東方風 (3)

                  魯 迅 著

            藤野 先生   (1)
           藤野 先生   (2)
            藤野 先生   (3)
            藤野 先生   (4
           藤野 先生   (5)
           藤野 先生   (6)
           藤野 先生   (7)

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  (1)
東京也無非是這様。上野的桜花爛漫的時節、望去確也像緋紅的軽雲、但花下也欠不了成群結隊的 “清国留学生”的速成斑、頭頂上盤着大辮子、頂得学生制帽的頂上高高聳起、形成一座富士山。
也有解散辮子、盤得平的、徐下帽來、油光可鑑、宛如子姑娘的発髻一般、還要将(月+孛)子拗幾拗。実在標致極了。

中国留学生会館的門房里、有幾本書買、有時還値得去一轉:儻在上午、里面的幾間洋房里倒也還可以坐坐的。但到傍晩、有一間的地板常不免要丁丁丁地響得震天、兼以満房烟塵斗乱:問問精通時事的人、答道、“那是在学跳舞。”


東京もこんなものに過ぎないのだ。上野の桜が満開の季節に、見渡すと、なるほど花くれないの霞たなびくようだ、花に下につきものの、群れだって行く「清国留学生」の速成科がいた。頭のテッペンに長いベンハツを、とぐろに巻いているので、制帽のてっぺんが突き上げられて、聳え立ち、富士山の一つできあがりだ。

辮をほどいて、べったり撫で付けて付けている者もいるが、帽子をとると、顔にも映すんかばかりにピカピカさながら乙女の髷物にも似たりで、おまけにクネクネ首をくねらせる。まことになめまかしいかぎりである。中国留学生会館の取附きの部屋では、なにがしかの書籍が入手できるので、ときには一巡りだけのことはあった。午前中なら、奥の方のいくつかの洋間は、一休みするには、さほど悪くは無かった。だが夕刻になると、そのうちの一室の床板がしょつちゅうドスンドスンと大音響を響かせ、さらには部屋中に濛濛たる塵が舞いあがるのだ。消息に精通している男に尋ねると、「ダンスのレッスンだよ」と答える。




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  (2)
到別的地方去看看、如何?
我就住仙台的医学専門学校去。従東京出発、不久便到一処駅站、写道:日暮里。不知怎地、我到現在還記得還名目。其次却記得水戸了、還是明的遺民朱舜水先生客死的地方。仙台是一个市鎮、并不大;冬天冷得利害;還没有中国的学生。


大概是物以希為貴罷。北京的白菜運往浙江省、便用紅頭縄系住菜根、倒挂在水果店頭、尊以“膠菜”;福建省野生着的蘆薈、一到北京就請進温室、且美其名曰“龍舌蘭”。我到仙台也頗受了這様的優待、不但学校不収学費、幾個職員還為我的食宿操心

よそへ行っては、どうだろうか?
そこで私は仙台の医学専門学校へ行くことにした。東京を発つと、間もなく一つの駅に着いた。日暮里と書いてあった。どういうわけか、いまなお、その名を覚えている。そのあとは、もう水戸しか覚えていない。明の遺民朱舜水先生が客死された地である。仙台は、まちはまちだが、さして大きくなない。冬は寒さが厳しかった。まだ中国人の学生はいなかった。

おそらく物は稀なるを以って貴しとなす、というわけであろう。北京の白菜が浙江省に運ばれると、赤い紐で根っこをゆわえられて、くだもの屋の店頭に、さかさまにつるされ、「膠菜」とやら言って、あがめられる。福建省に野生している「蘆薈」は、北京に着くと直ちに温室に迎え奉り、そのうえ仰々しくも「龍舌蘭」と申し上げる。私も仙台に来て、大いにこのたぐいの優遇を受けた、。学校は授業料を免除してくれたばかりか、何人かの教職員が私の食事や下宿のことまで心をくだいてくれた。




