論集−「宗門組織と本願寺門主」等

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(武田勝道の掲示板)

(差別問題)

(宗教問題を気ままに)

(その他のイシュー)

エッセイと論集の区別があいまいです。気まぐれに振り分けています。あしからず。

目次
   (1)宗門組織と本願寺門主
   (2)宗務員−任用と身分保障 猟官制のすすめ(スポイルズシステム spoils system)
   (3)猟官制(小沢一郎の主張)
   (4)猟官制…個別と全体はまったく別物である。そして西本願寺の宗政のあり方。
   (5)人権ごっこ





宗門組織と本願寺門主

「組」は「そ」と読みます。そして、宗門組織と本願寺門主。

 安芸教区広陵東組は、「あききょうく こうりょうひがしそ」と読みます。組は、「そ」と読み、浄土真宗本願寺派(西本願寺)の寺院をまとめる最小単位です。構成寺院数は、おおむね20から30ケ寺です。なかには、50ケ寺あるいはそれ以上の大規模の組があります。国の市町村の行政区画とは領域的にずれており、むしろ律令制度の国・郡の領域(江戸時代のそれ)に一致しています。今次の敗戦以降寺基を移転した寺院は、組を変更していないのが通例です。広陵東組は、50ケ寺(もうじき1ケ寺廃寺)です。

 宗門が任命する輪番(教務所長)に対し、組長は、寺院が地方で選出します。東京と大阪を除く他の教区では、輪番と教務所長は同一人が就任します(教区内に複数の別院がある一部教区を除く)。輪番は、門主の代理で権威を担い、教務所長(地方事務官というより官選知事です)は、宗門行政機関として本山の意思を末寺寺院に伝えます。輪番と教務所長が同一人の場合は、「輪番」という呼称を使用します。組長は、人材に恵まれれば、非常に強力で有益なポストですが、そうでないととんでもないことになります。組規程が重要なゆえんです。因循な寺院社会では、なかなか人材が組長に選ばれず、姻戚関係と仲良し子良しの利権関係で選ばれるのが現実です。統治単位という言葉は少し違和感もありますが、教区は「県」、組は「市」に相当します。ともに行政機能と立法機能(議会機能)を有しています。

 宗門では、本山(教団)レベルにのみ監正局という司法機能があります。裁判官の職務を行うのが審事、検察官の職務を行うのが監事です。審事も監事も監正局内にあり、中世の魔女裁判を想起させます。宗門では、一応、三権分立、しかも日本国より早い設置としていばっていますが……。

 浄土真宗本願寺派は宗教団体ですから、勧学(複数人)という教義上の最高権威があり、勧学寮(京都にある)という組織で異安心等の教義上の判断をいたします。異安心と判定されれば、監正局で所定の手続を踏んで、門主によりその者は破門されます。破門されれば、宗門内ではすべての権利を剥奪されます。権利主体でなくなります。その者は死んだと同然です。いや、お浄土に往生できなくなるわけですから、死ぬこともできない存在になるということです。

 すべての頂点に「門主」がいます。門主は、天皇以上に権威と権力を所持しています。西本願寺は、総長選出時に2から3名のリストを門主が作成します。日常は「ご認許」という決裁権限を門主が行使していますが、これが形式的行為か実質的権力行為かは微妙です。東本願寺は、明治時代に門首が権力を喪失しなかったので、戦後の民主化の世間の流れの中で、お家騒動になりました。大谷光瑞門主(明治時代末から大正時代初期)の大谷探検隊の後始末が、西本願寺の門主の権力喪失をもたらしたと私は考えていますが、万事塞翁が馬で、門主が権力を失ったので、戦後の東本願寺のようなお家騒動をせずに済みました。天皇と同じく、権威が権力を併せ持つことの是非が問われています。現在、私たちの宗門で、玉手箱(宗会で総長を選出する時に門主が作成した2から3名のリストをいれた箱で、宗会はこのリストの中から総長を選出する)が問題になっています。門主無答責は、門主に権力を与えては成り立たないという正論(注1)が前提にならなければなりません。それと、リストを実質的に作成するのは誰か、という問題です。門主が一人で出来るものなのか、側近政治を許すのではないか、そこまでいかなくても側近宗務員が情報操作をしているのではないか、宗会議員の門主追従体質がひどくなるだけではないか等々。

