自京竄鳳翔喜逹行在所  三首之一

杜甫は至徳二載の初夏四月に,始めて安禄山の賊軍の手を脱することが出来た。長安から間道を辿って霊武に赴いた,然しこの時,已に粛宗皇帝は軍事用儀仗車を進めて,行在所を鳳翔府に移したので,更に路を辿って鳳翔の御座所まで行った,この時,杜甫は草鞋ばきのまま粛宗皇帝に初めて謁見を仰せ付けられ左拾遺の官を授けられた。杜甫に取っては無上の光栄である。感涙の余り此の三首,躍り狂うばかりの心の歓喜を写した。

西憶岐陽信。     西のかた岐陽の信を憶う
無人遂却回。     人の遂に却回する無し
眼穿当落日。     眼穿って 落日に当る
心死著寒灰。     心死して 寒灰を著く
霧樹行相引。     霧樹 行くゆく相引く
連山望忽開。     連山 望み忽ち開く
所親驚老痩。     親しむ所 老痩に驚く
辛苦賊中来。     辛苦 賊中より来る

詩語
[京] 長安を指す
] かくれながら,逃れること
[鳳翔] 陜西鳳翔府扶風県のこと。至徳二載二月に粛宗が彭原から鳳翔に幸したので,その時に扶風を改めて鳳翔と称した。之は霊武より更に長安に近い土地で,鳳翔と言う所以は古の周の興る所で,岐山,則ち周の文王が生まれた時に,鳳凰がこの岐山の南で鳴いたと言う瑞祥の地で,鳳翔府と命名した。当時長安は未だ恢復しないので,暫く此の地を行在所とした。
[行在所] 天子は四海を以て家とする故,その居する所を行在所と言う,『漢書・武帝紀・師古之注』
「天子或在京師。或出巡狩。不可予定。故言行在所耳」と有る。
[岐陽信] 鳳翔府の通信を言う。

[却回] 戻って来ること。唐時代の俗諺
[眼穿] 眼に穴が空くほどと言う強い意味の言葉。
[落日] 西日の入る方を指す,鳳翔は長安の西に当たるので言う。
[心死著寒灰] 心が活気を失い死んだようなさまを言う。『荘子』「心固可使如死灰乎
[行相引] だんだん此方を手引きして,案内してくれることを言う。
[連山] 岐陽の連山を言う。
[所親] 親しき人々。『漢書』 「素所親任者也。」
[老痩] 杜甫自身が痩せ衰えたことを言う。

詩意
自分は鳳翔府行在所に居する粛宗皇帝の消息が聞きたいと想うが,誰も消息をもたらす者がいない。それ故,私は西方の鳳翔府辺に落ちる夕日をじっと眼に穴が空くほど見つめている。失望の余り心は死んだ冷たい灰のように活気を失ってしまった。このままでは仕方が無いので自分は間道を逃れて,霧に深く立ち籠めた樹木の間の小道を辿りながら進んで来た,誠に運が良く,連山の眺望が眼前に展開された。この連山こそは行在所の方面にある山脈で,以前から望んでいた山であった。鳳翔にやっと着いたら平生親しくしている人々は自分の年寄って痩せた姿に驚いていた。人々の驚きも最もなことだ,私は千辛萬苦して賊軍の中から,此処までやっと逃れて来たのだから。

鹵莽解説
左拾遺の官を授けられた杜甫は従八品上に過ぎない微官であるが,唐制では供奉・諷諫・扈従・乗與の事を掌り,凡て令を発し事を挙げる際,道に合わぬことがあれば,大事は廷議に,小事は上封する事が出来る。もし賢良の士が下に残され,忠孝の者が上に聞こぬ時は,その事・状態を具体的に薦言することが出来る職責を持っている。その関係する所は小さくは無い。杜甫がこの諌官である爲に,後に房琯を救はんとして,犠牲と為ってしまったのは,彼の大節の有るところを示している。

「喜逹行在所」三首の詩は杜甫の一生涯から見れば実感生活に極めて関係の深いもので,其の第二首の如きと較べ興味深い。則ち「喜心翻倒極。嗚咽涙沾巾」と嬉し泣きに咽びび泣きしたとまで感激している。此の詩は聯作体で三首に別て賦す故に「喜びの感想」を「喜」の文字を以て主眼としている。


第一章には行在所に逹せない以前の賊中の事,到着した時の喜びの発端まで。起聯は自分が頻りに岐陽の消息を望む,倒さまに鳳翔府のこと持って来て,自分が長安の賊中に現在まだ幽囚の身である事を暗に仄めかす。杜甫の常套手段,「今夜鄜州月。閨中只獨看」の句法。先から考えをつけて逆筆で起こし四句が一気に盤旋して下り「心死着寒灰」自分がまだ行在所に逹していない,則ち長安に在る時の心境,苦心惨憺の体験を回想,起結の二句は,うら表に互文になり,双方読み合わせて全体の意味が通じるように出来ている。平板の筆法を避ける工夫が面白味のある筆致。千鈞の筆力。杜甫の詩の妙と言うものは意が急激にこのように転換し,屈折頓挫がある,白楽天の詩の円転流麗の作と全くその趣きを異にしていると言はれる所以。句法の曲折開闔の妙を研究するには,杜甫が唐に於いて最も適当,先哲者は説く,然し凡人の我々には何百年の時間を研鑽しても尚且つ到底及びもつかぬ。況んや,印刷技術の無い時代,「文選」を全編暗誦していた李白・杜甫。詩語・熟語類・は「文選」から総べて選出されている,


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