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   (3)
我先是住在監獄旁邊一個客店里的、初冬已経頗冷、蚊子却還多、后來用被盖了全身、用衣服包了頭瞼、只留両個鼻孔出気。在這呼吸不息的地方、蚊子竟無従挿嘴、居然睡安穏了。飯食也不壊。但一位先生却以為這客店也包辨囚人的飯食、我住在那里不相宣、幾次三番、幾次三番地説。我雖然覚得客店兼辨囚人的飯食和我不相干、然而好意難却、也只得別尋相宣的住処了。于是搬到別一家、里監獄也很遠、可惜毎天総要喝難以下咽的芋梗湯。

はじめ私は監獄のそばにある下宿屋に住んだ。初冬だと言うのに、もう随分と寒い。そのうえ蚊がたくさんいる。そのうち蒲団をすっぽりがぶり、服で頭と顔をくるんで、鼻の穴だけを出し息をすることにした。息が出たり入ったり絶え間ない場所では、蚊もついに横合いから口を入れるすべが無く、意外にも落ち着いて眠れた。食事もなかなかよかった。
ところが或る先生が、その下宿が囚人のまかないも請け負っていることから、私がそこに下宿することは、適切でないと考え、それを繰り返し繰り返し、お説になる。下宿屋が囚人の、まかないを兼業していたって、私は関係は無いと思ったが、好意をムゲに断れず、他に適切な住みかを探すほかなかった。かくて別の家に引っこした。監獄からは遠ざかったが、来る日も来る日も、どうにも呑み越せない芋ずる入りの味噌汁を飲ばねば、ならぬことになったのは無念だった。




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  (4)
従此就看見許多陌生的先生。聴到許多新鮮的講義。解剖学是両個教授分任的。最初是骨学。其時進來的是一個黒痩的先生、八字須、戴着眼鏡、挟着一畳大大小小的書。一将書放在講臺上、便用了緩慢而很有頓挫的声調。向学生介紹自己道:“我就是叫作藤野厳九郎的・・・・・・・。”

后面有幾個人笑起來了。他接着便講述解剖学在日本発達的歴史、那些大大小小的書、便是従最初到現今関于還一門学問的著作。起初有幾本是線装的;還有翻刻中国訳本的、他們的翻譯和研究新的医学并不比中国早。那坐在后面発笑的是上学年不及格的留級学生、在校已経一年、掌故頗為熟悉的了。他們便給新生講演毎個教授的歴史。

以来、多くの見知らぬ先生に出会い、多くの新しい講義を聞くことができた。解剖学は二人の教授が分担した。最初は骨学である。その時入って来たのは痩せた色の黒い先生で、八字ひげに、眼鏡をかけ、大小さまざまの書物を重ねて脇に抱えていた。書物を置くなり、ゆっくり区切り区切り、学生に向かって自己紹介をして言った。 「私は藤野厳九郎という者であります・・・・・・・・・。」

後の方の数人が笑い声をあげた。彼はつずいて解剖学の日本における発展の歴史の講義をした。大小ざまざまの書籍は、初期から今日までに至るまでの、この分野の学問に関する著作だったのである。はじめの何冊かは糸綴じのものである。中国の訳書を翻刻したものもある。彼らの新らしい医学の翻訳と研究は、中国より別に早くはなかったのだ。うしろに陣取って笑い声を上げた連中は、前年度に合格しなかった落第生で、学校にはすでに一年いたので、裏話には甚だ明るくなっている。彼等は新入生に、一人一人の教授についての逸話を語り聞かせてくれた。




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  (5)
還藤野先生据説是穿衣服太模胡了。有時竟会忘記帯領結;冬天是一件旧外套、寒顛顛的、有一回上火車去、致使管車的疑心他是(才+八)手[三只手]、叫車里的客人大家小心些。他們的話大概是真的、我就親見他有一次上講堂没有帯領結。過了一星期、大約是星期六、他使助手來叫了。到得研究室、見他坐人骨和許多単独的頭骨中間、ーーーー他其時正在研究着頭骨、后來一篇論文在本校的雑誌上発表出來。

   “我的講義、爾能抄下來?” 他問。
   “可以抄一点。”
   “拿來我看!”