 ご門主に、じっくりお考えいただきたいと思いますが、以前ご門主にかなり自由に会えていた方々が、最近は門主に会えなくなったと一様に言われています。側近宗務員たちが強力にブロックしているようです。彼らは、権威に取り入る能力と権威を笠に着る能力にすこぶる長けています。私は、従来の基幹運動のもたらしたものは、宗務員の野放図な勢力拡大だけであったと思います。このままいけば、近い将来、西本願寺の門主の地位に、東本願寺と同様の運命が待っていると思います。明治維新の時には、長州勢力によって坊官(ぼうかん)下間(しもつま)一派を追っ払い、西本願寺は生き延びました。側近宗務員を追っ払わないと、西本願寺は宗門は衰亡します。ご門主に、じっくりお考えいただきたいと思います。

 話がとびましたが、「組」を「そ」と宗門外はもちろん、門徒方にもなかなか読んでいただけないので書いていると、組織論と門主論にもふれました。


注1:池田清彦「昭和天皇の戦争責任と国民の戦争責任」(「天皇の戦争責任・再考」洋泉社新書所収)は、法律専門家よりすばらしい法律論を展開している。
「明治憲法の規定により、天皇は法的な戦争責任を負わない、というのは明治憲法という装置を作り、これを利用して国民を統治した支配者層の理屈にすぎない。たとえ昭和天皇自身が、すべての裁可書類にめくら判を押したとしても、目をとおして裁可した以上国民に対する敗戦責任は免れないと思う。それに戦争責任はそもそも明治憲法の想定外であり、いわば国内法の埒外にあるため、明治憲法を基に法的な戦争責任を云々する議論はもともと成立しないと私は思う。
 それは、たとえば次のようなことを考えてみればわかる。ある教団の何人もの団員が教祖の命令により沢山の犯罪を起こしたとしよう。この教団には指揮命令系統に関する規約があり、この規約は巧妙にも、教祖は形式的な裁可をするだけで、責任はすべて教団の幹部が取るようになっていたとしよう。そのような状況で、教祖は犯罪の責任を問われないかどうか考えてみればよい。教祖が完全にカヤの外に置かれ、書類に目をとおすことができず、幹部が勝手に教祖名の命令を出していたのであればともかく、教祖が教祖名の命令の内容を知っていた以上、連座責任を免れるわけがない。私の家柄は代々教祖をやっており、私にとって教祖は逃れられない運命であり、教祖は君臨すれど統治せず、ということになっておりまして、教団の規約上からも私には法的責任はありません、と弁明しても、それは教団の内部にだけ通用する話であって、世間からは袋だたきになるにきまっている。」56〜57頁
(平成16年(2004年)9月18日武田勝道記。9月21日推敲。)


 私は、宗門がなかなかまともな意見が通らない世界だと痛感します。ご門主が、玉手箱を放棄されるか、大谷光瑞前々門主のように宗門から追放されるような思い切ったことをされないと、現在の門主制は、宗門の命を短くすると思います。次善のチョイスとして、大谷光真門主に望みたいのは、ご門主の一番嫌いな人物を玉手箱にお入れになることです。そうすれば、宗門は、「少し」まともになると思います。
BBS安芸ねっとpureland平成16年(2004年)10月25日付け書込

 宗会議員選挙が近づきましたが、選挙後に行われる総長選挙において、ご門主の玉手箱(本願寺教団の宗会が総長を選出する時に、門主が作成した2から3名のリストをいれた箱で、宗会はこのリストの中から総長を選出する)には、どのような基準で入れるのでしょうか。ご門主は、悪い評判のない無難な方をリストにお入れになるのでしょうか。私は、ご門主が自主的に玉手箱を放棄されることを期待しますが、現時点では、武野以徳さんのような無鉄砲な人物を玉手箱にお入れいただくと宗門は後戻りしなくてすむと思います。(BBS安芸ねっとpureland平成17年(2005年)1月10日付け書込

大谷光瑞門主については、ここもお読みください。

門主や法王を媒介させなければ宗教は成立しないか(はてなBlog安芸ねっと2005−07−10)

大谷光真門主は、何をなさるべきか自問されることがあるのでしょうか





宗務員ー任用と身分保障 猟官制のすすめ(スポイルズシステム spoils system)

