物なので杜甫もこれを興ある事として(東閣官梅動詩興。還如何遜在楊州)【東閣ノ寒梅詩興ヲ動カス。還タ何遜ノ楊州ニ在ルガ如シ 】と歌っている。

此の三家は経歴と性格がみな異なり,その詩に於いても又,短所,長所がある。その優劣は判断出来ないが,然し古来からの定評と言うべきものを挙げれば,沈家令は性情と声色は鮑謝には及ばないが,詞気古厚の点は自から漢魏の遺風があり,家令が有ったがこそ古音が世に亡びなかった。江文通は風骨は高くないが,五色の筆能く文辞を修飾し斐然章を成し燦然彩りを生ずる手腕は全く彼の独壇場の技である。何仲言は風骨に乏しいが,語浅く意深く其の宛転,丸を転がすが如き点は,沈,江,二家も及ばぬ所だと評されている。


此の三家の外に梁の作家といては王僧孺,王筠,劉孝綽,張率,到洽,丘遅,到漑,などは皆な竟陵八友以の名家である。事に何孫と劉孝綽は当時,已に何劉と並称されていた。梁の文学は朝野共に多士済々,実に六朝文学の全盛期と言うべきである。斉梁体と一口と言っても梁の詩体と見れば間違いない。文章も修辞も梁に到って精微になり大に進歩したが,それ以上に進む事が出来ず陳隋は梁の余波で却って退勢に就いた傾向が見える。要するに,斉梁体は古詩体から今体詩へ移る過渡期の詩風を現したもので,斉梁体の詩体と初唐の詩体を対照すれば,其の進化の跡が明白に解る。
一時期,中国,我が國の有名な文学士でも,ともすれば,六朝文学の眞價を解しないで,只だ復古的の思想で秦漢文学を尊重し,六朝文学をひどく非難するものがある,又,有った。これは公平正常な批判と見ることは出来ない。
屡々よく時代の文化と風潮を察して史的対照の下に六朝の文学を味会う心掛けが大切である。事実,以前,僕が属していた国立大學文学部の或る教授(
専門は地理学)曰く;「中国文学??。カビの生えた学問だ!」。こう言う輩が実際に現存して居た。新しい学問をやった人は,よく時代の文化と風潮を察して史的対照の下に六朝の文学を味会うの心掛けが」大切である

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