詩体の研究 詩経 楚辞 【詩経と楚辞】中国文学のあけぼのは『詩経』から始まる。それには紀元前1000〜600年ころの作品が集められており,「風」「雅」「頌」の三部より成るが,その中で主要な位置を占めるのは「風」である。「風」は周時代における諸国の民謡である。いかにも民謡らしく素朴な表現の中に人間の心理や情緒が素直にうたわれていて読む人に感動を与える。農村生活のいろいろな場面が詩の素材となるが,恋愛やお祭りがその主要なテーマである。一般に即興的にうたわれたものである。その表現法は極めて単純素朴である。表現法として特徴的なものには対句法とリフレイン(繰り返し)があり,当然のことながら押韻は原則として守られている。一句は普通四言であり,一編は四句ないし六句から成る。 【辞賦】 楚辞から起こった文体で韻文が散文化したものを辞賦と呼ぶ。略称では賦と呼ばれる。漢代には賈誼・枚乗・司馬相如の如きすぐれた賦の作家が輩出した。なかでも相如の「子虚の賦」や「長門の賦」などはとくに有名である。〈賦とは敷陳なり〉と言われ,もともと文辞を敷き述べる意味である。『文選』は作品分類の最初に賦を置き,作品の叙述内容によって郊祀・田獵・紀行・宮殿・鳥獣等14類に分ける。『文体明辯』は古賦・俳賦・律賦・文賦の四つに分ける。 【陶淵明と謝霊運】六朝時代に入ると陶淵明(365〜427)と謝霊運(385?〜433)の二大詩人が出る。二人とも現世に愛想をつかして山水を求めた自然詩人である。しかし二人の間には本質的な相違がある。陶淵明は自ら農耕もして田園の中に浸って農夫の生活を体験したのに対し,謝霊運は貴族の生まれであって,山水を跋渉したが,その山水はあくまでも鑑賞の対象であって外から眺めていたのであり,陶淵明のようにその中に没入することはなかった。 陶淵明は中産階級の出身であるため,門閥貴族政治の当時の社会では,支配者階級には仲間入りできない運命にあった。宮仕えしても彼の人間としての純粋な気持ちは,虚偽や追従に満ちた役人の世界に安住することを許さなかった。たとえ貧窮の暮らしであっても,田園の風物の中にあって自然を友として生きる方が,彼にとっては幸福であったと思えるのである。また彼は酒を愛する詩人であった。酒を飲んで陶然とした心境を詠んだ詩は格別味わいに富む。現世の名利への俗念を絶ち切った落ち着いた境地を単純素朴な筆致で描いた点で,中国文学史において卓然たる地位を確立した。 謝霊運は名門貴族の出身である。しかし彼の人生航路も平坦ではなかった。そのことが彼を自然に親しませる原因ともなった。永嘉の太守に左遷されたことが江南の美しい風景を賞でる結果をもたらした。山水の美しさを客観的に緻密に描写しており,しかもその用語・表現は美辞麗句を用い修辞を凝らしている。 【古詩】詩経は一句四言であり,楚辞は一句の字数が長短入り交じり一定していない。ところが五言詩が 五言は『詩経』の四書に比べてわずか一字を増すだけであるが,一句の表現内容に屈折が生じ深味が出て,不思議なくらい表現効果が高まる。それ故に,一度,五言詩が出現すると魏晋南北朝を通じて詩壇の主流となった。五言詩の成熟期の代表作に古詩十九首があるが,これは無名作家の作品である。平易で質朴な用語を使いながらも,内容的には深味があり読者に感動を与える。 【楽府(がふ)】楽府とはもともと音楽取調所の意味である。その後その役所に集められた歌のことを言ういうようになり,さらに後世ではそれに模倣してつくられた歌も楽府と称するようになった。すなわち音楽の伴奏によって歌われる詩を楽府と呼ぶのである。漢の時代の古楽府から唐の時代の新楽府まで,体裁・内容の両面で変遷がある。漢の楽府の代表的作品としては先ず「艶歌羅敷行」が挙げられる。 西晋が滅亡してから,漢民族の文化の中心は江南に移り,北朝の文化は北方異民族のそれと混合した。北朝に生まれた作品に「木蘭の辞」という傑作がある。