詩体・太康体
  晉の年号で,左思,潘岳,二張,二陸,諸公の詩

司馬炎(武帝)が魏に迫って禅(よづり)を受けてから十有六年,太康元年になって晉は又,呉を滅ぼした。そこで国運は伸暢の一途,国の基礎は次第に強固を加え,五胡の外患は有るにせよ微微たるもので,国内は小康を保つことが出来た。西晉五十年の世に於いて武帝の此の太康の年号は十年間継続した。
西晉の文学は此の間に最も全盛を極め幾多の有名な詩人を輩出した。
後世是等の詩人の詩体を太康体と称している

その中で俄然,頭角を現したのは
左思,潘岳,張協,陸機,の四人である。左思(左太冲)は挺抜=(センバツ)。潘岳(藩安仁)は=軽婉。張協(張景陽)は=華浄。陸機(陸士衡)は=通贍。で各々その特色を発揮している,が。綺蘼と言う点と,辞賦を巧妙に作詩の上に応用して,詩体の排偶の一派を開いた,此の事は一致している。然し陸機が最も功績が多い。此の詩体が一たび創始されてから宋に入って益々流行し,建安の風骨は跡を絶つに至った。

西晉の太康は六朝詩風の第一歩を踏み出した時で従来の詩風に一大変化を与えた。これは詩学上,大いに注意を要する時代である,と古人は教え諭している。 漢詩作詩者は,肝に銘じて置く必要が有る

故に鍾嶸も詩品に
太康中に三張,二陸,両潘,一左が傲然として起こった。これ文章の中興である。』と言って西晉の文学を論じている。固より是等の人達は太康文学に貢献したことに異論は無いが,中でも陸機,潘岳の功績を以て第一に推す。
この他に西晉の文学者としては傳玄,張華等がいる。玄は楽府に長じ古樸な處が多いと言う説があるが,気力は全く欠けている。華は児女の情多く風雲の気が少ないと言われている。作詩上,先賢の言葉,詩人は剛毅な胆心を以て作詩する事を忘れてはならない。古人曰く;張華は,裴頠と倶に朝に立ち忠を晉室に尽くし,常に要路に居して文学を奨励した人物で,其の偉大な功績は認めるべきである,と。


左思。字は太冲で齊国臨淄の人。著作郎と為った。容貌は醜悪で其の上に訥辯であったが,辞藻の荘麗を以て人を驚かした。嘗て十年を費やして三都賦を作った。賦が成ってから,富豪貴族の家で之を競うて傳写したので,洛陽の紙価を高らしめたと言う。始め陸機が洛陽に来て此の賦を作ろうとした時,左太冲が目下,作っていることを耳にし,掌を撫して笑い乍ら,弟陸雲に手紙を出し,この頃,田舎者が三都賦を作ろうとしているそうだが,その出来上がるのを待って酒甕の貼り紙にしようと思っている,と志信を送った。
處が賦が出ると非常な人気で機も之を見て舌を巻いて感嘆し,アイヤー俺は此の上に出ることは出来ないと言って筆を投げた。
三都賦は其れ程,傑作であったのである。彼は常に雄健俊逸の辞を作り劉琨,郭璞と倶に晉代の三詩傑と称せられ「詠史」(文選・第二十一巻),「招隠」(文選・第二十二巻)等の詩は千古の絶唱と言われている。

潘岳字は安仁で榮陽中牟の人。少い時から才穎を以て称され奇童の名があった。後に才名が世に馳せるようになって衆人に憎まれ,十年も家郷に閑居していた。秀才に挙げられてから,郎となり河陽の令となったが,鬱々として其の志を得ることがなかった。然し後に給仕黄門侍郎となり趙王倫の補政に累遷 。岳は性質は軽躁だが,その容姿は端麗で頗る好紳士であつた。少年の頃は一層美しく,彼が鳥を射る弾を挟んで曾つて洛陽の街陌を通つた時,彼に遇う多くの婦人は皆な大騒ぎして手を繋いで車を取り巻き果物を投げて贈った。そして果物を車一パイに積んで帰ったという。彼の詩は謝混が「爛として錦を舒ぶるがと評したように辞藻に富み,その詞は絶麗で,その人となりによく似ていた。

そして彼は哀誄の文を作るのが最も上手であった。「
悼亡詩」三首は亡妻を思う哀情を写して多恨の涙が紙上に滲み出ている。然し彼の行為は甚だ不似合いで,賈謐に謟つて,賈謐が出る度ごとに必ず塵を望んで拝したのでそれを識者は非常に醜い事だと言って爪弾きした。故に彼の末路は非常に悲惨で,孫秀に潘岳は石崇と倶に乱を企てていると誣告され,終に市に誅せられた。二張と言うのは張載と張協のことである,二人は兄弟で晉代の作家である。

