詩体の研究 詩経 楚辞

【詩経と楚辞】中国文学のあけぼのは『詩経』から始まる。それには紀元前1000〜600年ころの作品が集められており,「風」「雅」「頌」の三部より成るが,その中で主要な位置を占めるのは「風」である。「風」は周時代における諸国の民謡である。いかにも民謡らしく素朴な表現の中に人間の心理や情緒が素直にうたわれていて読む人に感動を与える。農村生活のいろいろな場面が詩の素材となるが,恋愛やお祭りがその主要なテーマである。一般に即興的にうたわれたものである。その表現法は極めて単純素朴である。表現法として特徴的なものには対句法とリフレイン(繰り返し)があり,当然のことながら押韻は原則として守られている。一句は普通四言であり,一編は四句ないし六句から成る。

中国文学黎明期の二大作品として『詩経』と並び称せられるものに,『楚辞』がある。『詩経』が黄河流域に生まれた
北方文学であるのに対し,『楚辞』は揚子江流域に生まれた南方文学である。紀元前300年ごろ,楚の国の屈原によって書かれた朗誦の文学であり,巻頭に置かれている「離騒」が代表的作品である。激しい感情をベースにした長編の抒情詩であり,幻想的・超自然的な内容をもつ。神々の祭祀を職とする巫と呼ばれる人たちのつくりあげた宗教文学を,正統な文学に高めたものである。

【辞賦】 楚辞から起こった文体で韻文が散文化したものを辞賦と呼ぶ。略称では賦と呼ばれる。漢代には賈誼・枚乗・司馬相如の如きすぐれた賦の作家が輩出した。なかでも相如の「子虚の賦」や「長門の賦」などはとくに有名である。〈賦とは敷陳なり〉と言われ,もともと文辞を敷き述べる意味である。『文選』は作品分類の最初に賦を置き,作品の叙述内容によって郊祀・田獵・紀行・宮殿・鳥獣等14類に分ける。『文体明辯』は古賦・俳賦・律賦・文賦の四つに分ける。
古賦は両漢の賦をいい,賦の本来的パターンを保持し,対句使用の比較的少ないもの。俳賦は六朝の賦をいい,内容的に情感に乏しく,対句使用頻度が高く修辞に凝ったもの。律賦は唐代の賦をいい,内容よりも形式が重視され,平仄を整え文辞を美しくしたもの。文賦は宋代の賦をいい,形式より内容が重視され最も散文化したもの。このように一口に賦といっても時代の変遷に伴い,その形式・内容にはかなりの変化がみられる。

 【陶淵明謝霊運】六朝時代に入ると陶淵明(365〜427)と謝霊運(385?〜433)の二大詩人が出る。二人とも現世に愛想をつかして山水を求めた自然詩人である。しかし二人の間には本質的な相違がある。陶淵明は自ら農耕もして田園の中に浸って農夫の生活を体験したのに対し,謝霊運は貴族の生まれであって,山水を跋渉したが,その山水はあくまでも鑑賞の対象であって外から眺めていたのであり,陶淵明のようにその中に没入することはなかった。

 陶淵明は中産階級の出身であるため,門閥貴族政治の当時の社会では,支配者階級には仲間入りできない運命にあった。宮仕えしても彼の人間としての純粋な気持ちは,虚偽や追従に満ちた役人の世界に安住することを許さなかった。たとえ貧窮の暮らしであっても,田園の風物の中にあって自然を友として生きる方が,彼にとっては幸福であったと思えるのである。また彼は酒を愛する詩人であった。酒を飲んで陶然とした心境を詠んだ詩は格別味わいに富む。現世の名利への俗念を絶ち切った落ち着いた境地を単純素朴な筆致で描いた点で,中国文学史において卓然たる地位を確立した。

 謝霊運は名門貴族の出身である。しかし彼の人生航路も平坦ではなかった。そのことが彼を自然に親しませる原因ともなった。永嘉の太守に左遷されたことが江南の美しい風景を賞でる結果をもたらした。山水の美しさを客観的に緻密に描写しており,しかもその用語・表現は美辞麗句を用い修辞を凝らしている。