木蘭という女性が父親に代わって従軍し,12年の間女性ということを見破られず,戦功をあげて帰還するという物語詩である。以上三編はすべて叙事詩であるが,もちろん抒情詩も多く,中でも有名なものは「子守歌」である。短編の詩形によってこまやかな恋愛感情をうたっている。そのほか祭祀・宴会・戦争・葬送などの歌がある。 【文心雕竜と作品】『詩経』の「大序」に早くも文学理論は見られるが,本格的なものは魏の曹丕の「典論論文」,曹植の文学論を述べた書簡などから始まる。しかしこれらとても未だ文学論の専著ではなかった。専著としては六朝梁の『文心雕竜』と『詩品』が最初である。この両書は時代の早いわりに優れた内容をもつ。 『文心雕竜』はリュウキョウ※注2※の撰で五十編。文体論・創作論・批評論より成る。文学全般にわたって体系的に論じている点では,世界的に見ても注目に値する。リュウキョウ※注2※は仏教の研究者でもあったのでその理論ははなはだ哲学的であり理路整然としている。当時は駢文の流行した時代であり,文章は内容より形式の重視された時期であるが,リュウキョウ※注2※は形式・内容の両全を求めた。彼の文学論の基本的立場は儒家の古文派であった。文彩の必要性は認めたけれども,根本は情性にあるとして文質兼ね備える文章を嘉とした。 『詩品』はショウエイ※注3※の撰で三巻。漢から梁に至る詩人120人の五言詩を上中下の三品に分けて品評し,それぞれの詩人に対し簡単にして要を得た評語を付している。ショウエイ※注3※の大きな目的は作家と作品の流派を探ることであった。そして文学が変遷し発展することを明らかにしようとしたのである。彼は性情の流露を第一義とし,過度に典故を使用することを排斥した。また音律の面でも自然のリズムを尊重し,人為的な規制をすることを嫌った。 【杜甫と李白】中国の歴史に於いて高峰をなすのは唐詩であり,その中でも盛唐の詩がひときわ高く,さらにその中で最高峰をなすのは杜甫(712〜770)と李白(699〜762)である。二人はほぼ同じ時期に生きているが,李白が一まわり年長である。二人の詩はその生きざまが違うように特徴も異なる。 杜甫は初め長安に住んでいたが,安史の乱に遭って一時軟禁されたこともある。その後鳳翔に蒙塵していた粛宗のところへ行って下級官吏として宮仕えしたが,間もなく官を辞して諸国流浪の旅に出た。秦州・同谷を経て成都にいき,そこで地方官僚を勤めた後,長江に沿って下る途中病死した。 一方,李白は才能に恵まれた天衣無縫の詩人である。神仙的雰囲気の濃い人であり,その出生や流浪の様子についても不明確な点がかなりあるが,幼少のころは四川に住み,中年山東や金陵に寄寓したことは明らかである。彼は一生の間に任侠・隠者・酒徒・流浪者など実に豊富な人生経験を重ねている。 【志怪小説と伝奇小説】中国では早くから優れた歴史が書かれ,それが小説の代わりの役割を果たしたので小説の発達が遅れた。たとえば『史記』の「列伝」には小説以上のおもしろさがある。小説の始まりは六朝になってからであり,いわゆる志怪小説と呼ばれるものがそれである。『晋書』の「列伝」にも小説まがいの記事が頻出し,その点からいえば歴史と小説との間にまだ明確な一線が画されていなかったのである。 志怪小説はプロットがはなはだ簡単であったが,唐代の伝奇小説になるとその構成もかなり複雑になり,したがって志怪小説が短編であったのに比べ,やや長編になってくる。作者の意識も単なる話柄のメモから脱して,小説を書こうという心構えになってきた。内容から分類すれば愛情小説・諷刺小説・歴史小説・義侠小説および志怪小説の五種になる。その中で愛情小説が代表的地位を占めており,流麗な筆致で才子佳人の離合を描き読者を感動させる。 IE6 / Homepage Builder vol.4 http://www.ccv.ne.jp/home/tohou/inde |