千秋詩話 
杜甫(712−770) 詩聖と称されている唐代の大詩人。
至誠の流露したものが多く時事に関して述べた詩が多く、我われをして覚わず襟を正すようなものが多い。後世の人々が詩聖をして『詩史』
と言う

七古では ”哀江頭”。 五古では ”登恩寺塔”。七律では「世に七律の正宗とされている」”登高”五律では”岳陽楼”。七絶では”逢李亀年”。五絶では復愁”。古体より律・絶・の近体は至るまで華実兼有、百代の師表に背かない。

杜甫は中年の頃、長安に10年程、住んでいたことがある。杜甫は当時、国と民衆の為に尽くそうと志を抱いていた。然し残念ながら朝廷の重要が得られず、短い時期、下層官吏になっただけであった。

生活も苦しく、鬱々として楽しまず、時には友人と携え長安南東の ”曲池”に行き心中の煩悶を紛らわしていた。ある日、彼はまた”曲江”に足を運んだ。眼前の華美な宮殿御苑、乱れ飛ぶ飛鳥落花。にも興趣を起こさないばかりか、憂悶をますます深めた。そこで『曲江対酒』の詩をつくり、歳月が流れゆき、才能がみとめられない悲嘆を託した。その詩の中に、

     桃花欲共楊花語。    桃花は欲す 楊花とともに語り
     黄鳥時兼白鳥飛。    黄鳥 時に白鳥と兼ねて飛ぶ

の二句があった。杜甫は出来あがった詩を書き友人に贈った。時も過ぎたある日、杜甫はその友人宅を訪れた。見ると、例の「曲江対酒」の掛け軸が大切に掛けられている。彼は筆を手にすると、「桃花欲共楊花語」の一句を薄墨で 
「桃花細逐楊花落」   桃花は細やかに楊花を逐うて落ち。 と改めた。友人が怪しんで、どうして三文字を書き直すのかと聞いた。杜甫が答えて言うには

「桃花と楊花は同じ時期に咲く花ではないので、共に語ることはできない。また、この詩の最後の一句は『老大徒傷未払衣』 老大,徒に傷む未だ衣を払わざるを。で落花とだけ対応できるのです」

 と。友人は之を聞き頗る感心した。杜甫の語に
「詩を作って事を用いるのは、ちょうど、禅家の語のようでなければならない」と言う。

杜甫が韋差丞に贈った、22韻の詩中に「読書万巻を破し、筆を下して神有るが如し」。自叙伝の一滴。  厳羽は詩法論に、俗体、俗意、俗句、俗字、俗韻の五俗を除けと言っている。読書と下筆の関係が杜甫によって、はっきり裏書きされている。