 宗門(本願寺)の職員(宗務員)の採用方法と身分保障について述べます。
 本論に入る前に、まともな知能の持ち主ならばとても立論し得ない言説が宗門に溢れていますのでそれに触れたいと思います。それは、「総局(宗門の内閣)は、金集めばかり考えている」と一方で言いながら、他方で「宗務員の給与・雇用を守れ」との言説です。

 私が、私が書いた案内状を差別文書(誤解を与える)であると安芸教区の同朋三者懇(注1)の委員が匿名で告発したのに対し、私が安芸教区のメンバー全員に名乗り出て議論に応じることを求める文書を郵送しました。2名の委員の方から自分は経緯を知らない旨の返事がありました。私は、平成15年6月20日付け池谷亮真広島別院輪番宛てに部落解放同盟、全国自由同和会、全国部落解放運動連合会の3団体を招き、広島別院において公開で討論することを求めました。池谷亮真輪番から何の回答もありません。匿名での告発は人間のクズであると私が、あるBBSに実名で書き込んだところ、匿名ですこぶる「人権的」で感情的な批判がありました。

 両者は、同根です。お金がなくて、どうして労働者の給与と雇用を確保できるのでしょうか。宗会議員や総局総務にオカシイ人物はいます。国会議員にもどの世界にもオカシイ人物はいます。しかし、雇用主たる本願寺が、労働者たる宗務員や守衛の給与と雇用を守るために、総長・総務がお金集めに呻吟する姿に同情します。汚職をするけしからん総長・総務もいるでしょうが、組織を維持し宗務員の給与の原資を確保するために、関わりたくない金銭勘定をしているというのがその姿です。私自身、20年30年前末寺への賦課金について発言している時、「お前は金の話ばかりする」とののしられたことがあります。寺院経営者が金銭を蔑視する発言に憤りを持ちます。彼は即刻住職を辞めるべきです。住職になるということは汚れることです。汚れたくなければ住職になってはいけません。山奥に一人隠遁しなければなりません。同朋三者懇委員という権力者が、匿名で差別告発をしてはなりません。

 本論に入ります。まず、結論から述べます。宗派(本願寺)(注2)の部長級以上と別院輪番(教区教務所長含む)の高級宗務員は、政治ポストとする。総長が任免権を持つ猟官制の対象ポストとする。現職の宗会議員や身分の保障された宗務員(下級宗務員)の場合はそれらを辞職しなければ、高級宗務員に就任することができない。輪番等を辞めれば選挙を経て宗会議員に復帰は可能です。部長や輪番等を辞めた宗務員は、選挙を経て組長(宗門法規では宗務員とされています)にはなれますが、給与と雇用を守られた下級宗務員に復帰はできません。雇用を選択するのであれば、高級宗務員にならなければ良い。彼が若ければ、採用試験を受けて下級宗務員として一から出発することは可能です。これで、末寺にいたるまで浄土真宗本願寺派全体が活性化し、真宗が次代に残る宗教となります。浄土真宗本願寺派(西本願寺)がタフになります。宗教は、教義の「まこと」と担い手(僧俗)の両者がタフで真の宗教たりえます。アメリカ合衆国の猟官制(spoils system)は、1829年に就任したジャクソン米大統領(7代)によってはじめられ(612の公職のうち252)、アメリカ民主主義は、猟官制で確立したといわれています。フォーティ・ナイナー(forty-niner)の直前のことです。ウィクリフの聖書の序言(This Bible is for the government of the people, by the people, and for the people)に淵源する「人民の、人民による、人民のための政治」で有名な民主主義の権化リンカーン米大統領(16代)は、なんと1639の公職のうち1457を勝利品(スポイルズ)として分配しました。ゲティズバーグ演説は、私も十代の頃暗記しましたが、リンカーンがかくも盛大に猟官したこと、そして猟官制の奥深くにある真理は当時知るべくもありませんでした。アメリカ民主主義のタフさは猟官制にあります。

