別房大尉墓

他郷復行役。    他郷 復た 行役
駐馬別孤墳。    馬を駐めて孤墳に別る
近涙無乾土。    近涙 乾土無く
低空有断雲。    低空 断雲有り
対棋陪謝伝。    棋に対して謝伝に陪す
把劒覓徐君。    劒を把って徐君に覓む
惟見林花落。    惟だ林花の落つるを見る
鴬啼送客聞。    鴬啼いて客を送つて聞かしむ

詩語解
[房大尉] 房琯を言う。玄宗蜀に幸せる後に,輩せられて,相となるが,乾元元年六月邠州刺史に貶せられ,上元元年四月,礼部尚書に改められ,継いで秦州刺史となり,宝応二年四月,特進刑部尚書に拝せられ,路に在つて疾に遇い,広徳元年八月,閬州の僧舎に卒す。大尉を贈られる。
[行役] 旅行すること。
[近涙] 墓に別れる故,平生より房大尉の墓の傍ちかくに依りそうて,涙を流した事を言う。に
[謝伝] 真の謝安のこと。薨じて太伝を贈られる。「晉書謝安伝に。」「謝玄等苻堅を破る,檄書あり至る。安方に客に対し棋を囲む。」 此処に於いては房大尉に比す。
房琯は琴を好み,粛宗の行在所に在って,軍国多事の時でも常に「董庭蘭」と言う琴に技能ある男を自分の幕客とし,琴を弾かせて之を聞いた。」と言う。
[徐君] 徐は春秋戦国時代の國の名,其の小国の君主を言う。『史記』に,「呉の季札は呉王の寿夢の季子なり。
始は北に使いして,徐君に過ぎる。徐君季札の劒を好む。口に敢えて言わず。季札は心に之を知るが,上国に使すが爲,未だ献せず。還りて徐に到れば,徐君 已に死す。従者曰く:「徐君 已に死せり,乃ち其の宝剣を解いて,徐君の家樹に架けて去る。従者曰く:尚を誰に予えるかと。季子曰く;然らず。始め吾が心已に之を許す。豈に死を以て吾が心に背かんやと。札延陵に封ぜられる。故に延陵の季子と号す。」杜甫は自己を此処では延陵の季子の心地に較べ房琯を徐君に比す。

詩意
此の詩は知己の死を悲しみ感情が溢れた詩である。杜甫は多くの知己を失い,零落の境遇にある時,その知己であった房大尉の墓を守っていた。再び蜀の成都に赴くので墓に対して別れを告げに墓前で感情を述べる。
杜甫と房大尉の関係を知らずして此の詩の意は理解出来ない。房大尉と言うのは則ち有名な房琯を言う粛宗の時の宰相である。杜甫とは「布衣の交わり」の有った人である。杜甫が左拾遺の官を失い,蜀に飄零するのも此の人の爲である。

杜甫が一生涯の経歴に重大な関係を持つ人物である。杜甫は此の房琯の手腕を非常に信頼し心酔していた。禄山の爲に唐室は攪乱されたが,此の人物により刈らず乱を救い正道に戻すと杜甫は考えていた。然し房琯のの率いる大兵は禄山の賊軍と陳陶斜との戦いに,大敗を喫し,戦死者,数萬を出した。因って粛宗は房琯を罷免。其の時,杜甫は左拾遺の官であったので,房琯を罷免させることは宜しく無いと諌言を奉ったので,杜甫も亦,粛宗の怒りに触れて華州の掾に移された。

掾は属官で田舎の,役立たずの小役人で,或る島國のグラパンサスの如き郡役所の書記位のもで,杜甫は此の小役人では生活が困難と考えて,遂に官を捨てて浪人となり,飄然と蜀の地方に赴いたのである。幸い是も知己の厳武が蜀の節度使であったので,暫く身を寄せた。居すること一年で,厳武が中央政府に呼び戻されたので杜甫は成都を去り,蜀の地方を流浪することとなった。房琯も亦役を辞め,同じく蜀の閬州に閑居していたので,杜甫は其処に赴いたのである。

然し間もなく房琯は病気の爲に没した。杜甫は知己の恩義に酬いる爲,何時までも墓を守る,と考えていたが,徐知道が反し蜀が乱れ再度,厳武が蜀を鎮することとなり,杜甫も亦再び厳武身を寄せることにした。此の厳武が総督府を開いた時は蜀の成都で閬州と成都は同じ蜀中であるが,果たして再び此の房大尉の墓に詣でることが出来るか,予期できな.い。其の墓に別れるに臨み慟哭した。杜甫の生涯で見逃すことの出来ない側面が此処にある。

鹵莽解字
房琯の没したのが広徳元年八月四日である,杜甫は大分長く閬州に居していた,「春帰」という五言排律の意味から推測するに,蜀の成都の浣花草堂に帰るのが晩春である,此の詩は広徳二年の晩春,則ち花は落ち鳥は啼くと言う淋しい晩春に,墓に別を告げて厳武の幕僚に赴いた。此の境遇,此の時節哀愁の念がそそられた意が窺われる。
第一句の「他郷復行役」は杜甫は已に飄零して蜀の閬州に来ているから他郷である,同じ蜀中であるが復成都に赴くから,即ち客中に客となる。前聯で孤墳に対する別れの模様を描く。頷聯の「近涙」,「低空」の二句,。二字が無限の妙味を感じさせる。

後聯の「対棋陪謝伝」で,自分に比し房琯・謝安の親密の間柄を明瞭にした。房琯は謝安のように囲碁は好まなかったが,琴を嗜み,宰相の時,「董庭蘭」の琴を聴いて物議を招いた事が有るので,胸中に綽綽余裕のあることを以て房大尉の人物を現している。謝安が戦争中に別荘を賭けて棋を打つていても,彼の人物を損することがないように,軍事中に琴を聴いても房大尉の人物を損することはない。此の句は杜甫が此のよう房琯を弁護しているのではないかとも考えられる。

「把劒覓徐君。」は没後のことを言う,呉の季札が徐君の墓前の樹に劒をかけて去る心地は今,自分の房大尉に対すると同様で,房大尉は徐君であり,自分は季札である,のであると故事を用いる。作詩上注意すべき点を明示している。

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