【古詩】詩経は一句四言であり,楚辞は一句の字数が長短入り交じり一定していない。ところが五言詩が
何時とは無しに定着した。五言詩の作品として『五台新詠』は
前漢の枚乗の作を載せ,『文選』は前漢武帝の時代の李陵・蘇武の作を載せるが,それらは皆な,偽作である。
しかし,
前漢時代に五言詩が芽ばえつつあったことは事実である。『漢書』に見える「戚夫人の歌」や李延年の「佳人の歌」などはそれを証明する。それらは完成された五言詩ではなく過渡期の五言詩である。班固の「詠史」詩は,東漢時代に五言詩が正式に成立したことを証明する。班固の後に張衡・秦嘉・サイヨウ※注1※らの五言詩が続々書かれ,五言詩は芸術的に発展を遂げ,サイヨウ※注1※死後の建安のころ成熟した。

 五言は『詩経』の四書に比べてわずか一字を増すだけであるが,一句の表現内容に屈折が生じ深味が出て,不思議なくらい表現効果が高まる。それ故に,一度,五言詩が出現すると魏晋南北朝を通じて詩壇の主流となった。五言詩の成熟期の代表作に古詩十九首があるが,これは無名作家の作品である。平易で質朴な用語を使いながらも,内容的には深味があり読者に感動を与える。
それ以前の作品と比べると,作者の人生に対する内省や洞察も深まっており,戦乱の世を生き抜いた平凡な市民の心の底から湧き出る哀歓がよく描かれている。

楽府(がふ)】楽府とはもともと音楽取調所の意味である。その後その役所に集められた歌のことを言ういうようになり,さらに後世ではそれに模倣してつくられた歌も楽府と称するようになった。すなわち音楽の伴奏によって歌われる詩を楽府と呼ぶのである。漢の時代の古楽府から唐の時代の新楽府まで,体裁・内容の両面で変遷がある。漢の楽府の代表的作品としては先ず「艶歌羅敷行」が挙げられる。
これは羅敷という美女の凛然たる貞節を謳歌した戯曲風の歌である。次には「焦仲卿の妻のために作る」が挙げられるが,これは新婚の妻が姑のひどい仕打ちに堪えかねて縊死し,夫もその後を追うという家庭悲劇をテーマにしたものである。前者は中編,後者は長編の違いはあるが,ともに五言詩である。

 西晋が滅亡してから,漢民族の文化の中心は江南に移り,北朝の文化は北方異民族のそれと混合した。北朝に生まれた作品に「木蘭の辞」という傑作がある。木蘭という女性が父親に代わって従軍し,12年の間女性ということを見破られず,戦功をあげて帰還するという物語詩である。以上三編はすべて叙事詩であるが,もちろん抒情詩も多く,中でも有名なものは「子守歌」である。短編の詩形によってこまやかな恋愛感情をうたっている。そのほか祭祀・宴会・戦争・葬送などの歌がある。

 【文心雕竜と作品】『詩経』の「大序」に早くも文学理論は見られるが,本格的なものは魏の曹丕の「典論論文」,曹植の文学論を述べた書簡などから始まる。しかしこれらとても未だ文学論の専著ではなかった。専著としては六朝梁の『文心雕竜』と『詩品』が最初である。この両書は時代の早いわりに優れた内容をもつ。

 『文心雕竜』はリュウキョウ※注2※の撰で五十編。文体論・創作論・批評論より成る。文学全般にわたって体系的に論じている点では,世界的に見ても注目に値する。リュウキョウ※注2※は仏教の研究者でもあったのでその理論ははなはだ哲学的であり理路整然としている。当時は駢文の流行した時代であり,文章は内容より形式の重視された時期であるが,リュウキョウ※注2※は形式・内容の両全を求めた。彼の文学論の基本的立場は儒家の古文派であった。文彩の必要性は認めたけれども,根本は情性にあるとして文質兼ね備える文章を嘉とした。

 『詩品』はショウエイ※注3※の撰で三巻。漢から梁に至る詩人120人の五言詩を上中下の三品に分けて品評し,それぞれの詩人に対し簡単にして要を得た評語を付している。ショウエイ※注3※の大きな目的は作家と作品の流派を探ることであった。そして文学が変遷し発展することを明らかにしようとしたのである。彼は性情の流露を第一義とし,過度に典故を使用することを排斥した。また音律の面でも自然のリズムを尊重し,人為的な規制をすることを嫌った。