 まず確認したいのは、宗門は会社ではありません。会社であればどんなことを経営者がしてもよい。無能であれば、会社が倒産するだけです。倒産を悪く言う人が多いですが、倒産があるから社会の効率と正義が守られているのです。能力のない経営者が退場しなければ、効率の悪い会社が退場しなければ、意欲と能力のある下層で貧乏な人間が成り上がることはできません。失敗者の排除は残酷で、経営者の家族、会社従業員および家族は、大変な状況におかれます。しかし、この残酷がなければ社会の底辺にうごめいている下層民には成り上がるチャンスはないのです。経営者については、選挙という選任方法は考える余地もありません。宗門人の意識において、末寺は会社であり、宗門は、むしろ国の仕組みと同質です。選挙でトップを選ぶ時、その手足をどのように確保するか。この手足が、高級公務員(高級官僚)であり高級宗務員なのです。大統領やセクレタリー、首相や大臣、総長や総務の意思に忠実な手足がいるのです。これが、猟官制の正当性の根拠なのです。

 丁寧に説明いたしましょう。我々の家庭でも、関連する仕事(貨幣獲得のための労働、家事労働、子どもの教育)すべてを一人で行うことはできません。国や地方公共団体あるいは宗門のような大きな団体になると、なおさら一人では無理です。そして、誰が組織の意思決定を行うかという統治の正統性の問題が生じます。かって長い間、正統性の根拠は武力でした。現代では、選挙が正統性の根拠とされています。別に理屈があってではありませんが、武器が強力になり武力を正統性の根拠にしては社会の維持ができなくなったからだと思います。核兵器を使えば、自然が破壊され人間の住む場を失います。貨幣を金が支えているように、武力が民主主義を支えているのは事実でしょうが、金兌換を貫き通すことができないように、武力で社会を貫き通すことはできません。ブッシュ米大統領のように、安易に武力を使用する為政者がいますが、マインドコントロールを併用しなければ、社会は維持できません。それが、生命、自由、幸福の追求のスローガンです。しかしながら、スローガンでは、為政者を選ぶことはできません。権威と権力(武力)のブリッジが選挙です。選挙で為政者が選ばれてきますが、その手足である官僚(公務員、宗務員)は、意思どおりに動いてくれません。ヨーロッパ・中国すべて官僚で悩んでいます。リンカーン大統領は、9割近くの公職を入れ替えています。私は、猟官制度がなければ、民主主義は成り立たないと思います。議院内閣制を採るイギリスでも、高級官僚は政治任命ポストであるようです。

 猟官制(spoils system)について考察します。アメリカで、なぜ大統領選挙前の党大会が熱狂的に行われるのでしょうか。一番の理由は、応援する大統領候補が当選して大統領になった暁には、連邦政府の公職を獲得できるのです。だれだって、一生懸命になります。白人キリスト教文明は、歴史的に犯罪ばかり犯してきました。被差別グループの宗教である一神教がキリスト教であるとする岸田秀と小滝透の論は、白人キリスト教文明の犯罪を非常にうまく説明できます。マルクス主義をキリスト教の一派とする考えも、説得力があります。キリスト教を知らない日本のキリスト教徒は岸田秀の説に嫌悪感を抱くでしょうが、フックスの「風俗の歴史」を紐解くと良いでしょう。日本のキリスト教徒は実に無知でかつ事実を知ろうとしません。日本の社会主義者は、ソビエトを礼賛するばかりで、ソルジェニーティンの「イワンデニソビッチの一日」がソビエト連邦華やかであった頃、既に日本語訳が出版されていたにもかかわらず無視していました。アメリカ礼賛の激しい頃(昭和20〜30年代)、小宮隆太郎の「アメリカンライフ」で私はショックを受けました。右翼も左翼も大差ありませんでした。会田雄次の「アーロン収容所」は、中公新書創刊時に出版されましたが、大変刺激的な名著でした。これらを読むだけで開眼されます。民主主義は、白人キリスト教文明の光です。陰を知らずして光を知ることはできません。
 親鸞聖人は罪業深重と人間性を自覚されました。宗門基幹運動の闘士は、この自覚がありません。彼らは、猟官制には本能的に拒否反応するでしょう。

