東方風 5

        東方風(5)   
                  王安石
王安石(1021〜1086)北宋時代の人。字は介甫。江蘇省南京出身。王安石が神宗皇帝のもと、当時の窮乏した政府財政を立て直し、軍隊を精鋭化し、人民の生活を向上させる為、政治の改革に着手した。その為、保守派の政治家たちから攻撃されtr、北宋末年の新党旧党両派の抗争のきっかけを作った。この彼は事は余りにも有名である。彼は政治家としての名声が大である。
王安石の詩は、精密な修辞と巧みな、典故の使用で従来の詩に見られない新鮮味をもつ。唐宋八家文の一人。

        
        初夏即事
石梁茅屋有湾碕。    石梁 茅屋 湾碕有り
流水濺濺度両陂。    流水 濺濺として 両陂を度る
昨日暖風生麦気。    昨日 暖風 花時に勝さる
結綺臨春歌舞地。    結綺 臨春 歌舞の地
荒蹊狹巷両三家。    荒蹊 狹巷 両三家
東風漫漫吹桃李。    東風 漫漫 桃李を吹くも
非復当時仗外花。    復た当時 仗外の花に非ず



        宋名臣言行録   王安石(1021〜1086)

   (1)

王安石は大の読書家であり、稀に見る記憶力の持ち主であった。一度目に通しただけで、暗誦していまい、終生忘れなかったと言う。十九歳で下級政治家であった父を失い、祖母と母、男七人、女三人の多数の生活を一人で背負うことになった。

揚州の地方官に任命される。中央からの誘いがあったが、多数の家族を養う為と、地方官を歴任する道を選んだ。これが後の新法実施の際の経験と生かされた。

歴史の上では王安石は「最悪の政治家」と言う悪評を蒙ってきた。保守の旧法党、即ち司馬光。蘇東坡などの、君子との争いのため。王安石の断行した行政改革が当時の儒教道徳ひいては伝統社会に容認されなかったからであろう。

王安石を「最悪の政治家」と決め付けていた人々も、彼の名文には一目も二目も置いていた

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 公好読書、能強記。雖後進投贄及程試、有美者、一読過輒成誦在口、  終身不忘。其属文動筆如飛、初若不措意。文成,見者皆服其精妙。

  (訳文)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
公、好んで書を読む、能く強記する。後進の投贄および程試といえども、美なる者も有れば、一たび読過すればすなわち誦をなして口に在り、終身忘れず。
その文を属すれば筆を動かすこと飛ぶが如し。初め意を措かざるがごとし。文なって、見る者皆その精妙に服す


  (2)

王安石は地方官として治水灌漑の整備、農民の為の政策を試み成功する。これが彼の名声を高めた。中央に抜擢され、上京すると彼は有名な政治意見書『万言の書』(仁宗皇帝に上るの書)を奉呈した。神宗は新らしく抜擢した王安石に言った。

「朝廷の者達はそなたを知らぬ、学識が豊かだけで実務が疎いと言うのが大方の見かただ」王安石に白羽が立ち「朝廷に人なし」と彼を迎えた訳だ。王安石は言った。
「よい政治を行うためには官僚によい人材を選ぶ。その為には、先ず教育によって立派な人間を育成することです。」

「では、そなたが真っ先に為さねば為らぬことと思うことは、何か?」
「正しい政治をする為に学問は有るのです。後世に凡庸な者が無かったからです。官僚の意識改革をはかり、法制を立て直すこと。これが急務と考えます」
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経術正所以経世務。但後世所謂儒教者。大抵皆庸人。故世俗皆以為経術不可施於世務耳

  (訳文)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・◇・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
経術は正に世務を経むるゆえんなり。ただ世俗みな、経術は世務に施す、べからざる、と思うのみ。

   (3)

1068年首都に呼びよせられ、翌年副宰相。次ぎの年宰相へと昇進、『新法』に取り組む、この改革は農民や中小商人を農村の地主や大商人の搾取から救い、一般人民からは免役銭を出させ、国庫の増収や、仕事の無い人を国家が雇って賃金を払うというものであった。

当然、利益を失うこととなる大地主や商人は「国が民と利を争うものだ」と猛烈に反対する。旧法党の大物政治家に一番期待されていかのが司馬光である 。神宗の王安石抜擢で、司馬光は激しい政治局面に遭遇する。新法が断行されたからである。時に司馬光、50歳。

司馬光と王安石が若いときの逸話がある。
国花。牡丹の花が満開の時期、長官の主催で、花見の宴が開かれた。長官は上機嫌で一座のもとに酒を勧めに回った。司馬光も王安石も生まれつきの下戸である

