中国歴史紀行 (39) 

 五丈原 諸葛亮廟

 五丈原
五丈原は宝鶏市の東90km。岐山県の県城から南25kmのところにある。諸葛孔明が宿敵・魏との戦いのさなかに陣没した場所である。宝鶏市の蔡家坡でタクシーを雇い坂道の悪路を進む車窓の右手に五丈原が見えてきた。

下からの登り道が見える。かなりきつそうだ地図を見ると、海抜120m余り、北に渭河を望み南は秦嶺の盤棋山が控え東西は峪になっている。面積12uの高台で今は一面の畑地としてキビや麦が植えられていた。

蜀の諸葛亮は6回祁山を越えて布陣した。建興12年(234年)春、諸葛亮は大軍を率いて第5次の魏の討伐に向った。諸葛亮が渭水の南岸に陣を構えると、漢中は大騒ぎになった。魏の明帝(曹叡)は晉の宣王(司馬懿)が蜀の軍に対して、迂闊に戦いを仕掛けることを、ひどく心配して、

宣王を抑えて慎重に対処させようとして、辛毘を軍の司馬として派遣した。宣王は諸葛亮と渭水を挟んで対陣しており、亮はありとあらゆる挑発を試みて戦いに引き込もうと策した。宣王は果たして大いに憤り、大軍を差し向けて応戦しようとした。亮がスパイを放って敵情を偵察させたところ、戻って来て報告した。

「一人のじいさんが、胸をはって黄鉞をつき、軍門に立ちはだかっているので、司馬懿の軍隊は出動できずにおります。」亮は言った。「それは、紛れもなく辛佐治(辛毘)だ。   「世説新語」

しかし、布陣して魏の軍師司馬懿と対峙すること100日余り、孔明は無念にも病没した。享年54歳であった。蜀軍は南に退却したが、司馬懿は諸葛亮の計略ではないかと恐れ、これを追撃しなかった。「死せる孔明生ける仲達を走らす」とは三国志愛読者のみならづ胸を躍らせ読んだ記憶がある。のちに人々は諸葛亮を記念して、此処に祠廟を建てた。

 諸葛亮廟
北端に諸葛武候祠がある。諸葛亮の政治的手腕と軍事的才能を称えて元時代の始め頃に建てられ、明・清時代に修復されたと言う。山門をくぐって色鮮やかな廟内に入ると、正殿中央に孔明の塑像が安置されていた。

鐘鼓楼・献殿・八卦亭・東西廂・碑廊などを廻と姜維や揚儀など蜀の名将たちの塑像も据えられていた。室内はかなり採光が悪い。

                    


明・清代の楹聯と扁額を掲げ、詩詞の碑碣が多い。献殿の壁に岳飛(1103-1141)が筆写した前後両篇の 「出師の表」を彫った清代の40枚の石碣を嵌め込んである。見事な文物である

                
        隕石

隕石の展示が後方の吾妻や式建造物に鎮座してある。
諸葛亮が死する時、明星が落ちてきたとされる隕石も安置されいた。不思議な模様の隕石には興味が湧いた。白壁に八卦の図案が一際目立つ。八卦亭は一度迷い込むと容易には出口に出ることが出来ない仕組みになっている。門外に出て往路を頼んだタクシーに乗り込み帰路に着く

周りの小さな集落には今を盛りと”柿”がたわわに味をつけ、高粱畑を過ぎ眼下の小さな町に降りてゆく。元の乗車した場所で一悶着が起きた。往路25元で話を決めたのを、100元で釣銭を求めると、”釣銭が無い”と言う。

”近くの商店で両替して来る”と。両替して来て70元の釣銭しか出さない。約20分。頑として25元の約束を守らない。此処で可愛い小韓が出て来て地元宝鶏地方の方言でしゃべりまくる。

一件落着!5元(日本円で75円)の差は別にどうと言うことも無い。然し中国人に執っては重要だったのだ。それにしても、中国の女性は強い!。
9.15.01





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