 話を戻します。大統領選が終了した後、新たな大統領は自分の主義主張を実現する手足がありません。本人の技量は別として、田中真紀子外務大臣が手足のなかった好例です。私は、中央官庁では局長級以上の高級官僚を政治的ポストにして猟官制の対象にすべきであると考えます。
 管直人民主党代表は、年金未納三兄弟問題で失脚しました。意図的でなく誰もが知らず知らず行ってしまう年金未納を特に問題にした管直人もバカですが、管直人が武蔵野市が間違った指導をしたと説明した時、テレビで武蔵野市の一課長が行政は絶対間違った指導をしないと断言して、管直人は窮地に陥りました(注3)。少し行政との交渉経験がある方は、公務員がいかにデタラメであるか知っているでしょう。行政は絶対間違った指導をしないと断言した課長は、責任をとって辞職しておらず、現在もおそらく武蔵野市に在職していると思います。メリトクラシーの公務員が正義とは誰が言い出したのでしょうか。まったくのウソです。公務員一家意識で、自分たちの利益ばかり考えています。戦前の職業軍人グループも同様でした。ウソから出発すると、どんな美しい理想で糊塗しても必ず崩壊します。まことを大切にされた親鸞聖人の強靭さにただただ驚くばかりです。
 地方公共団体の首長(知事や市長)が、2期以降磐石な選挙基盤を誇るのは、公務員が集票マシーンになるからです。(日本国の首相は議院内閣制ですから一般国民に直接選挙されることがありません。議員間の権力闘争が存在しうるので、首相の地位は不安定になります。明治時代以降、日本の公務員選任方法が試験であるため、薩長の情実縁故採用が消失してから、公務員の地位は非常に強化されました。皇帝と宦官のいない状元政治です。官僚養成学校である東京帝国大学卒の官僚が、政治家の権力をしのぐ力を蓄え、天皇制度に親和性が強いのが理解できます。中選挙区では、議員間の権力闘争は熾烈になります。小選挙区制では、首相の地位は強化されます。大統領制に近づきます。宗門の総長の地位は、門主の玉手箱によりバイアスがかかっていますが、中選挙区制に近いと思います。)保身と立身が一番関心事である公務員は、首長1期目は一番難しいといわれる2期目の選挙があるので、様子を見ています。2期目の選挙で落選し、反対勢力が復活するかも知れないからです。しかし、長期にわたり任命権者と対立するのは自己の昇任の可能性が失われるので8年も待つことはできません。したがって、2期目に入る首長には手の平を返したように協力します。2期以降の首長は日常的に公務員によって選挙活動をしているようなものです。保守革新を問わず2期目以降の首長が圧倒的に選挙で優位な理由です。日本の地方での猟官制の導入は微妙な問題があります。私は、日本の地方自治体の現状でも、猟官制を導入した方が良いと思います。自己の存在根拠(正統性)がないにもかかわらず、公を前面に出して公務を執行する欺瞞が日本の社会を腐らせてきました。国地方を問わず、高級公務員の仕事内容の政治性からして、高級公務員が、正統性の根拠である選挙で選出された政治家の権力者から猟官制により選任されたほうが、公務執行に透明性が生まれると思います。匿名性に守られた高級公務員が国や地方公共団体をダメにしてきました。宗門の高級宗務員についても、同様です。何度もいうようですが、ウソを前提にした制度は必ず腐ります。
 特に国の高級公務員(局長級以上)の職は、猟官制の対象にすべきです。選挙で選ばれた長の意向が速やかに行政に反映されます。これが民主主義です。労働者としての身分保障は、下級公務員に限定すれば十分です。アメリカを見れば分かるように、猟官制が採用されることになれば、在野勢力にも十分な人材が速やかに蓄積されていきます。猟官制こそが「人民による」政治です。国民は真に自分たちが政治を行っていると自覚できます。私は、猟官制のない民主主義は似非民主主義であると断言いたします。宗門で、宗務員が総局によって支配されることを悪とする謬見がありますが、高級宗務員については、総局の支配が及ばないのが不正義です。

注1)安芸教区基幹運動推進委員会同朋部会三者懇部とは、部落解放同盟広島県連合会と浄土真宗本願寺派安芸教区と同備後教区の三者で構成する差別問題に取り組む同朋三者懇の安芸教区のメンバーの集まりです。
注2)宗教法人法では、宗派と本山(本願寺)と末寺(一般寺院)は違う観念であることは十分承知していますが、日常では宗派と本山と本願寺が同一意味内容で使用されていますので、「やま」という通俗的用語法と同じように本山・本願寺を宗派の意味で使用します。
注3)菅直人の「活動日誌」
[1282] 行政の誤り 2004-05-15 (Sat)
 社会保険庁が、私の厚生大臣在任中の国民年金からの資格喪失(脱退)は間違いであることを認め、昨日(14日)の夕刻、資格喪失を取り消す決定をしました。決定の通知と厚生大臣在任中の期間国民年金の資格が継続している証明書が、武蔵野社会保険事務所長名で出されました。この期間の年金納付についても近くなんらかの回復措置がとられるはずです。

