詩体・元嘉体・
  宋の年号で,顔延之,鮑照,謝霊運,諸公の詩。

宋の世は八世,凡そ六十年。其の中で三代目の文帝義隆の元嘉三十年間の文運が宋一代の文章を代表している。世に元嘉体と称するのが即ち是である。元嘉の文学を代表しているのが,顔延之,鮑照,謝霊運の三人である。その中でも謝霊運が元嘉文学の首領である。謝霊運の神工黙運,清貴の気の塵表に出る。鮑照の廉儁,前に無く,時に麗藻をみる,顔延之の錯彩鏤金,体裁の綺密なるのは皆な詩の声色を開くに大に功績のある人達である。

謝霊運と顔延之は詩名を斉しくし,記憶して置くべきことは,顔延之は其の雄である。これ等の名匠の手に依って排偶駢儷の工夫が益々緻密になり後世の,所謂,律調の風を導いた。是は実に
六朝の詩風が二変した時期であのる

謝霊運と顔延之は詩名を斉しくし,何れも二人相踵いで永嘉の太守となり,
元謝の名は専ら江南に宣伝せられたが,然し此の二人の性行は全く相反していた。謝霊運は豪奢を好み,車服器物類,鮮麗を極めていたのに,顔延之は清約を守り,布衣蔬食に平気で甘んじていた。
謝霊運が常に政事の枢機に参加することを熱望し,反って当路役人に弾劾され棄市せられるような悲運に遭遇したのに,顔延之は躬親ら政事の枢機に参し,直情径行,却つて罪禍に遠ざかり,天寿を全うした。是等全く皮肉の対照である


然し文章上,顔延之,謝霊運の位置は謝霊運の方が一枚役者が上のようである。故に詩品では謝霊運を元嘉の主将とし,顔延之を補佐として取り扱っている。しかも顔延之自身は謝霊運に対して決して一歩も譲らぬと言う自負心を持っていた所が興味深い。

鮑照が嘗て顔延之に向かって,「
謝の五言は芙蓉の初めて水を出たようであるが,君の詩は錦を敷き綵を列ねたようで彫績が眼に満つと言つたら,顔延之は此の語を一生,気にし病んで,非常に嫌っていた。それは鮑照が顔延之の彫琢は顔延之の風神に及ばないことを,暗に諷刺したもので,誉めたのではない。見方によれば鮑照も中々隅に置けぬ人物である。

鮑照 一名は昭,字は明遠,東海の人,文詞は膽逸で最も楽府に長じた豪壮の気,勁抜の調子を以て,能く顔延之・謝霊運,二家の外に独立し,元嘉文学に異彩を放った。鮑照の詩は体裁慎密で,顔延之に比すれば辞句が鮮明で,謝霊運に比すれば気勢が生動している。
故に杜甫は「俊逸鮑参軍」と推称して,俊逸を以て彼に許した。然し彼は一生不遇で非命の最期を遂げた薄幸の詩人であった。彼の「河清頌」,「蕪城賦」,「東武吟」,「苦熱行」等は最も出色の文字で,特に楽府に得意で「擬行路難」十八首は長短句錯綜の豪放の作で,古人が推称するものである。

鮑照の名誉が顔延之・謝霊運二家の上に出でぬのは,微官の爲, 
始め臨川王の国侍郎となった。文帝は遷して中書舎人と為した。帝は文章を好み,自から謂う能く及ぶなしと。鮑照は其の旨を悟ったので,それから賦述に鄙言累句が多くなった。人々は鮑照の才が尽きたと言った,

 始め臨川王の国侍郎となった後,文帝は遷して中書舎人と為した。帝は文章を好み,自から謂う能く及ぶなしと。鮑照は其の旨を悟ったので,それから賦述に鄙
言累句が多くなった。また鮑照の妹,鮑令睴は女流詩人,擬古詩を得意とした。

此の時代の詩風を詳しく検討すると,
齊梁以下の綺蘼麗縟と言う点までは進化していない,然し辞句は一般に綺麗になり,建安の風骨は已に失われ,修辞の形式技巧の囚はれる弊風を現した端緒だと言い得詩を学ぶ者は風気の変遷に注意しなければならない。

顔延之
,字は延年,瑯琊臨泝の人,性が疎淡で細行を顧みない文章は当世に於いて冠絶していた。始め宋公予公世子の参軍と為ったが,武帝が禅(よづり)を受ける及んで太子舎人に補せられた。帝が崩じてから,出でて始安の太守となった。元帝の元嘉三年に徴されて中書侍郎となり,復た出でて永嘉の太守となった。

孝武の初に金紫光録大夫に拝せられた。時に子の竣が貴重せられて,権力は一朝を傾けた。然し凡そ資供する所のものは延之に於いては一も受ける所が無く,器服邸宅は旧態依然であったと言う。

謝霊運は陳郡嘉(今の河南省,陳州・大康県治)の人。晉の車騎将軍謝玄の孫である。幼少より学を好み,群書を博覧し,文章は江左に冠絶し,名を顔延之と斉しくした。文帝は之を三宝生と称した。康楽公に封ぜられ邑二千石を食(はん)だ。平生奇異なことを好み,車や衣裳まで皆な別に新製し,大に意匠を凝らしたので,世間では之を
謝康楽式と名ずけた。

太子左衞率となったが,度量が狭く,性急で礼儀がないので朝廷では文士を以て之を遇した。そこで彼は憤懣に堪えず,益々放逸に流れ罵声を恣(ほしいまま)にしたので,出されて永嘉の太守となった。

彼は永嘉に赴くと山水に放浪して,少しも政事を顧みず,僅か一年余で職を辞し,会稽山に住み,族弟,謝恵連,何長瑜,荀雍,羊璿之,等四人と山澤の遊をなした。時の人は之を
四友と称した。霊運は峰に登り,嶺を渉るに幽険を意とせず,常に木履(ゲタ)を着け,山に上る時は其の前歯を除却し去り,山を下る時は其の後歯を除却し去ると言う風であった。この新発明の履を世に謝公屐と言った。

彼は嘗て始寧の南山から木を伐採し径を開き,直ちに臨海に至った。その時,従者は数百人であったので,臨海の太守王琇は驚いて山賊と思ったと言うことである。其の後,臨川の内史に任ぜられたが,元来晉の遺臣で宋朝に事を得ることを快しとせず 「
韓亡んで子房奮い。秦帝となりて魯連耻づ」と言う詩を作った。
そこで異志が有る者と認められ,讒に遇い擒(と)られて棄市せられた。時に元嘉十年で享年四十九歳であった。


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