風疾舟中伏枕書懷    風疾に,舟中枕に伏し懷を書す三十六韻,湖南の親友に呈し奉る。

風病に罹り舟の中で枕に伏しつつ所懐を書き付けて湖南の親友におくった詩。大暦五年冬,潭州・岳州間の作。 『仇兆鰲氏曰く;「此の詩は耒陽阻水の後に作る,其の牛肉・白酒に殞せざれること明かなり,葛洪尸定解といえば蓋し亦た自から久しからずして将に没せんとするを知れるなり,編年者は当に此の篇を以て絶筆と爲すべし,」。此の篇は実に作者の絶筆である』

軒轅休製律。 虞舜罷弾琴。    軒轅 律を製するを休めよ,虞舜 琴を弾ずること罷めよ。     
尚錯雄鳴管。 猶傷半死心。』   尚を錯る雄鳴の管,猶を傷む半死の心。 』
聖賢名古邈。 羇旅病年侵。    聖賢 名は古しえに邈たり,羇旅 病 年々侵す。
舟泊常依震。 湖平早見参。    舟泊 常に震に依る,湖平かんして早く参を見る。
如聞馬融笛。 若倚仲宣襟。    聞くが如し 馬融の笛,倚るが若し 仲宣が襟。
故国寒望悲。 羣雲惨歳陰     故国 寒望に 悲しむ,羣雲 歳陰に惨たり。
水郷霾白屋。 楓岸畳青岑。    水郷 白屋に霾る,楓岸に青岑 畳はる。
欝鬱冬炎瘴。 濛々雨滞淫。    欝鬱として冬炎 瘴たり,濛々として雨 滞淫す。
鼓迎非祭鬼。 弾落似鴞禽。』   鼓を迎える非祭の鬼, 弾は落す 鴞に似たる禽。』
興尽纔無悶。 愁来遽不禁。    興尽きて纔かに悶 無し,愁来りて遽に禁えず。
生涯相汨没。 時物正蕭森。    生涯 相い汨没す,時物 正に蕭森たり。
疑惑樽中弩。 淹留冠上簪。    疑惑す樽中の弩,淹留す冠上の簪。
牽裾驚魏帝。 投閣爲劉歆。    牽裾 魏帝を驚かす,投閣 劉歆が爲なり。
狂走終奚適。 微才謝所欽。    狂走 終に奚にか適かん,微才 所欽を謝す。
吾安藜不糝。 汝貴玉爲琛。    吾は安んず 藜 糝せざるに,汝 貴くして玉 琛 爲り。
烏几重重縛。 鶉衣寸寸針。』   烏几 重重 縛す,鶉衣 寸寸 針す。』
哀傷同庾信。 述作異陳琳。    哀傷 庾信に同じ,述作 陳琳に異なり。
十暑岷山葛。 三霜楚戸砧     十暑 岷山の葛,三霜 楚戸の砧。
叨陪錦帳坐。 久放白頭吟。    叨りに陪す 錦帳の坐,久しく放(ほいいまま)にす 白頭の吟。
反撲時難遇。 忘機陸易沈。    反撲 時に遇い難し,忘機 陸沈み易し。
応過数粒食。 得近四知金。』    応に過ぐるなれべし数粒の食,近かづくこと得たり 四知の金。』
春草封帰恨。 源花費獨尋。    春草 帰恨を封じ,源花 獨尋を費す。
転蓬憂悄悄。 行薬病涔涔。    転蓬 憂えて悄悄たり,行薬 病みて涔涔たり。
瘞夭追潘岳。 持危覓鄧林。    夭を瘞むて 潘岳を追い,危を持して 鄧林を覓む。
蹉蛇翻学歩。 感激在知音。    蹉蛇 翻って歩を学ぶ,感激 知音に在り。
却假蘇張舌。 高誇周宋鐔。    却って假る蘇張の舌,高k誇る周宋の鐔。
納流迷浩汗。 峻趾得嶔崟。    納流 浩汗に迷う, 峻趾 嶔崟を得る。
城府開清旭。 松筠起碧潯。    城府 清旭を開く,松筠 碧潯に起る。
披顔争倩倩。 逸民競駸駸。    顔を披き争うて倩倩たり,逸民 競うて駸駸たり。
朗鑒存愚直。 皇天実照臨。』   朗鑒 愚直を存す, 皇天 実に 照臨たり。』
公孫仍恃険。 侯景未生擒。    公孫 仍を険を恃む, 侯景 未だ生擒せられず。
書信中原闊。 干戈北斗深。    書信 中原 闊なり, 干戈 北斗 深し。
畏人千里井。 問俗九州箴。    人を畏れる千里の井, 俗を問う九州の箴。
戦血流依旧。 軍声動至今。    戦血 流れて旧に依る, 軍声 動いて今に至る。
葛洪尸定解。 許精力難任。    葛洪 尸 定めて解かん, 許精 力 任じ難し。
家事丹砂訣。 無成涕作霖。    家事 丹砂の訣。 成る無し 涕の霖と作すを。