(平成16年(2004年)9月23日武田勝道記。9月27日推敲。)

民主党岡田政権500日プランは、機能しない。 (blog安芸ねっとwebry2005/08/14 00:19)


差別の告発―猟官制は民主主義の基礎・根幹である。―(blog安芸ねっとwebry2007/04/24 19:32)




小沢一郎の終身雇用・年功序列セーフティーネット説は猟官制

民主党の小沢一郎代表が、平成18年(2006年)4月10日の朝日新聞などのインタビューで「終身雇用と年功序列は、日本社会が考えたセーフティーネットの最たるものだ。非正規社員ばかり採用すると、忠誠心がなくなる。自分の会社に骨を埋める層を確保する方が、会社にとっても良い。一方で、総合職やキャリアをめざす人は身分保障をなくす。日本社会はキャリア層まで年功序列や終身雇用になっているのが問題で、そこに自由競争の原理を採り入れればいい」と述べたそうである。(asahi.com2006年04月11日10時07分)

終身雇用と年功序列について述べられており、キャリアについて身分保障の否定も具体的方法論がないので、私が主張する猟官制との本質的一致が見えにくいが、小沢一郎代表の主張は具体化させていくと猟官制に帰着する。

平成17年8月提出された人事院勧告では非常に重要な給与構造の改革がなされている。
昇給号俸数が、A(極めて良好)で8号俸以上、B(特に良好)で6号俸、C(良好)で4号俸、D(やや良好でない)で2号俸、E(良好でない)は昇給なしの5段階に分けられ、昇給なしが設けられた。務実績の給与への反映【別表第14】

この改革により、公務員の休むな働くなの弊害を追放できる。働かない方が失敗もなく給与が確実に上昇、特別昇給も持ち回り運用により骨抜き、という実態を回避するべく、四分割俸給表で勤務実績を適切に反映する差別化を図っている。日本社会で、減給というのは実施困難であろうから「昇給なし」は、公務員の給与構造の適正化と十分いえる。

キャリアの位置づけが現行のままで、小沢方式は実行できない。現在は、有学歴の上級試験合格者のキャリアも普通の一般公務員として採用されている。課長級以下で、身分保障がないというのではたまらないであろう。局長級(部長級は検討の余地がある)以上が政治ポストとして猟官制の対象になり、身分保障がなくなる。選挙の功績とか、政権与党での功績や一般社会で能力のある者(例えば大学教授や政策実現に必要な人材であると政権が認めたもの)が任命される。政治ポストは一般職の公務員からも選任されるが、事実上、現在の有学歴上級試験合格者の一般公務員(現在のキャリア)からの選任になるであろう。そのときは、キャリア組についても、もちろん終身雇用など身分保障は失う。政権が変われば失職である。

倒産のないセクターで、組織幹部の終身雇用などの身分保障は絶対してはならない。現在の公務員が腐敗しているのはここに根本的原因がある。

本願寺教団は、倒産のないセクターである。上級宗務員が腐敗するのは当然である。
(平成18年(2006年)4月16日武田勝道記。)





猟官制…個別と全体はまったく別物である。そして西本願寺の宗政のあり方。

安部晋三内閣のポストは論功行賞であり、猟官行為だとマスメディアは報じている。猟官制に対する日本の常識は否定的である。私は、猟官制のすすめを熱心に説いてきた。一言、コメントしておきたい。

民主政治は、ミクロ的に観察すれば、賄賂政治.である。集積すれば、専制政治に対する民主政治になる。専制政治とは、君主政治・独裁政治である。天皇制政治も究極的には専制政治である。我が宗門(西本願寺)の門主制も、運用次第では専制政治(宗政)である。

猟官制は、個別的に行えば、品のない買官行為であり、賄賂政治への道である。政権獲得者が組織的に行えば、官僚組織を掌握して民意を実現する民主制の完全なる機能発揮である。そして、政権交替したときは在野への人材供給である。この在野への人材供給が、成熟した民主的社会の担保である。

