詩体・建安体

漢末の年号で,魏の曹子建父子及び鄴中七子の詩。

建安は後漢献帝の年号で二十五年間継続した。三国鼎立の際に於いて,魏と蜀とは何れを正統とすべきかは歴史家の間に議論のある所で,晉の陳壽の三国志は魏を正統としている。
 魏は四紀二十六列傳
 蜀は十五列傳
 呉は二十列傳。すべて六十五巻

然し,明の劉剡之は宋の少微の江氏の通鑑節用と,宋の朱文公の網目により蜀を正統としている。元の曾先之の十八史略も亦後説に依っている。政治的には,蜀を正統とすべきであるが,文学的には魏を以て漢の正統を継続したものだと言うべきである。

魏は実に文学史上に偉大な役割を演じている。殊に曹操の中国文学史に於ける功績は大である。大体,魏の文学と言えば鄴中七子によって代表されているが,然し此の七子の文学を操縦したのは曹日,曹植の兄弟の力で,之を陶冶したのは,やはり曹操である。故に魏の文学と一口に言えば,曹氏一門則ち三曹の文学と称しても善い。

実に曹操は建安文学の創始者で六朝文学の開拓者である。詩を学ぼうとする者は建安の文学を疎かにすべきでは無い。

 曹操の詩は独特,獨り抜きん出ている。気魄の充ちた悲壮,激越な調子は読む者を圧倒する。
 曹操(154~ 220 )三国の魏の武帝。字は孟徳,政略にとみ,詩文にすぐれていた。後漢の献帝の時,功に丞相となり,魏王に封じられた。

   秋風辞   武帝 [劉徹]
秋風起兮白雲飛              秋風 起こりて白雲 飛び
草木黄落兮雁南帰            草木 黄ばみ落して雁 南に帰る
蘭有秀兮菊有芳             蘭に秀あり菊に芳有り
懐佳人兮不能忘             佳人を懐いて忘るる能はず
汎楼船兮済汾河             楼船を汎べて汾河を済り
横中流兮揚素波             中流に横たはりて素波を揚げる
簫鼓鳴兮発棹歌             簫鼓 鳴りて棹歌 発す
歓楽極兮哀情多             歓楽 極まりて哀情多し
少壮幾時兮奈老何           少壮 幾時ぞ老を奈何せん


鹵莽解字
此の歌は「楚辞」の「九歌」にある神女を祭る歌の類の影響を受けている。此の時の行幸は仙女信仰の爲のものであった。武帝四十四歳。(史記・本紀)
     
此の気象が健邁雄渾で風雅の遺音を備えた所に建安体の特色がある。

曹植も亦非常に乃父に似ていて,才藻が宏富,気骨が雄高,魏一代の大家と言うばかりでなく,六朝を通じて第一位に立つ人物であろう。。[鐘嶸の詩品]に[陳思の文章に於けるや,例えば人倫の周孔あり,鱗羽の龍鳳あり,音楽の琴笙あり,女工の美しい文章を例えるが如し]と言う。

曹丕は乃父の悲壮慷慨という風は更になく,女性的に多情多涙で,其の詩調は便娟婉約,巧みに人情を写している。
丕,則ち文帝からは全くの魏音である.。故に厳滄浪は自注に[魏の曹子建父子及び鄴中七子の詩
書いて曹丕の詩を除外している。鄴中の七子とはこ孔融・陳琳・王粲・徐幹・阮踽・応瑒・劉楨のことである。
鄴は魏の主都であるから,このように呼ばれたのである。亦,時代的に建安の七子とも呼ばれる。此の七子は当時の詞苑に非常な光彩を添えた人々である

鄴中七子  
王粲。劉楨。陳琳。阮[阝+禹]。徐幹。[广+焦]瑒。孔融。
  
 鄴中七子の参考賦(文選より伐推)

王粲(仲宣)。【謝希逸,月賦。】抽筆進牘(ふだ),以命仲宣。仲宣跪而称曰,
       
筆を抽き牘(ふだ)を進め,以て仲宣に命ず。仲宣跪きて称して曰く,

劉楨(応劉)。【謝希逸,月賦。陳王初喪応劉,端憂多暇
       
陳王初めて応劉を喪い,端憂して暇多し

阮[阝+禹](げんう)【潘安仁。寡婦賦 荓序】。・昔阮(阝+禹)既没,魏文悼之,並命知旧作寡婦賦。
        阮(阝+禹)が死んだ時,魏の文帝はそれを悼み何人かの知人に命じて「寡婦の賦」を作らせた。




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