詩語解]  
[軒轅休製律] 軒轅は黄帝の氏,「漢書」律暦志にいう,黄帝,伶倫おして竹を嶰谷で取り之を吹く。
[虞舜罷弾琴] 「禮記」の楽記にいう,舜五絃の琴を作る、以て南風の詩を歌う,而して天下治まる。

[尚錯雄鳴管] 雄鳴管尚錯の意。風気調和正しからず,をいう。
[猶傷半死心]
 半死心猶傷の意。半死心は琴と自己とと双方みまたがって言う。
[聖賢] 仇兆鰲,言う,:軒轅と虞舜を指す
[名古邈] 古邈とは古代に於いてはるかなり,の意。
[依震] 震は「易」の八卦の一,方位は東北方を意味する,作者は北帰するには航路は先ず東北に向かう故に言う
[見参] 参は西方七宿の一,冬月の昏には南方に見える,詩は参星の曉に落ち掛かるを見る,を言う。
[馬融笛] 後漢の馬融笛賦。序に洛に客有り,逆旅に舎り笛を吹く,融京師を去る,年を越え暫く聞き甚だ悲しいと
[倚仲宣襟] 仲宣は王粲のこと,王粲の登楼賦に言う,「憑軒楹以遙望兮,向北風而開襟,」と。
[故国] 長安のこと。
[寒望悲] 寒望中に悲しむ,寒望は寒天の遠望をいう。
[惨歳陰] 歳陰になり惨なり。歳陰は一歳の陰気が生じる時,惨は悲惨の色があること,
[霾白屋] 霾は土ふる。白屋は南土の白板の家。
[冬炎瘴] 冬にも炎熱の惡気がある,に意。
[非祭鬼] 自分が祭るべきに非ざる鬼,鬼は人の死したる魂。自分の祖先は正当に祭るべき鬼である。其の余は祭るに及ばずといている。
『論語』に「其の鬼に非ざるして而して之を祭るは詔(へつらう)也」と見え,句は楚の地に淫祀の多い,をいう。

