先師 太刀掛呂山 草堂詩話 抜粋 (1)

安岡瓠堂氏について
安岡正篤氏の詩をとりあげることにした。プリントも前々日やっと用意して出席した朝方、紀伊国書店で『東洋の心』という新刊を見つけた。前月は目加田誠氏の『夕陽限りなく好し』を入手して漢学者の随筆の味をしめていたので、すぐ入手した。『童心残筆』が非常に好かったので、その再現をと願っていた。『王陽明研究』と『東洋倫理概論』を読んだ時のような感慨は得難い。『童心残筆』を読んで、氏が七律をもよくすることを知って、早速次韻して呈した、直ちに次韻もし且つ近製をも示された。そのうちに広島教育会館に講師に来られた時,自から講師室に入って天野雨石翁にお願いして紹介して頂いた。そのうち『東洋思想研究』も読ませてもらった。
戦後,呉市で講演の際にも旧を敘しあった。ただ遺憾なのは,僕が多忙にして師友會にも参加出来なかったことである。瓠堂先生の詩はとても情感に富んだ、いわゆる詩的情緒の豊かな詩であって、絶句、律詩ともに声調と内容とがよく融けあった美しさがある。専門の詩人でない人で詩を能くする人の詩が心を打つ。土屋竹雨氏も安岡氏は東大の後輩で、しかも漢文漢詩に関係した生き方をされるのだから、とても安岡氏を重んじられていた。僕が最初にあった時も「詩人を歴訪するのも好いが、安岡に逢っておけ」と言はれた。

(丁卯 五月)

詩語と文語
『釈大典』に「詩語解」・「文語解」があって、詩文助字に就いての研究がなされている。詩語と文語の区別といったものに就いて触れているものを見たいと思っていたが、伊藤東涯の『操觚字訣』に以下の文を見つけた。和文ではあるが、難かしいのでその趣旨をとって平易に書いておく。
・・・・・文章の中で正統な表しかたの熟語と、俗な熟語と言うものが有る。それはその熟語、語句に意味の違いが有ると言う訳ではない。叙事とか議論の文章にはこの熟語を用いるし、詩賦や語録ではこの語を用いると言うことがあるのだ。ただし、正史などでも会話の文には俗語を入れることもある。
阿堵(あと)・この、ここの」とか「寧馨・このような」というな六朝の俗語も晋史に出ているが、それは会話を本文に取り入れた時だけであって他のところには用いない。つまり俗語を用いると雅を破るからだ。
例えば舟一艘を「単舸」と表現するときは正史に用いてよいが、それを「孤舟」・「孤艇」・「孤蓬」などと熟し用いた時は、正史や議論文などには用いられないで、詩賦の語となる。この例で推して考えてほしい。これは今熟語で説明したが一字一字にもその区別がある。・・・・・・・。
(丙辰 一月)

詩語に就いて

服部承風氏の「初心者指導に就いての一提言」は大変面白いので紹介しておく。
・・・・表現の仕方に就いて大まかに二分して見ると
一、実際の景色を写すスタイル→直接表現
一、婉曲に表現するスタイル→婉曲表現
に分けられると思う。多くの作を見ると殆どが直接表現をしていて、婉曲な表現をしている人は少ない。そうして「いい詩が出来ない」と歎いている。よい詩にするために少なくとも そのものズバリの表現を避けて婉曲表現法を取り入れて詩に少しでも含蓄のあるものにして欲しい。『誰にも出来る漢詩の作り方。呂山詩書刊行会』から詩語を連ねて、”幽庭一夜早涼生”と作って、よくまとまった完作だと自分では思っている。成る程、二字、二字、三字の接続関係は破綻もなくまとまっているが、内容的には、それだけのことだ。この句は事柄が直接に表現されただけの事である。「事柄」ではなく「心」を表現して欲しい。此処に「言葉の魔術師」たる所以がある。”早涼生”と説明せずに涼感を出したい。
  ”満庭風露滴衣襟”。とすることによって、ぞっとするような早涼感が表現出来るではないか。
(甲寅 十月)


