詩体・正始体

   魏の年号で,嵇康,阮籍諸公の詩。
魏晉以後の思想界は儒教主義を棄て老荘主義に転向したが,西晉の五十年の世は最も此の色彩を鮮明にしている。後漢が儒教の礼文の縄墨を以て人間を極端に窮屈な範囲に束縛しようとしたから,反動的に魏晉に於いては、無為自然を主とする老荘の思想が歓迎せられる素因をなした。

更に西方より佛教の輸入は次第に多くの人に,儒教に嫌われないような感じを抱かしめ,皆な佛教と共通点を有する老荘に親ましめ,終に老荘の哲学思潮は概して当時の学者,思想家,詩人,文人を動かした。竹林の七賢人が魏晉革易の多故の際に於いて巳に大勢力を扶植し,天下の人心を風靡したのは最も顕著な実例である。

竹林の七賢とは 山濤,阮籍,嵇庚,向秀,劉伶,阮咸,王戎の七人である。是等の人物は固より済世の志が無かったのでは無いが,禍害の身に及ぶことを怖れ老荘虛無の学を崇び,礼法を軽蔑し縦酒昏酣,放逹を愉しみ,清談に耽り超世的の態度を取った。

七賢は決して文学を以て自ら任ずるものではない,が。然し嵇庚,阮籍は文学的に傑出したもので文学史から見逃すことの出来ない人物である。

嵇庚の辞は清峻,阮籍の長所は遙深とされている。嵇庚の「幽憤詩」は能く真情を流露した心の声として知られるところである。

阮籍の「詠懐八十二首」も詠ずる所は魏室の衰頽を悲しみ,司馬氏の簒奪の陰謀を傷み,自己の鬱積の胸懐を湾曲に訴えたものである。此の詠懷詩は其の源は離騒から出で,意は小雅から得たものと知られるところで,怨誹して乱れず,実に古詩十九首以後の大文章として有名なものである。

唐代の陳子昻の「感遇」,李白の「古風」などは皆なこれに基づいている。後世,庚,阮を始め竹林の七賢人の詩風を称して・正始体と言っている。正始は廃帝齊王芳の年号で九年間続いた。

   詠懐詩 其の一   阮籍
夜中不能寐     夜中 寐ぬる能はず
起坐弾鳴琴     起坐して鳴琴を弾ずる
薄帷鑑明月     薄帷に明月鑑り
清風吹我襟     清風 我が襟を吹く
孤鴻号外野     孤鴻 外野に号び
翔鳥鳴北林     翔鳥 北林に鳴く
徘徊将何見     徘徊して将た何をか見る
憂思獨傷心     憂思して獨り心を傷ましむ

 
事に応じ,物に接し,景に触れて,感慨を詠した詩である。李善は顔延年の語を引いて司馬昭の革命に際し,常に禍の及ぶを憂慮してこの詠懷詩を作ったと説く,何れも五言である。 第一首は,李善の注によれば,乱事の際,一時期,仕えた作者が譏りにかかり,禍に遭う事を怖れて作ったというが,必ずしも一身のためのみでは無いと言う見方もある。乱世の常として,権力におもねり,勢力を扶植し,人情を無視する時勢を憤怒し,孤独者の憂慮する思いを発したものである。

嵇康,阮籍の二人は七賢人中の領袖に属し最も異彩を放ち,裴楷は阮籍を評して方外の士という,鍾會は嵇康を評して臥龍だと言った。二人は同じく奇行に富み脱線的な行為が多いが,寧ろ嫉俗睨世の余に出た結果ではないか,と思われる。

阮籍は逃晦術に巧妙であった,故に禍を免れ魏の景元四年に五十四歳の天寿を全うし世を終わったが,嵇康はチョットした事で穎川の鍾會の感情を損ない,爲に讒言せられ甘露三年に司馬昭に殺された。嵇康が東市に於いて刑される時,大學生三千人が,師と成す。と助命を請うたが許されず。

嵇康は死に臨み日影を顧みて,琴を求め弾じ,『広陵散,今に於いて絶える。』と言った。時に年四十であった。海内の士,之を聴いて皆な痛惜しない者はいなかった。彼らが当時の社会の人士に如何に尊重されていたかが解る。昭も亦,刑したことを後悔した,と言う。嵇康,阮籍二人の性行は 『蒙求』 に出ている。


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