この藤野先生は、なんでも身なりにはよほど無頓着で、時には蝶ネクタを忘れてくる事があるそうだ。冬は一張羅の古びたオーバーげ寒そうにしているので、或る時など汽車に乗ったら、車掌がスリかと怪しみ、車内の客に用心をうながしたことがという。彼らの話はたぶん本当であったのであろう。一度先生が蝶ネクタイなしで教室に現われたのを現に私が、この目で見たことがある。一週間が過ぎ、たぶん土曜日だったろう、彼は助手をよこして私を呼んだ。研究室に行ったところ、人骨とたくさんの頭蓋骨のまん中に坐っている彼が目にとびこんだ。−−−−−その頃彼は頭蓋骨を研究中で のちに一篇の論文にまとめ上げて本校の雑誌に発表された。

「私の講義は、聞き取れるかね?」 彼はたずねた。
「少し聞きとれます」
「持ってきて見せ給え!」




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  (6)
我交出所抄的講義去、他収下了、第二三天便改還我、并且説、此后毎一星期要送他看一回。我拿下來打開看時、很吃了一驚、同時也感到一種不安和感激。原來我的講義已経従頭到末、都用紅筆添改過了、不但増加了許多脱漏的地方、連文法的錯誤、也都一一訂正。這様一直継続到教完了他所担任的功課;骨学、血管学、神経学。可惜我那時太不用功、有時也很任性。還記得有一回藤野先生将我呼到他的研究室里去、翻出我那講義上的一個図來、是下臂的血管、指着、向我和藹的説道:

“爾看、爾将還条血管移了一点位置了。−−−−−自然還様一移、的確比較的好 看些、然而解剖図  不是美術、実物是那様的、我們没法改換它。現在我田給爾  改好了、以后爾要照着黒板上那様的画”
 
私が筆記したノートを差し出すと、彼は受け取り、二、三日して返してくれた。そして、これからは一週間に一度持って来て見せるようにと言った。持ち帰って開いて見て、私は非常に驚いた。同時に一種の不安と感激におそわれた。私のノーとは始めから終わりまで、すっかり朱筆で添削してあるではなか。多くの脱けた箇所が書き加えてあるばかりか、文法上の誤りまで一つ一つ訂正してあったのである。これは彼が担当している学科の骨学、血管学、神経学が終わるまでずっとつづいたのである。

残念ながら当時わたしは甚だ不勉強で、時として、我が儘でもあった。今でも覚えているが、ある時藤野先生は私を彼の研究室に呼び出し、私のノートをめくって一つの図を出した。それは下脈の血管であったが、それを指し示しながら、やさしく私に言った。

「ねえ君、君はこの血管の位置を少し移動させたね。ーーーーそりゃあ、こう移してやると、たしかに、いくらか見た目にはいい、だが解剖図は絵画じゃないんだよ。実物がそうなっているものを、我われが換えるわけにはいかないんだよ。いまちゃんと直してあげたから、これからは黒板に書いてあるとおりに写し給え」




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  (7)
但是我還不服気、口頭答応着、心里却想道:
  “図還是我画的不錯;至于実在的情形、我心里自然記得的。”学年試験完卒之后、我便到東京玩了一夏天、秋初再回学校、成績早已発表了、同学一百余人之中、不過是没有落第。這回藤野先生所担任的功課、是解剖実習和局部解剖学。解剖実習了大概一星期、他又叫我去了、很高興地仍用了極有り抑揚的声調対我説道:

 “我因為聴説中国人是很敬重鬼的、所以担心、怕爾不肯解剖尸体。現在従算放心了、没有這回事
。” 

しかし私はやはり承服しなかった。口では同意したものの、心の中でhこう考えていた。 「図はやっぱりボクのほうがうまいや。実際の様子は、むろん頭の中に叩き込んであります」学年試験が終わり、私は東京に行って一夏遊んだ。秋の始めに学校に戻って来た時には、とっくに成績が発表してあった。同級生百人あまりの中で、私は真ん中へん、落第しなかったというだけのことだった。次ぎの藤野先生が担当する学科は解剖実習と局部解剖学である。解剖実習をして、およそ一週間目のころ、彼は又、私を呼び寄せて、上機嫌で、例の抑揚のひどい口調で言った。

 「私は中国人は霊魂を非常に敬うと聞いていたんで、心配したが、君が屍体の解剖を嫌がりはしないかとね。これで先ずは安心したよ、そんなことがなくてね」

 [ 8] 続く



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