表現ということについて
 社中、古田清泉教授の論文を読んでいると、以下の言葉があった。
中国文学は表現の重視される文学である。内容よりも寧ろ表現の方に重点の置かれる文学である。即ち「何を言うか」よりも「いかに言うか」が問題となる文学である。内容は古来同じようなことが幾たびも繰り返されているが、その表現の仕方に独創性があれば、それは価値ある文学として扱われるのである。 教授が「対句の象徴性」という論文のまくらに書かれたもので、表現上の技法として重視されるべき対句と比喩と典故とをあげて、対句について細論されたものである。
 ところで表現技法で重視される典故の利用というようなことは、中国文学を相当究めていないと出来ないことである。わが社中では、
       人在樊川詩句中。
というぐらいが出来ればよい方である。比喩は典故とも関係があって、やはり難しいが「如」「似」のような直喩ならだれでも出来る。対句は「人を見たら泥棒と思え、漢文を見たら対句があると思え」という いかがわしいことば と並んだことばをよく聞かされたものだが、実際、対句は漢文漢詩ですぐに出てくる。律詩でなくても絶句にも、句と句が対し、一句の中に語と語が対している。
 今は表現ということについて、上記のような技法はなくとも、一句一句の表現が穏当で、しかも正しい句法であり、その句が穏当な並べかた・・・・・・・章法・・・・・・・を得ておれば、一応詩として認めることができる。
さて僕ら添削者は一体どういうことをしているのだろうか。ある詩に対して上記のような技法が乏しいというような指導は批評として述べたいが、相手がそこまで行っていないものに述べても仕方がない。もっと表現以前の問題に頭を悩まし、失声や失韻を正し、漢語表現ならざるものを漢語表現にし、漢語法ならざる句を漢語法の句に直すという努力を払うというのが実情である。
(乙卯 十月)


冒韻について
「冒韻詩」という見出しで『中国学芸大辞彙』(近藤杢著)に,韻脚と同韻の字を第二字以下に用いるをいう。例えば
     ○      ○             ○
    相逢之処草茸茸    峭壁攅峰千万重
                           ○
    他日期君何処好    寒流石上一株松
「逢」「峰」の両字共に二冬の韻にて,韻脚の,茸・重・松の三字と同韻なり。かくの如きは詩家の忌む所となす。
詩に八病ありと言はれ,冒韻は「大韻」と言う言葉で表されているので,冒韻と言う言葉で中国の書物で探すと出て来ない。
 さて,上記の冒韻は漢詩では許されぬ忌避すべきことかと言うと,そうでもない。詩で許さぬのは,韻を失したとかいう事は命とり,平仄の一ヶ所失したのも許さぬが,転句の下三字では許すやり方もある。孤平はと言うと,日本人は知らなかったから長く問題にしなかった。森槐南らが詩壇を領して,しかも,新聞,雑誌で容易に天下に知らせ得るから,やっと全国津々浦々まで行き渡った。(然し,江戸時代の荻生徂徠門下の太宰春台は孤平の忌むべきことを,著書で世に問うているが,世の詩人はその本を読まぬから,効果を上げなかった。)辻雅堂の『漢詩の手引』誌上で,冒韻についての質問の答えに,
「一代の大宗王漁洋先生に質問した劉大勤という門人の書いた師友詩伝録に,
 問, 沈休文(沈約のこと) 所列八病必応忌否ト。(列ス所 八病ハ必ズ応ニ忌ムベキ否ヤ)と。
 答, 蜂腰・鶴膝・双声・畳韻之類,一時記不能全。須検書 乃可條答。」という個所がある。
土屋竹雨逝後,『言永』に,此の冒韻に対して井上舒庵が答えたものが出ていたが,竹雨先生も一々冒韻だからという理由で筆改されたことはない。『猗廬詩稿』をしらべて,先生が世にいう冒韻をどう考えて作られたかを調べた表で察知してほしい。記憶では三十余り挙げてあったように思う。
沈約の八病の中では,大韻というのが冒韻にあたる。『中国学芸大辞彙』で「大韻」を見ると,詩の八病の一。五言詩の第十字に押韻するとき,その他の六字中にそれと同じ韻を用いるものをいう。王漁洋が本を調べて答えると言ったとあるが本を調べたくらいで,その名は解ってもその内容は解らぬといえる。第一,空海の持論著『文鏡秘府論』ぐらいに,やっと説明を発見出来るという代物なのだから。

