中国歴史紀行>23>莫高窟

   
敦煌  
莫高   NO・1

敦煌莫高窟は敦煌市街東南25kmにある。莫高窟は俗に千佛洞とも言う。南北1600m、上下5層にわたり龕窟が櫛の歯のように並ぶ。 前秦建元2年(366年)から開削を始め、当時已に1000余りの龕窟を擁してた、と言うが現存するのは、北魏〜元代の492の龕窟、4万5000uの壁画、2415体の彩色塑像、唐から宋代の5つの木造建築。数千個の蓮花文様の礎石と地面に敷いた装飾付きの磚。絵画・彫塑などが一体となった総合芸術品。

受け付け場所で撮影機材を預ける。見つかれば機材の取り上げと莫大な罰金徴収と言う。   一般の参觀者は13箇所の窟が普通と言う、特別料金を出しても見たい念願でこの日のために、リストを作成し17個の窟を書きとめて案内人に提出。以下参觀順序。

                       敦煌前景
                    

第130窟。 
莫高窟で2番目の大きさを誇る南大佛を安置。体に比べて頭が大きいのは、下から見上げることを考慮して作製したとも言はれる。どの位置からでも見る人を見つめ返しているような瞳は神秘的である。
                      



第148窟。 東壁南側。 觀無量壽経変。
図の両側の掛け軸にはそれぞれ未生怨と十六觀が描かれている。真ん中には西方阿弥陀浄土が描かれ、中央の平らな台には無量壽佛、観音が描かれその左右には大勢至及び菩薩が脅侍している。描写が精細で着色も濃く麗しい。莫高窟の盛唐時期の壁画の代表作に数えられる。

第152窟。
第96窟。
高さ43mの赤い大きな建築物で覆われている。砂漠の中で遠方からでも、はっきりと見ることが出来るシンボルとなっている。中央に位置する弥勒菩薩像は高さ34,5m。幅は12,5m。中国でも5番目の大きな像となっている。
                   


第249窟。 帝釈天妃。阿修羅。野猪群。狩猟図。
帝釈天妃は西王母とも呼ぶ。窟頂南披の中位に西王母が鳳車に乗り出かける絵。阿修羅とは”非天”の意味で、インドの神話の悪神を言う。野猪群。図は僅か何本かの簡潔流暢な白描線法を用い、一頭の母猪が六頭の子猪を連れ森林の中を餌捜しをして駆け巡っている情景を生き生きと表す。狩猟図は森林の中に二人の狩人が馬に乗り駈け巡り三頭の黄羊を追跡し、正に槍で!

第237窟。
第257窟。 平棋図案。思惟菩薩。溺者救われる。飛天。
平棋図案。正方形の天井の蓮の池には天女が裸泳。構想がユニーク、飾り気が無い。思惟菩薩。右足を左の膝に重ね、右手の一本の指で顎を支え、上半身が前に考えに耽る。溺物救われる。九色鹿王が水に溺れた者を助け、溺れた者が鹿王に感謝する物語り形象が生き生きして、敦煌石窟北魏時代の物語絵の中の優秀な作品とされている。飛天。北魏時代の絵画の風格と古代における画匠たちの創作の才能に驚きを感じる作

第275窟。 交脚弥勒菩薩。
高さ3,4m。弥勒像の右手は傷付き、左手を膝に置き「与願印」し、手の掌を上に、交脚獅子が二匹座り、頭に三珠宝冠、鈴のネックレス、腰にはひだスカートを纏い、菩薩の顔が豊艶で、端正な顔つきである。敦煌窟初期塑像の代表作とされている。


                       


第427窟。 弟子阿難。弟子迦葉。
図上の阿難の背丈は1,67m、彼は釈迦牟尼の十大弟子の一人。伝説によれば、彼は釈迦牟尼に二十数年も奉る、記憶に長じ、”多聞第一”の栄誉を得た。眉目秀麗な顔つき衣は質素なのを着ており、両手を合掌し、佛の右側に恭しくそっと立ち、釈迦牟尼の説法を聞いている。今回の参觀で期待度一番の窟。

                        弟子阿難

同行の彼女は感動して”阿難さんにやっと逢えたヮ”。と言い両手を合掌させて見つめている。図上の弟子迦葉は少欲で満たされ、両手を合掌させ、佛の左側に敬虔で恭しく、そっと立っている。やつれた様相ではあるが、目がキラリとして気力があり、微笑し泰然とし、活気がある。

                    
                     サッタナ太子本生    

第428窟サッタナ太子本生。飛天と菩薩。忍冬模様の図案。スダナ太子本生。
五代に改修された洞窟、図はサッタナ太子本生の物語、絵の作者は壁を上、中、下の三層に等分し、長い絵巻の構図を成す、上層は北から三王子が北から深山に入り、飢えた虎を見てサッタナは虎の餌食となり、首を刺されて出血し、巌壁に投身する。下層は南から二人の兄が遺骸を見て悲痛の絶頂に陥り、馬を駈けさせて王宮に戻り、サッタナの全てを報告すると、国王は遺骸を塔の中へ収めて供養する。

後 記
”敦煌を売った男”として不名誉な名称の”王圓ろく”通称 ”王道士”。彼は湖北省出身で生活にも困る状態の中、流浪の中、敦煌に辿り着く。のち莫高窟の住人となり、番人と化す。    1900年、敦煌文書の詰っていた”蔵経洞”第17窟が出現。床から天井までびっしりと古文書が積まれ、その数、数万巻と言う。臭いを嗅ぎ付けた一番手はイギリスのスタイン。二番目は フランスのペリオ。王道士は蔵経洞・万巻の古文書を私物化する気はなかった。

王道士は石窟の遺産の紛失を心配した。その証拠に敦煌の当局に何度も届け出ている。
1907年イギリス隊のスタインが、歴史資料で最も価値のある文字資料万巻の書を略奪しようとする。イギリスにとって残念だったのは、スタインは漢字が読めない。フランスのペリオは中国語に通じた東洋学者であった。ペリオコレクションの質の高さがここにある。

スタインは図像関係を中心に王道士から、無理やり手当り次第巻き上げた。蔵経洞が空になった所へ来たのが日本の大谷探検隊、無い、はずの経典がまだあると言う。大谷探検隊の吉川小一郎は、まんまと王道士から経典をせしめる。最後に来たのがアメリカのウォーナーは化学薬品を使って26面の壁画を剥ぎ取り、数体の塑像と共に本国に持ち帰った。
参考資料。 仏教美術の宝庫、敦煌(大橋一章)

以下は敦煌・21に引き續きます。
  敦煌 21


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