[弾落似鴞禽] 弾落とは弾丸のこと,之で鴞禽(フクロウ)に似た類を打ち落とすこと。。「楚地」の猟鳥,「荘子・鸚鵡賦等」より借りる
[興尽纔無悶] 「興」は諸景物の興趣,「纔」は「始めて」という類
[汨没] 浮沈
[時物] 季節の景物
[蕭森] 巌蕭なるさま
[樽中弩] 『晉・楽広の故事』楽広の客・杯中の蛇影を見て疾む,【杯中蛇影】有名な故事。
[牽裾驚魏帝] 辛毗が魏の文帝を諫めた事,(房琯に関して粛宗を諫めたことに比喩する)
[投閣爲劉歆] 揚雄,劉歆が子葉の獄辞に連及して捕獲され様としたとき,籠閣上から投身に比していう
[謝所欽] 謝は謝辞,所欽は啓する人々,此処は湖南の親友等を指す。
[吾安] 心を落ち着けていること
[汝貴] 汝は親友。
[重重縛] 脚など壊れて幾重にも縛る
[鶉衣] 『荀子』「子夏,家貧しくて衣懸鶉の如し」と有る。うずらをつるした様な百結の衣を鶉衣という。
[寸寸針] 一寸ごとに針で縫いとじてある
[同庾信] 庾信は北周に仕え江南を思い「哀江南賦」を作った,
[異陳琳] 陳琳は檄文を草し袁紹がために曹操を誹難した。「異字に解釈,二つあり」一つは,草否異なる,(仇兆鰲は)檄を草しないを義。二つは,工拙異なる,作者の謙辞である。
[十暑岷山葛] 十回の暑を過ごす,乾元元年から大暦二年までをいう。
[三霜楚戸砧] 楚地の家の砧声を聞きながら三回の秋霜を経た,に意
[陪錦帳坐] 郎官宿直するのに錦帳が有り,之は郎官の列位に在るとい。
[陸易沈] 「荘子」からの賦,句は世離れして住み易い,をいう。
[瘞夭行薬] 自分の死に関して,埋める。作者の子の幼死したことに関して,「入衡州」詩に(猶乳女在傍。)と有る乳児などの没した,ことであろうと言う説
[追潘岳] 潘岳の西征賦に(新安に於いて赤子を夭す路側に坎(アナ)して而して路側に之を(瘞)うずむ)
[覓鄧林] 鄧林は杖をいう,「山海経」に,夸父と言う者,日と競争して道にて
[学歩] 「荘子」にいう,寿陵余子,歩く事,邯鄲に学ぶ,仇兆鰲註,古来異同多く,趙註如く「自から其の流俗に随うを傷む」義とみる。
[却假蘇張舌。高誇周宋鐔] 蘇張は蘇秦・張儀の辯士説客。周宋鐔は「荘子」説剣篇から,天子の剣を説き,(天子之剣,燕谿石城を以て鋒と爲し,齊岱を鍔と爲し,晉衞を脊と爲す,周宋を鐔と爲し韓魏を夾と爲す)とみえる。鐔は剣珥,つばとも言う。二句の意は,仇兆鰲は「諸公謬つて獎譽を加えるを言う」とし,友人の自己を「誉めそやかす,こととみている。
[納流] 湖水の諸流があること。
[浩汗] 水面の広大なさま
[峻趾] 険しきあし。
[開清旭] 「開」の主語は城府,「清旭]はスッキリした朝陽のひかり。
[起碧潯] 「起」の主語は松筠,「潯」は水のほとり
[倩倩] 笑容。
[朗鑒] 親友の明鑒
[存愚直] 「愚直」は自己の性行をいう
[皇天実照臨] 天神に質して疑いなし。
[公孫] 公孫述,仇兆鰲註は,大暦四年揚子琳,虁州の別駕張忠を殺して其の城に居ることを,挙げている。
[侯景] 梁時の叛巨,槭玠を指す
[中原闊] 闕は遠いこと,遠ければ書信至らず。
[北斗深] 深も叉,遠きこと,北斗は長安の方位。

[詩意
天と地の気象などの自然状態が正しければ萬物,一定の調子に調和すると言うが,いま律管の管声は誤っている。これでは,黄帝軒轅氏が律を製する要も無い。止め方が宜しい。琴を製する梧桐の樹は半死の心さえ,そこなはれている。こんな桐で琴を製作してもよい音が出るはずはない。帝舜有虞氏も琴を弾くことは止めた方がよい。
[今の自分の身は錯管・傷桐のようなものである。』

