東方風 (6)
 
 (1)『呉越春秋』 呉王闔盧とその娘・滕玉
。  
 (2)『説魚』 魚を煮る。魚を食う
 (3)『戦国策』 魏策四。 魏王与龍陽君共船而釣。
 (4) 哀哀父母、生我劬労   
 (5) 詩人有写物之功。桑之木未落。  
 (6)(静中我乃得至交 烏有先生子虚士) 李清照 
 (7) 人有問殷中軍、何以将得位而夢棺器。 
 (8)父為子隠、子為父隠。 其父攘羊、而子証之




 (1)  滕玉の死。

呉王闔盧と、その娘・滕玉には有名な逸話がある。王が楚を伐ったとき、夫人と娘・滕玉と共に食事をした。食膳には“魚”を蒸したものが出されていた、王が半分食べて、残りを娘・滕玉に食べる様に進めた。悲劇は此処から始る。

娘・滕玉は『王は食い残りを私によこした。これは私をはずかしめることです。これ以上生きておれません』と言って王を恨んで自殺してしまった。

呉王・闔盧は、非常に悲しんで滕玉郡の西の昌門の外に葬った。金の鼎や玉の盃、銀の樽や珠の宝物を娘への贈り物とした、そのとき白鶴があらわれ、舞い、人々は鶴とついて行った人々が墓の門まで行った。そこで門を塞いで、娘の死を送らせた。殉葬させられることになる。非情な事である。国の人々はこのことを非難した。

娘・滕玉は何故に『魚』のことで死を選んだのだろうか、父と娘の間柄である。父が魚を半分食べて、のこりを、娘にすすめる、このことは娘を辱しめることであろうか?然し娘には死に値する侮辱であった







  (2)  説魚⇒魚を煮る。魚を食う。  

魚は典型的な隠語として配偶者・恋人を意味する。「魚」を一個の隠語の例として(聞 一多)言う。魚を以って配偶を象徴させる手段をとる、魚は繁殖力の最も強い生物であり、古代から人間を魚になぞえる。中国民歌の中では隠語の例は多い。

魚を煮る。魚を食う。を以って合歓・つれそうを喩える。
『詩』陳風・「衡門」
衡門之下、 可以棲遅、 沁之洋洋、 可以樂飢。
豈其食魚、 必河之魴、 豈其娶妻、 必斉之姜。
豈其食魚、 必河之鯉、 豈其娶妻、 必宋之子。


『易』六十五
貫魚、 以宮人寵、 无不利。

 一つらなりの魚。宮人たちに寵愛があれば、うまくゆかぬことはない。

河南可採蓮、蓮葉何田田。魚戯蓮葉間、魚戯蓮葉東、魚戯蓮葉西、魚儀蓮葉南魚戯蓮葉北。

(江南は蓮を採る可し、蓮葉何ぞ田田たる、魚は蓮葉の間に戯れ・・・・・・)

「蓮」は「憐」と同音のかけことばで、これも隠語の一種である。ここでは魚は男を喩え、蓮は女を喩えて、魚が蓮に戯れるとは実は男と女が戯れると言うに等しい。

唐代の女性詩人・◇魚玄機・◇薛涛、もこの詩を理解する。 
魚玄機の「寓言詩」は{芙蓉の葉下に魚は戯れ、にじの天辺に雀声あり、人世の悲歓はひとえに夢にして、如何にか双成を作すことを得ん}

薛涛は元愼を袖にしたあとで、彼に献じた「十離詩」の一「魚 池を離る」に{蓮池に戯れ躍ること四五年、常に朱き尾を揺りて銀鉤を弄ぶ。端無くも擺断す芙蓉の朶 清波の更に一遊せんことを得ず。} と言う。

隠語の応用の範囲は古人の中で想像しがたいほどに広かった。それは社会的効用を持ち、若い男女の社交の場に於いては、それが智力を測る尺度であった。国家はそれによって賢才を抜擢する、個人はそれによって配偶を選んだ。(聞一多はその論文で述べる)

闔盧と娘・滕玉のあいだの「魚」は “魚を食べる”だけの意味ではなさそうだ。娘の想う人に父親・闔盧が反対の意を暗に表したのか?他の男に嫁がせることはない。おまえには一生そいとげる男性は現われないのだ、この魚が半分のように。父親の屈折した思いが込められていたのだろうか。

父親の[魚をお食べ」と言う好意が・・・・・・意味深長にとれる。

魚をもって配偶を象徴させるのはなぜか。魚の繁殖と言う働き以上に適当な解釈は他にないのか。中国浙江省東部の婚姻風俗に、新婦が駕籠で実家を出る時、銅銭を地に撒いて、これを「鯉がタマゴを撒く」と言う、それはこの観念の最良の解説である。(説魚、起源を探る)