近藤杢著の前著から八病を引くと,名前は出ている。その終わりに,「八病は専ら五言詩についていう。」と書いてある。双声・畳韻の語でいえば,七陽の韻を使って,茫を押韻して老いて,上に蒼をつけて「蒼茫」という畳韻語となったときも避けるのかという質問が起こると思うが,これを避けたら声調の美の最たるものに斧を揮うのである。乃木将軍の・・・・「山川草木轉荒涼」・・・。は荒が冒韻ではないかと言ってケチをつけるなどは,一知半解の徒といわねばならぬ。
沈約が言い出した時代には,平仄の公式もこれから定着するかどうか解らぬ時代だから,こんな論を出して専ら声調に違和感なきを期したものであろうし,その後,唐代ごろの八病はもう廃れてしまっても猶,進士などの試験の際に試験官がチェックして点を引いたものだとも言われているので,詩の内容よりも形式面から減点するわくであったともいえる。
 結論として,
 冒韻は全然考慮しなくてもよいか,或は,少しは考えて重要文字が来たら可成は改めておくかであって,各自の考えで好いと思う。之に拘ったら詩がすくんでしまうから。冒韻は現代には生きていないと思っている。その証拠を調べるため,現代の中国の大家の作を検証しようとしたが,時間が無いので止めた。
(丙寅 一月)


服部承風氏の詩について
今月は承風氏の新著『遊華詩紀』三十九首から,詩人必読の作をと選んだが,まだ多くのこしている。
      謁魯迅先生墓
 甘爲儒牛日。   甘じて儒牛と爲るの日
 祠筆利于刀。   祠筆 刀よりも利なり
 誉望垂千古。   誉望 千古に垂れ
 文章一世豪。   文章 一世に豪なり
儒牛とは儒子(をさなご)の牛であるが,オモチャでなく,自らが,はらばって をさなごを背中に載せてはい歩くことである。儒子と言えば海嬰のことである。このことは魯迅自らも詩に作っていて,高田淳氏の魯迅詩話の中にも数ページを費やしている。魯迅は子供は重荷になるから作らぬ方がよいといっていたのだが,いったん生まれると,その責任を果たすべく,あらゆる努力を傾けた。その責任を果たすことの第一は文学者として正しい仕事をすることにありと考えて実践した。文章とは文学と解する。
(乙丑 九月)


詩学上の三大寶 (先師:呂山師より来信 1980/04/04)
詩を稽古する者が,是非とも熟読して置かなければならない必須貴重な書物が三冊ある。詩経・離騒・文選。之を詩学上の三寶と言うべきものである。朱文公は「詩を作るには先ず李・杜を看よ,そして李杜の詩を看るには士人の本経を治める如くせよ」と言っている。中国の学問は経学が主だから,苟も漢詩詩人たらんと志すものは,畢生の心力を六経に盡す可きものとしている。朱文公は則ち六経に盡すだけの努力を李杜の詩集の研究に向って後進に教えられたのだ。詩を研究するものは朱文公の此の指導精神に遵って進めば実に立派なものである。我が国の学問は朱子学を尊遵した結果,大抵の学者は朱子学で養成せられたから,普通は朱伝に依って詩を読むことが普通とされているが,周詩の真の趣味は到底朱伝の解説では解することは出来ない。ただ此の系統の確かな毛伝に依って今日古詩人の本義を知るより道がないと思うのである。そこで詩を修得する事になれば,あくまで毛伝に依って真趣味を了得する事が大切で,李杜の如き詩傑が大筆力を揮うて之を使いこなした意味合いも亦之れによって悟ることが出来ると言うものだ。