中国歴史紀行  (111)  司馬温公祠

                   司馬光墓

司馬光(1019年〜1086年)の陵墓は山西省夏県の県城北方15kmにある。「王安石と司馬光」の政策・青苗法に限らず、互いに政敵として生き続けた二人の関係は館内のパネルでも一際大きく展示されていた。

司馬光は土地の名望家で祖父も又、父も進士に合格しており、官僚社会での知名度は王安石の比では無かった。官僚としての生涯の大部分は地方官暮らしを重ねた王安石と対象的に、皇帝の側近にあって意見を具申する役を務めていた。50歳の時、厳しい政治局面に遭遇する。神宗の王安石抜擢である。

司馬光は事実上の政治的失脚だった。洛陽に隠棲した。洛陽にあること15年、着手していた歴史書『資治通鑑』の執筆に没頭する。この不巧の名著が完成した。翌年(1085年)神宗が崩じ宣仁太后が権力を握ると、洛陽に隠退していても人望の高かった司馬光は、宰相として中央に迎えられる。



              
          
                              
墳園は整備され3万uにのぼる。館内前には「甕を割る」「資治通鑑を著す」司馬光の銅像が一際目を引く。司馬光の祖先は当地に埋葬したものが多く墳園附近には現在200〜300の司馬姓の人々が住んでいる。とガイドが私の疑問に答えてくれた。

館内でガイドを雇う。ガイド料30元と他の博物館に比べて割高だった。入ってすぐ目に付いたのが司馬光の著書類、なんと「資治通鑑」上本が3冊セットで100元、日本円¥1500.。日本で買えば安くても¥5〜6万円。迷った!今持ってる「資治通鑑」は粗雑でしかも全部揃いでは、なくなった欠本。然し重い。書籍の重さは運搬に苦労だ。残念ながら、後ろ髪を引かれる思いで諦めた。

広大な館内の後方に陵⇒墳墓が数多く散見される、太陽は西に傾き夕暮れもせまる。少少焦った。司馬光の墳墓で先ず礼拝。その脇に司馬光の妻の墳墓が形よく並んでいた。ガイド曰く、「陵に上れば頭が好くなる」私は畏れ多くてとてもそのような気分にはなれなかった。

司馬光は子供時分、暗誦が不得手で、皆より何時も遅れとり、兄弟でも一番遅れを取っていた。他の者が、とっくに終って外で遊んでいるのに、彼は一人、物陰で何度も暗誦に励んでいた。こうして、彼は人の何倍もの努力をして暗誦した文体は忘れることは無かった。

「書物は、暗誦できるほど、よく読むことだ。馬上にあっても、寝る前のほんの、一時でも、常に文章を口ずさみ、その意味を考えるなら、多くのことが得られるものだ。」司馬光は、後年このように述懐している。

                                                                                                 


司馬光は幼児のころから聡明であった。巨大な甕におちた友達を甕を割って救ったと言う逸話は有名である。
              


墓の傍らに翁仲がならび、墓碑は碑額に宋の哲宗の筆の「忠精粋徳之碑」の篆書を彫る、碑文は蘇軾の撰。

残念ながら「釣べ落とし」の夕日ではデジカメも用をなさなくなった。



           Copyright(C)1999-2010  by tohou AllRightsReserved
                      石九鼎の漢詩舘
                thhp://www.ccv.ne.jp/home/tohou/tabi111.htm
             リンクは自由です。無断で複製・転載することを禁じます