聞一多。(1898〜1946)詩人・古典文学研究者。
古典文学の研究については数々の開創を示す。1946年昆明で暗殺された。
参照。「聞一多全集」






   (3)    『戦国策』 魏策四。 魏王与龍陽君共船而釣。

魏王は龍陽君と共に船にのって魚釣りをした。龍陽君は十尾あまりの魚を得て涙を流した。は「何か気掛かりでもあるのか。もしそうなら、なぜわたしに言わぬ」と言った。

龍陽君は「わたしには気掛かりなぞございません」と答えた。「ではなぜ涙を流した」「獲った魚のせいでございます」 「どう言うことだ」 「わたしが始め魚を獲りましたとき、大層嬉しゅうございました。後からますます大きなのが獲れるようになりまして、いまではもう前のを捨てたいと思うようになりました。

ただいま、わたくしのような醜い者でありながら、お上のそばにお仕えすることを許され、また爵位も人君に至ることを得まして、朝廷では人がわたくしに譲り、道もあけてくれます。が広い世界には美しい人も大層多うございます。

わたくしがお上に寵愛を蒙っていると聞きましたならば、(その人々は)きっともすそをからげておん前に馳せ参じましょう。(となれば)わたくしも亦わたくしのさきに獲った魚のようなもので きっと棄てられましょう。どうして涙を流さずにいられましょうか」

魏王与龍陽君共船而釣。龍陽君得十余魚而涕下。王曰『有所不安乎。如是、何不相告也』対曰『臣無敢不安也。王曰『然則何為涕出』。曰『臣為臣之所得魚也』。王曰『何謂也。

対曰『臣之始得魚也、臣甚喜、後得又益大、今臣直欲棄臣前之所得矣。今以臣之凶悪、而得為王払枕席、今臣爵至人君、走人於庭、辟人於途、四海之内、美人亦甚多矣、聞臣之得幸於王也、必捧裳而趨王、臣亦猶曩臣之前所得魚也、臣亦将棄矣、臣安能無涕出乎』


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普通の比喩とは違う。が龍陽君は魚を見ることは自分を見ることなのだった。そのために、ふと感じることがあり、本能的に悲しくなってきた。







  (4) 哀哀父母、生我劬労 (小雅・蓼莪)

哀哀たる父母、我を生みて劬労する。親に対する真心を言う哀詩。気の毒に、私を生んでくださった父母は、いろいろ苦労している 父母の期待に背いた自分を責める詩。

昔、晉褒はこの一句を読むと何時も涙したと言う。そのため門人たちは『詩経』を読んでも、この一篇は読まないことにしたと言う。

斉の顧観も同じような経験があった。

唐の太宗は自分の誕生日に群臣の祝いを受けたが、この句に思い至ると、宴樂するに忍びないと言って群臣を諭したと言う。





       (5) 詩人有写物之功。桑之木未落。      
          (蘇東坡。詩人の描写能力についての評論。)

詩人は物を描写する技倆をもっている。桑の葉が未だ落ちないぬちは、その葉は柔らかく美しい。  ( 『詩経』衛風・氓 )

桑の木を他の木に置き換えることは、殆ど不可能である。林逋の「梅花」の詩に、まばらな影が斜めに横たわって、清らかな浅瀬に映り、かすかな香りが月の沈もうとする淡い黄昏の中を揺れ動く。 (『山園の小梅・二首』)

有るのは、決して桃や李の詩ではない。

皮日休の 「白蓮」の詩に、

心を持たないかのような、深い恨みを抱いたようなその花は、誰にも気ずかれないが、月が消え残り、風がすがしく、吹きわたる明け方、散りかける姿こそ無上に美しい。

 (陸亀蒙・『襲美の木蘭の後の池三詠に和す。白蓮』)

これは決して紅蓮の詩ではない。これが描写の技量と言うものである。

石曼卿(石延年)の 「紅梅」の詩に、桃だと認めるには緑いろの葉が無いし、杏だとするには、青い枝がある。とあるのは、ひどくまずい表現である、言うならば、田舎の学校で作るような詩である。

元祐三年(1088)十二月六日、以上、書き留めて過に送り届ける。


詩人有写物之功。桑之木未落。其葉沃若。他木殆不可以当此。林逋梅花詩云。疎影横斜水清浅。暗香浮動月黄昏。決非桃李詩。皮日休白蓮詩云。無情有恨何人見。月暁風清欲堕時。決非紅蓮詩。此乃写物之功。若石曼卿紅梅詩云。認桃無緑葉。弁杏有青枝。此至陋語。蓋村学中体也。

