江 漢
題義] 老いて辺地に棄て置かれることを歎いた詩。仇兆鰲曰く;大暦四年秋,湖南での作,と。

江漢思帰客。     江漢 帰りを思う客
乾坤一腐儒。     乾坤 一腐儒
片雲天共遠。     片雲 天 共に遠し
永夜月同孤。     永夜 月 同じく孤なり
落日心猶壯。     落日 心 猶を壯に
秋風病欲蘇。     秋風 病 蘇せんとす
古来存老馬。     古来 老馬を存す
不必取長途。     必ずしも 長途を取らず

[詩語解]
[江漢] 長江と漢江の合流するところ。仇兆鰲曰く;杜甫の”江漢”の詩に二種有り,出峡以前は涪江に注ぐ西漢水を言う。出峡以後は長江に注ぐ東漢水を言うと。本篇の江漢は東漢水を指す。
[乾坤] 天地の間に於いての意。
[片雲] ちぎれ雲。
[月同孤] 孤字の主語は腐儒,則ち自己。
[落日] 晩年の義,を裏面に帯びている。
[存老馬] 存は遺棄せず,存養することをいう。是は『韓非子』の[老馬の智は用いるべき也]ということより取る句で,老馬は長途の旅は出来なうが,道案内などには慣れているから老馬は老馬として其の智を用いれば立派に役立つ,ということを言う。
韓非子「韓詩外伝」にう,田子方,出でて道で老馬を見る,喟然として歎じてじて曰く,少にして其の力を尽くしたのに,老いて其の身を棄てるとは,仁者は爲さざる,と。復た,『韓非子』に,齊の桓公孤竹を伐つ時,途に迷い,老馬の智,用いるべしと老馬を放ち途を求めたと有る。

詩意

私は今,湖南省武昌辺にまごついて居るが,一日も早く國へ帰りたい。それは此の世の中で全く役に立たない腐儒でなんとも,することが無いからである。今日の境遇を例えれば,一片の雲が空に浮かんでいる様に,又,一輪の月が秋の夜長に懸かっている様に何の頼る所もなく,孤独でさびしい,然し,この年寄りになり,老いて頽れて,将に死せんとするようになっても,精神は少しも衰えない。まして秋風が吹いて涼しくなり,身体の健康も回復して,蘇った様な心地がする。大いに仕事はやって見たいと思う。
憐れ老馬でも世に伯楽がいて此の老馬の智を用いいるものがあれば,何時でも御役に立って見せましょうぞ。

鹵莽解説
此の詩は杜甫の晩年,凡そ五十七歳頃の作で,没する二・三年前のものであろうと想像する。此処に,”江漢”というのは,現在の漢口,漢陽辺の土地である。杜甫は代宗の大暦三年の正月に,夔州を去り三峡を出て,三月に江陵に到ったので,江陵は今の湖北荊州辺当り,その江陵の東が漢口である。秋に江陵の正南にある公安に移居したので,江陵から舟で更に南下して揚子江方面を彷徨していたに違いない。
杜甫の晩年は概ね舟居の生活で,全くの漂泊の旅である。凄然たる悲痛感にも,持ち前の豪放の気概が窺え,益々悲壯の感を起こさせる。此の詩は実に其の標本とも言える。腐儒の語は結聯の伏線であって,腐儒と老馬は同一物で以て書き写す。
「遠」「孤」の虚字の使用が実に巧みで,古人は陶淵明の「【萬族各有託。孤雲獨無依】の意から出たという。[落日]は杜甫の意が深く,杜甫の不撓不屈の精神を示している。
『韓詩外伝』に,田方子という人が老馬を道に見て,喟然として歎じて曰く;少いうちに其の力を尽くさして,老いてから,其の身を棄てるのは,仁者のする道ではない,東帛で之を贖ったと言う。
旧注には ”韓非子”を引くは合わないのだと論じている。成る程,そうかもしれん。何れにしても詩趣を損なう事無く,解釈上に大した変化はないので,参考の爲に其の説を述べた

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