安部政権は、今回の組閣については評価できない。安部首相の対北朝鮮の姿勢が見るべきものがあっただけに残念である。

我が宗門(西本願寺)は、どうであろうか。大谷光真門主が、武田昭英とその対立者を戦わせるよう玉手箱にされなければ宗門の未来は暗い。ご門主は、僧侶と門徒から、手続き的には宗会から意思表示の機会を奪われるべきではない。
(平成18年(2006年)10月28日武田勝道記。)

【資料】
猟官制が宗門を変革する(スポイルズシステム) 
小沢一郎の終身雇用・年功序列セーフティーネット説は、猟官制である





人権ごっこ

以下の文章は、昨年の僧侶研修後書いたが公表を躊躇していた。今年(平成19年)の僧侶研修会は、12月20日にある。今年の教区よりの出向者は、菅瀬融爾(教蓮寺・沼田組)さんである。別院の斉藤英明さんの名前は、資料に見当たらない。先日、ある懇親会で彼に会った。確認すると出席すると返事をしていた。何であの案内状を差別文書としたのかと問うと、彼一人が別の意見を言うのは難しいと答えた。彼はなかなか誠実な男であるが、日本では一人ひとりが自分の考えを持ち、一人ひとりが自分の考えを表出するのは困難な社会であるということか。差別問題ではなおさらなのであろう。宗門の基幹運動のような場で、言葉狩りをする愚をおかしてはならない。権力側にたつ人間が、自己を隠して摘発する全体主義・社会主義を許してはならない。
末尾の「僧侶研修会のやり方に対する提案」は、有効と思う。今年は、私が議事進行のようだから、発言が制約されるかもしれない。1年遅れであるが、公表する機会を失うことになるので、今アップすることにした。(平成19年(2007年)12月16日)

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平成18年(2006)度の広陵東組僧侶研修会は、平成18年12月19日午後4:00〜午後6:00、広島別院で行われた。教区よりの出向者は、城山大賢(報正寺・山県太田組)、藤井聡之(教雲寺・沼田組)、斉藤英明(教区相談員)が予定されていたが、当日になり城山大賢が欠席し代わって菅瀬融爾(教蓮寺・沼田組)が出席した。


【差別問題研修会の実態】

上園恵水前組長は、他組主催のゴルフ大会に、平成18年12月19日の広陵東組僧侶研修会を欠席して参加した。
また、前組長は、同日夜の懇親会に参加し、岸田秀先生僧侶研修会案内状「差別」文書事件(平成15年(2003年)3月12日)について、「まだやっているのか」と発言した。
僧侶研修会を指導しているのは、教区同朋三者懇(部長沖和史)のようであるが、僧侶研修会や差別問題の扱われ方のこのような現実を知っているのであろうか。
基幹運動の闘士の奮闘の結果がこれである。前組長を非難する前に、この現実は彼らが余りにも人間の実相に無知であることを反省しなければならない。沖和史安芸教区同朋三者懇部長の私への書簡を改めて読み返してもらいたい。彼は現実を全く知らない。また、知ろうともしない。
 「上園(上園恵水)さん、日下(日下正実)さんは存じ上げておりませんし、お二人が組内でどのような行動をしていらっしゃるのか存じ上げる立場にありません。したがってお二人の行動は私のとる態度と今は関連するところがありませんし、日下さんが池谷所長の部下であったというお話が去年度に起きたこの件とどのようなかかわりがあるのか、残念ながら理解致しかねます。」(沖和史書簡平成15年(2003年)10月9日)
 ある人物Aと他のBに接点があることが重要であることは常識である。裁判でも公益法人でも株式会社ですら特別の関係の排除が重視される。上司と部下や使用者と雇われ人の関係あるいは親族関係が特殊関係の代表例であることは常識である。愛人関係は微妙である。このような常識を欠く基幹運動の関係者が「信心の社会性」を主張するからブラックジョークであり赤子の手をねじるように真宗僧侶が利用され裏で嘲笑されるのである。
 日下正実(旧姓藤井)氏が問題発生時の副組長であり、上園恵水組長(当時)を補佐する副組長のうちただ一人被差別部落に対する差別文書だと発言した人物であり、池谷亮真氏は教区責任者の輪番(教務所長)である。私は案内状を書いた事実や案内状の文章の改ざんを争っているのではない。安芸教区輪番(教務所長)(中山知見氏と後任池谷亮真氏)と三者懇部長の沖和史氏と「案内状」が差別文書か否かの評価を争っているのである。池谷亮真氏は当事者なのである。権力者として差別の判定を行う立場です。案内状が差別文書でなければ(差別と判定されなければ)糾弾対象にはならない。その判定者池谷亮真氏と日下正実氏の関係が「去年度」に行為が完了している本差別事件とは関係ないというのが沖和史氏の論法なのであろうが、差別か否かを権力者として判定者する池谷亮真氏と上園恵水氏にただ迎合する日下正実氏の関係が「どのようなかかわりがあるのか、残念ながら理解致しかねます。」という沖和史氏の理解は幼稚としか形容の言葉を知らない。しかも沖和史氏は、三者懇部長という権力者なのである。
 宗門は偽善のお面(仮面)ばかりである。きれいごと発言の「人権ごっこ」というべきか。形骸化した信心があふれる宗門の現在の姿か。