杜甫李白】中国の歴史に於いて高峰をなすのは唐詩であり,その中でも盛唐の詩がひときわ高く,さらにその中で最高峰をなすのは杜甫(712〜770)と李白(699〜762)である。二人はほぼ同じ時期に生きているが,李白が一まわり年長である。二人の詩はその生きざまが違うように特徴も異なる。

 杜甫は初め長安に住んでいたが,安史の乱に遭って一時軟禁されたこともある。その後鳳翔に蒙塵していた粛宗のところへ行って下級官吏として宮仕えしたが,間もなく官を辞して諸国流浪の旅に出た。秦州・同谷を経て成都にいき,そこで地方官僚を勤めた後,長江に沿って下る途中病死した。
李白の詩が高踏的脱俗的であるのに比べ,杜甫の詩は政治的・現世的である。その詩は支配階層の腐敗を非難し,一般庶民の困窮に同情し,ヒューマニズムに根ざし正義感に富み,読者に訴える迫力をもつ。後世,杜甫の詩は「沈欝頓挫」と評される。この評語は詩の内容に深刻なものが多く,表現が凝っていて詩意の理解が平易でないことをいうものである。

 一方,李白は才能に恵まれた天衣無縫の詩人である。神仙的雰囲気の濃い人であり,その出生や流浪の様子についても不明確な点がかなりあるが,幼少のころは四川に住み,中年山東や金陵に寄寓したことは明らかである。彼は一生の間に任侠・隠者・酒徒・流浪者など実に豊富な人生経験を重ねている。
身後の名声よりも生前一杯の酒を愛し,自らを狂人と呼んだ彼であればそのような生き方をするのは当然のことであった。このような人間であったからその詩風もフキ※注4※奔放であり,明確な個性を打ち出し,旧来の規律に拘束されないで自由自在に情感をうたいあげた。そのことは楽府の分野においても同じであり,郷愁や閨怨を歌って絶妙の作品を書いた。また諸国を流浪する間に各地の景勝をすぐれた筆致で描写し,山水に対する愛惜の念を吐露している。

【志怪小説と伝奇小説】中国では早くから優れた歴史が書かれ,それが小説の代わりの役割を果たしたので小説の発達が遅れた。たとえば『史記』の「列伝」には小説以上のおもしろさがある。小説の始まりは六朝になってからであり,いわゆる志怪小説と呼ばれるものがそれである。『晋書』の「列伝」にも小説まがいの記事が頻出し,その点からいえば歴史と小説との間にまだ明確な一線が画されていなかったのである。

志怪というのは文字どおり奇怪なことを志(しる)すことであり,合理的判断では理解できないような不思議な話のことである。たとえば,ある男が幽霊をつかまえたところ羊に化けたので,その幽霊がこわがるという唾(つば)をつけて売りとばしたとか,思いを寄せていた男が出征し,他の男に嫁いだ女がふさぎこんで死んだが,後日前の男が帰ってきて墓の前で泣いているとその女が生き返ったとかいうような話である。このような説話は中国本来の民間伝説に道教思想や印度から渡来した仏教思想がミックスしてでき上がったのである。

 志怪小説はプロットがはなはだ簡単であったが,唐代の伝奇小説になるとその構成もかなり複雑になり,したがって志怪小説が短編であったのに比べ,やや長編になってくる。作者の意識も単なる話柄のメモから脱して,小説を書こうという心構えになってきた。内容から分類すれば愛情小説・諷刺小説・歴史小説・義侠小説および志怪小説の五種になる。その中で愛情小説が代表的地位を占めており,流麗な筆致で才子佳人の離合を描き読者を感動させる。
たとえば「李娃伝」は落魄して女に棄てられた男が,ひょんな機会に父親にめぐりあい,ひどいせっかんを受けたがほうほうの体で逃げ出し偶然に,もとの女に出会う。女の激励によって科挙に合格し任官したところで父に再会し父の祝福のもとに二人がめでたく結ばれる,という筋である。唐代において伝奇の発達した背景には経済的発展という社会環境があり,それが小説の舞台となっていたことを指摘しておかねばならない。

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