長官の勧めである。司馬光はほんのちょっとだけ頂戴した。
王安石のほうは、長官がいくら勧めてもガンとして一滴も口にしなかった。司馬光は後年、王安石がいかに頑固な男であるか。善くこの話を持ち出したと言う。

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 昔与王介甫同為群牧司判官。
一日群牧司牡丹盛開。包公置酒賞之。公挙酒相勧。
光素不喜酒亦強飲之。介甫終席不飲。包公不能強成。光以此知其不屈
。    (訳文)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
昔、王介甫と同じく群牧司の判官たり・
一日、群牧司の牡丹 盛んに開く。包公、酒を置き之を賞す。公、酒を挙げて相勧む。光、もとより酒を喜まず、また強いてこれを飲む。介甫は席を終るまで飲まず。包公、強うる能たわず成り。光、これを以って、その屈せざるを知る
 

 (4)

花見と釣りの宴が開催された時のエピソード。
釣り餌を盛った皿が、宦官によって各々の席に配られていた。王安石はこれを全部食べてしまった。明日、仁宗は(お側の)宰輔に言った。
『王安石は誠実な人物とは言えないな、魚の釣り餌を食うなんて、しかも一粒で止めておけばいいものを、それを全部食べてしまうとは、尋常ではないな。』宋の邵博温の『邵氏聞見録』

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     使誤食釣餌一粒即止矣

知制誥一日賞花釣魚宴、内侍各以金楪盛釣餌薬置几上。安石食之尽。明日仁宋謂宰輔曰、王安石詐人也。使誤食釣餌一粒即止矣。食之尽不情也。

   (訳文) ・・・・・・・・・・・・・・・・・・◇・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
知制誥たる一日、賞花釣魚の宴に、内侍おのおの金楪を以って釣餌薬を盛り几上に置く。安石之を食いて尽す。明日、仁宗は宰輔に謂うて曰く、王安石は詐人んり。誤りて釣餌一粒を食わしめ即して止めん。之を食い尽すは、情ならず也

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王安石と仁宗とはシックリいかなかった。王安石も仁宗の器量に疑問を抱いていた。以後、安石は、しばしば批判的な事を言っている。
  

  (5)

王安石夫人が、ある時、夫(安石)の為に妾をひとり買った。王安石が、その女性に身の上を尋ねた、女性は答えて曰く、「私の夫は、軍の兵糧運搬に従事していました、然し船を沈没させてしまいました。償う為に家財一切を売り払っても償いきれない為、私までが身売りされたのです。」

これを聞いて、気の毒そうに王安石は、「うちの者は、そなたを、いくらで買ったのだ?」「九十萬銭です。」王安石は、その彼女の夫を呼んで、元どうり二人を夫婦にしてやり、手元の銭までそっくり、持たせて帰した。

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公知制誥、呉夫人為買一妾。公見之曰、汝誰氏。曰、妾之夫為軍大将、部米運失舟。家賃尽没、猶不足。又売妾以償公呼其夫令為夫婦如初、尽以銭賜之

  (訳文)・・・・・・・・・・・・・・・・・・α・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
公、知制誥たるとき、呉夫人のために一妾を買う。公これを見て曰く、汝は誰氏ぞ。曰く、妾の夫、軍の大将のために、米運を部して舟を失う。家賃ことごとく没して、なほ足らず。また、妾を売り以って償う。公、その夫を呼び、夫婦たること初めの如くならしめ、ことごとく銭をもってこれに賜う。


        (6)  勧学文

読書不破費    書を読むに費を破らず 
読書萬倍利    書を読めば萬倍の利あり
書顕官人才    書は官人の才を顕し
書添君子智    書は君子の智を添える
有即起書楼    有れば即ち書楼を起て
無即致書櫃    無ければ即ち書櫃を致せ
窗前看古書    窗前に古書を看て
燈下尋書義    燈下に書義を尋ねよ
貧者因書富    貧者は書富に因って富み
富者因書貴    富者は書に因って貴し
愚者得書賢    愚者は書を得て賢に
賢者因書利    賢者は書に因って利あり
只見読書栄    只だ書を読んで栄ゆるを見る
不見読書墜    読書を読んで墜つるを見ず
売金買書読    金を売って書を買うて読め
読書買金易    書を読んで金を買うは易し
好書卒難逢    好書は卒に逢い難し
好書真難致    好書は真に致し難し 
奉勧読書人    書を読む人に勧め奉る
好書在心記    好書は心に在るを記せよ

07/02/2002

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