陶淵明:

晋の陶淵明は名を潜。淵明は字。潯陽柴桑の人。大司馬陶侃の曾孫である。
曾て彭飽澤県の令となったが、令となって八十日ほど過ぎて、偶々県の巡察官が政務の視察にやって来た。その時、属吏が「必ず礼服を着て督郵に面謁すべし」と告げたので、潜は溜息をついて言った。「やれやれ、俺はどうして五斗米の月給を得る為に、小童に腰を屈めて拝することが出来ようか。出来ん」と言って即日に印綬を解き職を辞し帰った。」そして「帰去来辞」「五柳先生傳」を著した。

【挽歌詩】
有生必有死、   生あれば必ず死あり、
早終非命促。   早終命の促すにあらず
咋暮同為人、   咋暮同じく人為り
今旦在鬼録。   今旦鬼録に在り
魂気散何之、   魂気散じて何くに之く、
枯形寄空木。   枯形 空木に寄す
嬌児索父啼、   嬌児父を索めて啼き、
良友撫我哭。   良友我を撫して哭す
得失不復知、   得失復知らず、
是非安能覚    是非安んぞ能く覚らん
千秋萬歳後、   千秋萬歳の後、
誰知榮與辱。   誰か榮と辱とを知らん
但恨在世時、   但恨む在世の時、
飲酒不得足    飲酒 足るを得ざるを

題義
挽歌の題は漢武帝より起こる。多くは人を哭する詩、然し、陶淵明は人を哭するにあらず、
自分を哭する詩を作る。後生 自挽の詩を作るものは皆な陶淵明を祖とする。

大意
表面は人を弔う詩、裏面は自からを弔う詩、生有る者は必ず死有り、早死する者は天命の促すものにあらずや、昨日は人間の戸籍にある人、今日は已に過去帳の人なり、
魂気の行くところを知らず、残骸は空しく棺中に在り、遺児は父を求めて啼き、良友は屍を撫して哭す、死人は得失に於いて復た知らず、何ぞ是非を分別せんや、千秋萬歳の後、誰か栄と辱とを知らんや、但だ恨むらくは生前に於いて充分に酒を飲むを得ざりしことを

最後の二句はとくに良く知られている。死後のことをくよくよ思っても始まらぬ。
生きているうちに飲めるだけ飲もう、刹那主義的な色合いが時代性を出すと言いきれないが、三首からなるこの挽歌詩は友人や知人に捧げるものでなく、絶えず死を意識しつつ生きた詩人陶淵明の自分自身への葬送曲として、自分が死んだ直後から、葬式、野辺送りまでも醒めた眼で見つめ淡々と詠ったものである。事実此処までの心境になるには人間誰しも出来る業ではない。

陶淵明(365-427)が書いた詩。約千五百年を経た今日に伝わるものは、約百三十篇。「酒」に関するものは全作品のほぼ半数。中国詩史で最高の%。「篇篇酒有り」とはよく言ったものである。

李白の場合、千五十首の詩のうち。「酒」に関した詩は百七十七首。
杜甫の場合、千四百首の詩のうち。「酒」に関した詩は約三百首。
この二大酒仙の飲酒詩の合計が十九%
陶淵明が五十%。と大差がある。