宣室志  
[一]盼」、原作「不」、遽 《広記》改 

 有呉生者、江南人、嘗遊會稽、娶劉氏女爲妾。後数年,呉生出宰於雁門郡、與劉氏偕之官 劉氏初以柔婉聞、凡数年、其後忽獷烈自恃不可禁。往往有逆意者、即發怒。毆其婢僕 或囓其肌、血且甚、而怒不可解。呉生始知劉氏悍、心稍外之。嘗一日、呉與雁門部将数輩獵於野、獲狐兎甚多、置包舎下。明日。呉生出、劉氏即轉入包舎、取狐兎、生啗之且盡。呉生帰,因窮狐兎所在 而劉氏俛然不答。呉生怒、訊其婢、婢曰、「劉氏食之盡矣」

【訓読】
呉(ご)生(せい)の者という有り、江南の人。嘗って會稽(かいけい)に遊び、劉氏の女(むすめ)を娶(め)とり妾(しよう)と爲す。後ち数年、呉は雁門郡の宰に出たり、劉氏と官偕(とも)にす。劉氏初めは柔婉(じゆうえん)を以って聞こゆ、全(すべ)て数年,其の後 忽ち獷(こう)烈(れつ)にして自(みず)から恃(じ)し禁べからず。往往にして意に逆(さか)らふ者あればち怒を發す。其の婢僕(ひぼく)を毆(たた)く 或いは其の肌を囓(か)む、血はながれ且つ甚(け)だし怒り解くべからず。呉生 始めて劉氏の悍を知り心 稍(やや)して之を外す。嘗って一日、呉雁門(がんもん)部将(ぶしよう)の数輩と野に獵(りよう)し、狐兎を獲(え)ること甚はだ多く、包舎の下に置く。明日,呉生 出ずる,劉氏 即(すなわ)ち 包舎(ほうしや)に 轉じ入り、兎を取りて、之を生啗(しようたん)し且つ盡くす。呉生 帰り、 因りて狐兎の所在ことを窮るに、 劉氏俛然(べんぜん)として答えず。呉生 怒り、其の婢に訊ぬるに、婢曰く、「劉氏 之を食い盡す」 と。


  【語注】
   ○ 呉(ご)生(せい)(氏名)。
   ○ 江南(地名)。唐代の道(どう).行政区画の名前。現在の江蘇省。浙江省.安徽省‥江西省のあたり。
   ○ 会稽(地名)。現在の浙江省紹興市。 
   △(成語)会稽之恥。敗戦の侮辱。(史記。越王句践世家).
   ○ 娶る=嫁にする。
   ○ 妾(しよう)=正妻以外の妻。そばめ。めかけ。
   ○ 宰=(一本に宰相(さいしよう)と作る。)1.官職。2.政教をつかさどる官吏。               
   ○ 雁門郡=関所の名前。山西省代県の北西の地。
   ○ 柔婉(じゆうえん)=素直で優しい。[北史・齊宣皇后傳]后性柔婉不妬忌、嬪御等、咸愛而仰之。
   ○ 獷=(こう)あらあらしい。乱暴。[後漢書、光武妃、又駆諸猛獣、注]=(訓注) 後漢書の光武妃に又 諸猛獣に駆      す、 注に猛。 或いは獷と作る、獷は猛貌(もうぼう)也。
   ○ 烈=はげしい。(淮.斉俗)若事厳主烈君(訓注=厳主 烈君に、つかうるがごとし)
   ○ 恃=自負する。(詩.小.蓼莪)=無母何恃(母がいなければ何を頼りにしよう)
   ○ 婢僕=男女の召使い。[白楽天.続古詩]豪家多婢僕。
   ○ 往々=つねづね。しばしば。
   ○ 逆意=人の気持ちにさからう。[荀悦・昌巴王論]「犯顔逆意」むほんの心。            
   ○ 悍=てあらい。[荀子・王制]=悍・凶暴。たけだけしい。てあらい[漢書・賈誼傳]雖有悍如馮敬者
   ○ 稍=ようやく。やや。
   ○ 外=がい。はずす。除外。
   ○ 輩=やから。                      
   ○ 包舎=料理をする部屋。
   ○ 啗=たん。食らう。[史記・高祖妃]噲抜剣、切而啗之。(噲 剣を抜き、切り之を啗う。)
   ○ 俛=めん。首をたれる。うつむく。
   ○ 俛然=めんぜん。ふし近づく[荀子・正名]俯就貌、謂俯近於人。(俯す貌に対し俯し近づく人を謂う)
   ○ 窮。突き詰め尋ねる。