張載
は字を孟陽という。武邑の生まれで,性質は閑雅で博学の人で,文章が最も得意であった。太康の初め,蜀に赴く道中,𠝏閣を通った。𠝏閣は誰でも知る通り蜀の桟道で有名な最も険峻な場所である。蜀の人はとかく此の険耍を恃んで乱を好むと言う傾向があるので,彼は「𠝏閣銘」を作って蜀人を戒めた。益州の刺史の張敏が,其の文章を見て,実に奇であると言って激賞し,之を武帝に上った。
武帝は人に命じて之を𠝏閣山の絶壁に鐫刻させた。之から彼の名声が,大に世に傳わり著作郎に拝せられ,弘農の太守に累遷した。以後,更に長沙王の乂(がい)が記室督となり次いで中書侍郎に任命した。然し彼は天下の乱を成す大勢を知り,仕進の意を絶ち,病気だと言って故郷へ帰って家で終わった。彼の著作で最も世に宣伝されているのは,「榷論」で,その外「濛氾賦」,「七哀詩」,「四愁に擬す詩」等がある。

序;に笑い話:此の張載という人は余程の醜男であったと見え,外出すると,何時も街や村の子供等から瓦石を投げつけられ,怪我をしては弱り果てて家に帰ったという。

張協
は字を景陽と言い,張載の弟である。幼少時から秀才で載と名を斉しくした。公府椽に召され,秘書郎に転じ,中書侍郎,河間侍郎,河間内史に累進した。時に天下が已に乱れ盗賊が日々に猛威を極めるのを見て職を辞し,隠居吟詠を以て獨り愉しみとし家に終わった。協は「七命」と言うものを作ったが,之は枚乗の七発を規撫したもので,非常に著名なもので鍾嶸の詩品に協の詩を「風流調達,実に曠代の高手だ」と言って推賞し上品に置いてある。
 二陸というのは陸機と陸雲という二人の兄弟の並称である。二陸は当世一双の才子で,天才秀逸,詩文に長じ辞藻宏麗,作る所,皆な金石の響ありと称せられていた。二人とも晉初の有名な作家に属している。

陸機は字を士衡と言い,呉郡の人。そして呉の大司馬であった有名な陸杭の子で,身の丈,七尺,音声は鍾の如く少時已に奇才があった。呉主孫皓が淫虐で呉が遂に亡びてから旧里に帰って学を積むこと十年,「辨亡論」二篇を作る,委曲を尽くして孫権が國を興す所以と,呉主孫皓が國を亡ぼす所以とを論じ,且つ祖父の功業を述べた。晉の武帝の末年に初めて弟・陸雲と倶に洛陽に入った。
太傳楊駿が辟(め)して祭酒とし,太子洗馬・著作郎に累遷した。後ちに出でて呉王郎中令に補はれ,入って尚書郎と爲った。趙王倫が政を輔けるに及んで趙王倫に引かれて参軍となった。太安の初,成都王の穎が倫を討った功績を恃み驕奢で河間王の顒(ぎょう)と兵を起こして反し,長沙王の乂(がい)と戦った時に,機は穎軍の前鋒の河北大都督であったが,大敗して讒言に遭い穎の爲に捕われて軍法に問われて殺された。時に四十三歳であった。死に臨んで「
華亭の鶴鳴,復た聞く可けんやと嘆じた。華亭は機の采地で鶴の多く産する所で,意は,もう前日のように再び安居することが難しい,との感情をのべたもの。

陸機は始め張華に知られ,楊駿に用いられ,後ち呉王,趙王,成都王,等に寵任され,常に政事の中枢に参し天下を匡救する志があったが,王粹,率秀,等に怨まれ,廬志に讒言され,孟玖に讒言され,遂に軍中にて害されたのは,西晉が八王の乱で混雑していた際とは言いながら,世に名高い文学者を早く失ったことは誠に千秋の恨事である。張華は機の才を称して,「
人の文を爲る其の才の少なきを恨むも,陸子は反つて其の才の多きを患う」と言っている。彼の「文賦」は彼の作風を代表したもので,復,彼の連珠」は魏の曹植の遺風を継承して四六駢儷文の先駆をなしたもの,として認識されている。

陸雲は字を士龍と言った。陸機の弟である。性質が清潔で,正直で,才識があり,道理を解していた。六歳で能く文を属し,兄の機と名を斉しくした。呉の乱が,平いでから,後に機と倶に洛陽に入った。機の「
赴洛道中」の詩は此の時の作である。兄弟で洛陽に入ってから,先ず太常張華の家を訪問した。張華は素より二人の名を聞いていたので一見して旧知の如く「呉に克つの利は二俊を獲るに孰れぞや」と言って大いに歓待した。

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