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【差別を思考停止から救う】

差別問題を取り上げるとき、特に糾弾する側は、社会の現実・状況を十分認識すべきである。「差別」という言葉を聞いただけで、思考停止に陥っているのが僧侶の現実である。「差別」という言葉を気安く使える環境にしなければならない。差別には垂直的、区別には水平的イメージがあり、垂直的イメージのある「差別」が価値的に負とされたのであろう。商品戦略に「商品の差別化」という用語があるが、他社製品より垂直的に勝るという意味であり、普通に使用されるテクニカルタームであるが、昔から使用するたびに差別問題で取り上げられないのを不思議に思っていた。私は、差別も区別も基本的に違いはないと考えている。「差別」「区別」の間にラインを引くから思考停止に陥る。相手により早く差別のレッテルを貼るチャンスばかりうかがっている。「差別」の中にラインを引いて、「許される差別(なされなければならない差別)」と「許されない差別」にカテゴライズするのが、実質的論議をもたらし、「差別」という言葉も拒絶反応を導かなくなると考える。
 運動論としても、僧侶及び僧侶社会は体質的に空想的自慰的偽善的反差別運動に陥るので、それを防止するため僧侶は「一人雇用運動」を実践すべきであると提案した。教区よりの出向者藤井聡之は頷いていたが、首肯なのか機械的反応なのか分からない。彼が同意したのであれば、実践してもらいたい。現在のような僧侶研修に時間を浪費するより生産的である。


【僧侶研修会のやり方に対する提案……研修のたこつぼ化から脱却すべきである】

 差別問題についての僧侶研修会をメンバーが比較的少人数でお互い熟知している組単位でいつも蛸壺的に行うことは、徒党を組むのが習性である僧侶であることを勘案すれば、僧侶研修会のこれまでのやり方の繰り返しは適切なものとは思われない。
 試みとして、自己の所属する組の研修会の出席を条件に、他組の僧侶研修会への参加を認めることを提案したい。前日までに参加申込をさせ、発言を認めるか否かは、受け入れ組に任せればよい。オブザーバー参加であっても、参加者も受け入れ組も得るものが大きいであろう。親戚ネットワークを基軸とする真宗僧侶社会で、お互いを直接認知する機会を普段確保することは、陰湿な中傷を無化し、人材発掘に寄与するであろう。
 このような交流を盛んにすることは、教区全体が活性化するであろう。付随効用として、井の中の蛙状態を原因とする破廉恥漢のボスの発現を防止することができる。安芸教区は、広陵東組から僧侶の閉塞的人間関係が開放されたが、より一層自由で生産的な発言のできる僧侶社会になる。


出席者:中川英尚(浄光寺)、長門義碩(海宝寺)、長門義城(海宝寺)、乗元善昭(善教寺)、乗元明雄(善教寺)、高松秀峰(西向寺)、松尾淳成(専立寺)、井上正晃(正光寺)、潤居秀顕(順教寺)、法山総貫(妙蓮寺)、武田勝道(教西寺)、武田秀道(誓立寺)、大石義行(勝順寺)、三光清子(三光寺)、友国義信(善徳寺)、田中晃敬(進徳寺)、岡部哲信(報徳寺)、古川知行(善通寺)、亀山倫昭(正覚寺)、碓井真行(光明寺)、久保田孝誓(報恩寺)、久保田晃裕(報恩寺)





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