元祐三年十二月六日。書付過。


詩人の物を写すの功有り。。「桑の未だ落ちざる、其の葉、沃若たり」は他の木、殆ど以て此に当る可からず。 林逋の「梅花」の詩に云う、「疎影は横斜し、水は清浅、暗香は浮動し、月は黄昏」と。決して桃、李の詩に非ず。皮日休の 「白蓮」の詩に云う、「無情、友情、何人か見ん。月暁、風清くして堕ちんと欲するの時」と。決して紅蓮の詩に非ず。此れ乃ち物を写すの功なり。石曼卿の 「紅梅」の詩に、「桃と認むれば緑葉無く、杏と弁ずれば青枝有り。と云うが若きは、此れ至って陋語にして、蓋し村中の体なり。元祐三年十二月六日、書して過に付す。

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東坡先生全集。題跋。。。。。。。。『書き留めて過に送り届ける』過⇒蘇過。(1072〜1123)  字は叔党。蘇東坡の第三子。蘇東坡が晩年に謫せられて恵州の各地に遷った時、一人従った。蘇過は文才があり、書画をよくし、「小坡」と称される。





    (6) (静中我乃得至交 烏有先生子虚士) 李清照

宣和辛丑八月十日到莱 独座一室 平生所見 皆不在目前 几上有礼韻 因信手開之約以所開韻作詩 偶得子字 因以為韻 作感懐詩云。

宣和三年八月十日、莱州に到着した。一人一室に坐っても、平生見慣れたものは、みな目の前に存在しない。机の上に 『礼部韻略』がある。手にとって開く、開けた所の文字を脚韻にして詩を作る。偶々『子』の字を得る、以って韻にして 『感懐』詩を作る。

寒窓敗几無書史。    貧相な窓辺のボロ机 史書らしきも本も無い
公路可憐合至此。    「公路」さま 憐れむべきか 此処まで至るとは
青州従事孔方君。    「青州従事」の酒番と銭勘定の「孔方君」
終日紛紛喜生事。    終日 いろいろと 事件が起きて
作詩謝絶聊閉門。    詩を作るに 謝絶して門を閉める
燕寝凝香有佳思。    燕寝(宿舎)に香を焚いて好い思いをめぐらす
静中我乃得至交。    静かな中で 私の交わり至る好き友人
烏有先生子虚士。    あるはずの無い先生と虚構博士など
李清照

 2/14/2002


  (7) 人有問殷中軍、何以将得位而夢棺器。

ある人が殷浩にたずねた。「どうして官位を得ようとしている時に棺桶の夢を見て、財産を手に入れようとしている時に糞尿の夢を見たりするのですか」

殷浩は答えた。「官位などと言うものは、もともと、腐ったものなのだ。だから、それを得ようとする時には、棺桶や屍体の夢をみる。財産はもともと糞土である。それを得ようとする時には、きたない、ものの夢をみるのだ」 当時の人々は、これを名解釈だと言った。

                             『世説新語・文学篇(四)』

人有問殷中軍、何以将得位而夢棺器。将得財而夢尿穢。殷曰、官本是臭腐、所以将得、而夢棺屍。財本是糞土、所以将得、而夢穢汗。時人以為名通。
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人の殷中軍に問うもの有り、「何を以って将に位を得んとして棺器に夢み、将に財を得んとして尿穢を夢見るや」と。 殷曰く、「官は本是れ臭腐、将に得んとして官屍を夢みるに所以なり。財は本是れ糞土、将に得んとして、穢汗を夢みる所以なり」と。時人以って名通と為す

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      君子は正義について良く知っているが、
      小人は利益について良く知っている。     論語
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                                            2002/02/27


   (8)   父為子隠、子為父隠。 其父攘羊、而子証之。

父は子の為に隠し、子は父の為に隠す。其の父羊を攘みて、而して子之を証せり。

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楚の葉公は孔子に語った。
 「私の村には直躬こと正直者のあQちゃんと言う若者いましてね、父親がよそから迷い込ん だ羊をネコババしたことを、役所で正直に証言したんですよ」それを聞いた孔子は言った。 「私の村の正直者はそんなもんではない。父は子の為に隠し、子は父の為に隠す。
 そこにこそ正直さがあると言うものだ」      [ 論語  子路篇。]

この話は、その後、脚色されて伝承される。羊が紛れ込んだのを、そのまま頂戴した義の「攘」む子が、意図的に盗む義の「窃」の字に直躬が役所で「証」言したが「謁」(訴え来た) の字に変化され、その結果、直躬は処刑されてしまった。

孔子の判断では直躬は一方的に悪者にされてしまった。。中国では親の罪を立証した子が却って罪せられる規定が存在する。文化革命時代では子が父を謁したのである。


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