中国歴史紀行     {38

  太公望の釣魚台

釣魚台は今から約3000年前、周の名宰相太公望が隠居して釣り糸を垂れているとき、賢相を求める文王と出会ったとされている場所である。

西安駅付近の郊外行きバスに乗り込む。一路高速道路を走る、咸陽高速道路で乗り替えて武功ー眉県ー大王で下車。三輪車にホロを撞けたボロ車の運転手と値段の交渉20元。ガタガタ道を振り落とされないように必死で簡易屋根の鉄棒を握りしめる。

渭水大橋(840m)を渡り、既に時計は12,15"門票20元。中の簡易食堂で昼食。宝鶏市出身(西安外語学院日本語科在学中)小韓を伴い出かけた。先ずは乾杯!彼女には色々とお世話になる。特に宝鶏市独特の方言は彼女の助けで救われた。

西安から黄河の支流、渭河沿いに西へ上って行くと宝鶏市に着く。釣魚台は宝鶏の県城南方の約 15km、ハン渓河畔(一名を砿河と言う)の伐魚堡の南にあった。渭河の南、秦嶺山脈の北麓にあり、辺りは深山幽谷に包まれ、渓流の一画に釣魚台と呼ばれる大きな岩が河の中にどっかりと鎮座する

釣魚台は2つの山の間にある大きな岩で、ひざまずいた跡があった。岩の下は激流が渦巻き、水しぶきが四散し雲霧譚とも言う。岩の西側に太公廟、南側に母忌洞がある。ハン渓の樵夫であった母忌が太公を周の文王に推薦したと伝えられる。北側に大きな岩がありもう一つある。

司馬遷の『史記』によれば、呂尚は始め殷の紂王に仕えていたが奸臣の言を用いる紂王に愛想をつかして官を辞して、この地に隠棲した。すでに77歳だった。周の文王は釣り糸を垂れていた呂尚に出会う。文王は呂尚に言った。「あなたは私の父(太公)が望まれていたような立派なお方です。是非私を補佐して頂きたい」呂尚は83歳にして今度は周に仕えることになった。

                  
                 


太公が文王に会ったときに出した「釣りと治国」と言う論は、見識が高く、信のおけるものであった。その大意は。国を治めることは釣りと同じだ。釣りは餌をもって魚を誘う。餌がよければ魚は危険をも顧みない。禄が豊かであれば士は死ぬことさえおそれない。釣り糸が細く餌が少なければ、獲物は小さく、釣り糸が太く餌が多ければ、獲物も大きい。禄が重くなければ大賢を得ず、大賢なければ国を治めることは出来ぬ。国が治まらずして天下を取ることができようか・・・・・・・。

これを聞いた文王は「吾太公望子久矣!」わが祖父古公は早くから呂尚のような大賢を待ち望んでいた。と感嘆した。このやりとりは、姜太公の著ともいわれる兵法書『六韜』に記されている。

宋の文豪蘇東坡は「大釣無鉤」(大物を釣るには釣針は使わぬ)といい。唐の羅隠は「直鉤釣国」(直鉤は真っ直ぐな釣針、釣国は国王に招聘せられること)と述べ、李白は詩の中に「釣周」と書いている

                    

        (伝説) 永い間、岩石にひざまずいた爲、跡が凹んでいる。


                     
     元始天尊の壁図。元始天尊の壁図。右極仙翁。中央は土神豺。左側、姜子牙。
         
伝説の一つ。「生き神様」 姜子牙。

あるとき、翌日に花嫁を迎える一家がいると聞いて姜子牙はこう忠告した。「明日は大雨になる。ちょうど花嫁の輿がやって来る頃だ。日を改めた方がいい」相手は信用せず、予定どうり、翌日、花嫁を迎えに出た、ところがはたして、花嫁の輿が村のはずれにやってきた途端に大雨が降りだし、双方の親族全員がびしょぬれになった。

あるとき、家の修繕をする一家いた。左官職人が屋根にあがろうとすると、姜子牙は大声で叫んだ 「のぼっちゃいかん」 その瞬間、ガラガラと屋根が崩れ落ちた。村人たちは、姜子牙のことを「生き神様」とあがめるようになった。


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