山陽遺稿集。概容・目録

山陽は8・9歳から専ら国字本古今軍記を読み寝食を忘れる,句読を受けて昼夜怠らず,嘗って眼を患うと,父は固く此れを禁じたが陰かに読んで止まず,年14・5にして家業を受け小学近思録・皆な誦習する。幽居中享和二年,日本外史の初稿を著す,三年檻居を免ぜられる,年24歳。

春水は山陽を菅茶山に託す。文化七年備後に遊び,明年京都に遊び遂に此こに止まり帷を新町に下す。文化十年美濃に遊び大垣に江馬蘭齊を訪い其の養女,細香を知る。11年広島に帰る。12年小石元瑞の養女,梨枝子を娶り居を二条に移す。

文政元年二月春水の大祥忌に広島に帰省し喪除いて遂に鎮西に遊び豊筑から肥後に入り長崎に留まること2月余り,博多では亀井昭陽を訪い,佐賀では草場佩川と会飲している。

父,春水の死の以後,生前,孝養を欠いたことを悔い,これより誠心母に孝行を尽した。やがて山陽の名声も次第い高まり門人も増えて,漸く地歩を占めることが出来た。山陽既に客寓し家を治めて儉素,妄りに一銭を費さず,然し其の母を迎えるや有無を問わず務めて歓心を受ける。

六年,家を三本木に移す。文政十年,老中松平定信に『日本外史』を献じ,一躍にして天下の名士・文豪と称されに至った。天保三年六月咳嗽を発し血を吐く。医者は治療専念し,治すべきと言う。山陽は『死生命あり,然し私には老母があり又,志業未だ成らず』と答えた。

秋に及んで疾,益々悪化する,然し客が來ると宴席を設けて談笑自若たり。眼鏡を着け「政記」を手に刪正を止めず,忽ち左右を顧みて曰く,『暫く喧ぐ勿れ,我れ仮眠す。』筆を擱め眼鏡を着けたまま暝る。天保3年9月23日没。享年53歳。

山陽遺稿は山陽没後,門人の手によって編纂されたもので,文集十巻。詩集七巻。などから成っている。山陽の詩は天明8年9歳の時から没年天保3年に至る45年間に約2千首ある。其の中から文政8年までの1200首から661首を自ら選んで山陽詩鈔と命じた。

参考資料
大日本人名辞書。講談社
山陽遺稿詩注釈。伊藤靄谿

 目次

山陽遺稿集・目次
     山陽遺稿詩集   1     山陽遺稿詩集   2
  観梅翌日     題介石翁絶筆画松竹
  十三夜   十五夜草堂小集  
  中秋前連夜無月     細川頼之
  今津某氏園栽牡丹・索詩   或獲方広寺瓦用為燈篭  
  寒 拾   嵐 山 
  荘子夢蝶   絶句二首 (一) 
  詩佛老人竹   上 隴
  遂奉遊芳野   除 日
  修史偶題十一首(一)    発広島 
  修史偶題十一首(二)    翌暁作
  十二媛絶句・ 紫式部   銀閣
  十二媛絶句・ 清少納言   奉母遊厳島開余生甫二歳二親
  十二媛絶句・ 鞆絵    別 母
  冑 山  歌    路上所懐
  桂川所見   重 陽
  題成画露根蘭    与星巌話別
  題八幡太郎過勿來関図   雨窓與細香話別
  論 詩 (二十七首之一)   咏史絶句十五首(一)
  論 詩 (二十七首之二)    咏史絶句十五首(二)
  戊 子 (築室三之一)    咏史絶句十五首(三)
  雑 詩   咏史絶句十五首(四)
  楊貴妃教鸚鵡図   重陽
  再観梅伏水    喜小竹來問疾
  梁伯兎帰濃過京留之数日   望彦根懐舜卿 
  秋仲同春琴春村遊嵯峨宿三家店   用茶翁旧題詩韻 
  茶 ニ首 (一)   到家     
  席上内子作蘭。戯題贈士謙   與敬所翁話別 ニ首 (一)  
  哭 妹    與敬所翁話別 ニ首 (ニ) 
  今津某氏園栽牡丹 索詩   堅田 
  酔杜圖    舟中作  
  荘子夢蝶    瑞香  
  画山水     読王荊公傅
  詩僧希鈍周忌詣其墓     読山中鹿介
  元旦六言      松
  詠史     過廉塾。先生嘗寄余詩

                thhp://www.ccv.ne.jp/home/tohou/sanyou5.htm 
                                      石九鼎の漢詩舘
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