遙か昔,聖賢の名は在ると聞いていたが,今は出会わず,私の身は漂泊生活で年と共に病気に侵されている。舟で泊まるのは何時も東北依りで,早朝の湖面では参星の落ち掛かるのを見る。現在,自分の心境は,馬融が旅で笛の音を聞いたように,叉,王粲が他郷で楼の軒に凭り掛かった近い所がある。故郷を思い,寒天の遠望中に悲しみ,陰気の積雲,歳暮と共に惨澹の情を禁じ得ない。白板扉の家に土沙が降り注ぐ,楓の生えてる岸には,碧い嶺が反映し重畳して立つている。長雨が降り続く。太鼓の音を迎えるものは何かと思うと,祭るべきでは無い鬼神である。猟師が射落としたものは鴟に似た不思議な禽獣である。』

憂さを忘れる興趣が無くなって始めて,悶えることも無くなるが,愁いがわきだすと堪えられなくなる。生涯,浮沈した生活の中で,周囲の景物が今,丁度引き締まった様になって来た。酒杯を手にして杯中に弩の影の映るのに疑惑し,冠に簪の身でありながら此の様な所に滞在している。曾って私は,辛毗が裾を引いて魏の天子を驚かせたように,天子をお諫め申した,また揚雄が劉歆の子の,巻き添えで閣から飛び降りた様に捕吏の手に渡されかけた。狂者の様に駆け巡り,終に何処に行くのか,自分は今,平生尊敬している貴方がたから別れようとしている。私は豆汁に米粒さえ混じらぬ程の貧窮に甘んじているが,あなた方は尊くて宝琛の様な玉である。自分は幾にも縛った烏皮几により,一寸毎に針で縫い続った鶉の様な着物を着ている。』

自分の悲しい事は江南を思った庾信と同様,制作物は陳琳と違い拙い。岷山では葛の衣を着て十夏を過ごし,楚地では砧の音を聞いて三度秋の霜を過ごした?郎官を忝なくし錦帳の坐に陪する身分となり,長い間,老年の詩吟を長嘯した。醇朴の世界の時世に遇う事は難しいが,絡繰りの心さえ忘れてしまえば「陸にも沈む」という如く世離れしてすむことも易い。今までも数粒食している鷦鷯より善い方である,あなたの様な人の清廉な方の金の恵みにも近づくことができている。』

私は故郷に帰れぬ憂があるのに,春草はそれを閉じ込めている,この南に流離し桃源の花を独りで尋ねることをし,蓬の様に転がり悄悄として憂い,病んで薬を服しては歩く。若死にの子供を葬った潘岳の後を逐う,危なかしい体を支えようととし鄧林の杖を尋ねる。躓いた身体乍ら邯鄲の歩き方を学ぼうとする。平生,知音を蒙るあなたがたに対して,感激の念をもっている。私はこれまで蘇・秦・張・儀,の様な辯舌を以て王道の貴きを誇っていた。』

江湖の水は多くの流れを引き込み,その広々としている江湖には迷う。そこに高く険しい山の山麓に出逢う,あなたがたの居る城府に,清く指す朝陽。緑の水際に松・竹,等が立ち並んで生えている。其処へ愛想の良い笑顔をした者達が,先を争うて行くだろう,また優れた血筋を持つ駿馬が颯爽と進み行くだろう,これまで私が愚直であるのに,善く理解してくださった。私の此までの心事は天が上からご覧になっている。』

今,公孫述の様な人物が,世の中の困難に頼って王命に従はず,侯景の様な叛臣は未だに生け捕りにされていない。中原は遠いので,手紙は滅多に来ない,干戈だけが盛んで長安の方位は奧の方,自分は千里外の遠地の井戸の在る處で他人に気を遣い,九州の各地の風俗を問い回っている。戦場の血の流れている事は以前と同じことであるし軍の声の騒がしく荒々しい雑音は以前から今日まで続いている。』

葛洪は,そのうちに,きっと尸が解化して仙人となり上天するであろう,許靖は親族を率いて無事に他方へ避難しようとしても,その力は今は及ばない。許靖の様に家事を始末することも,葛洪の様に丹砂を練る秘訣を持つことも,自分には全く不成功になった。それで只だ涕が霖雨(三日以上も続く)の様に下るばかりである。

      (完)   石九鼎



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