【訳文】
  呉(ご)生(せい)(と言う)者が有り、江南の人、嘗って會稽(かいけい)に遊び劉氏の女性を嫁にする、(め)妾(しよう)と爲  す。後ち数年、呉生は雁門郡の宰(相)に  成る、劉氏とこの官を偕(とも)にする。劉氏は初めは柔婉(じゆうえん)(素直  で優 しさ)を以って聞こえた、凡(およ)そ数年,其の後 忽ち獷(こう) 烈(れつ)にして自(みず)  から、気概に任せて  振る舞い。禁じることができず。往往にして意に逆(さか)らう者がいれば、即く怒を發して、其の婢僕(ひぼく)を毆(たたい  たり、 或は其の肌を囓(か)む,血は且つ(け)甚だしく怒りを押さえることができず。呉生は始めて劉氏の凶暴さを知る。  心は稍して之に外す。嘗 って一日、呉生は 雁門(がんもん)部将(ぶしよう)の数輩と野に獵(りよう)し狐兎を獲(え)るこ  と甚はだ多く、料理部屋の下に置く。あけがた,呉生が出ると,劉氏 直ちに料理部屋に入り兎を取って生(しようたん   )啗し且つ盡くす。呉生 帰り狐兎の所在を問い正そうとした。 劉氏はふし近づく俛  然として答えず。呉生は怒り、其   の婢に訊ねると、婢は、「劉氏が食い盡す」 と謂う。

【宣室志】
  書名。十巻。補遺、一巻。唐 張讀撰。漢の文帝の故事により鬼  神霊異の事を記す。
○ 漢文帝=(前201ー前157)高祖の第二子。名は恆(こう)。諡(いみな)は文。呂  後の崩後、周勃(しゆうぼつ)等に迎    立せられて帝位に即く。誹謗(ひぼう)
  妖言(ようげん)の法、及び肉刑を除き敦朴(とんぼく)を以って天下に示した。
○ 周勃・原籍河南省原武県。后に江蘇省沛県に移る。周勃の家は暮  らしが貧しくて、編織(養蚕の時に使う簀子。葦  を織ってつくる) で生活をしていた。時には糊口をしのぐ為、、葬式があると簫を  吹き葬儀にしたがい、また材官とし  て強弓を引いた。秦末農民蜂  起後、劉邦のもとへ投奔した。建立後は赫赫と戦功を治めた。
  周勃の陵墓の前で車を降りた、陵墓とまでは言えないが確かに周  勃の碑が確認できる。手前で農夫婦が農作業中  だった、畦道を通り農夫婦に簡単な会話を交わしアングルの好い場所でカメラに収めた。戚夫人墓跡から車で10分程  度、やはり市街地の高台に鎮座 していた。
  周勃は性格が朴訥で剛毅、しかし誠実で戦功を自慢するような人  物ではなかった。劉邦は周勃には、大事を委嘱   できる、と信頼を寄せた。周勃は文事を好まず儒学者・遊説の士を召す時は、自ら東に座し賓客として待遇せず「だか   ら、なにを言いたのだ、用件  を言ってくれ」等を責めた。『史記・絳侯周勃世家』に伝える。
  周勃が燕を平定して帰ると、高祖は既に崩じて死に臨む前、委嘱  を留めて周勃に重任を委すとしていた。そこで列   侯として孝恵帝  につかえた。周勃の真骨頂は高祖亡きにある。それは呂后一派と  の駆け引きである。しかし、周  勃・陳平らは呂氏一族の排除に15  年間待った。辛抱の時代であった。周勃は軍に対して有名な命令発した『呂氏   に味方して働きたい者は右袒せよ。劉氏に働きた者は左袒せよ』軍の者、全員が左の肩をあらわにした。
  六十年代、考古学者は長陵の陪葬墓附近で大量の陪葬坑を発見した。坑内から3000余の陶人、陶馬を土出した。    70年代初期この墓の発掘調査を5年の長きに進めた。墓の規模は巨大で構築は複雑、西漢帝陵陪葬墓中を代表する  ものと解た。
  この陵墓は長陵東部に位置し、今.咸陽市秦都区肖家村郷楊家湾村北。この地を見れば『水経注』中記載の周勃或   いは周亜夫婦とするのが当然であろうと思われる。
○ 中国怪奇物語=神仙編。『雁門山の仙女』唐「広異記」。
   唐の開元年間、五台山に旅の僧が大勢隠っていた。代州の都督は僧達が不穏な動きを心配して僧の全てを五台山   から追放したが、法郎と言う僧が独り雁門山の奥深くへ分けは入った。谷の奧に人出入り出来る程の洞窟があった。   数百歩進と森があり、草葺きの家があった。女が幾人か住み、僅かに葉で身を包み美女揃い。女達はビックリして法   郎に「お前は、何者か」と尋ねた。「わしは人間だが・・」女達は笑いだし「そんな奇妙な格好の人間がいるものですか   」「お前達こそ、その格好は何だ、女のくせに裸同然の格好して、わしは、そんな姿を見ても惑わされはしなぞ、仏に    仕える身だからな」「何の事だか解りません。仏などと言うこと聞いたことがありません。私達は秦のもので、蒙恬将    軍に連れ出されて万里の長城を築いたのです。苦労に絶えられなくて此処まで逃げて来た、隠れていました。食べ物   が無くて、草の根をたべ  て、それが仙草で、私達は不老不死の身になったのです。それから、何年経ったか解りま   せん」秦と言うと一千年近く前の世であ  る。法郎は道に出たが迷い、幾ら探しても洞窟の有りかは無い。

     (石 九鼎)