![]() ★ 星巌詩集 ★ 梁川星巌(1789〜1858)江戸時代末期の詩人・勤皇家。美濃(岐阜県)の人。名は孟緯,字は公図,通称,新十郎,星巌と号した。幼より俊敏,19歳で江戸い遊学,古賀精里・山本北山の学んで帰郷,忽ち,才名をうたわれた。1810年再び北山の門に入り,17年帰郷し,読書と作詩の研鑚の傍ら,生徒に教授した。 文政二年(1819),頼山陽と相知り意気投合した。1820年女流詩人の紅蘭と結婚。5年,夫妻で諸国の旅に上ること20年,世人これを称して『駱駝行』という。江戸に出て,神田お玉が池に<玉池吟社>を設立し,名声をほしいままにし,師名天下に鳴った。1846年京都に移り,悠悠余生を送る。 安政元年(1854),井伊直弼が和親条約に調印したころから勤王の志士と往来し,画策するところがあった。由って慷慨の詩を多く作った。詩風は屡々変わり,初めは北山の門下で宋詩にふけり,後に唐詩を好み,清詩も窺い,《性霊》を主とし《格調》を併せ持つ独特のもので,頼山陽の文と共に天下の双璧と仰がれた。 安政五年は有名な「安政の大獄」である,6月18日は星巌の70歳の誕生日であったが,祝いの言葉は受けなかった。20日井伊直弼は勅許が得られないまま「日米修交条約」に調印した。7月14日西郷隆盛と頼三樹三郎が尋ねて来て,星巌は国事を談じている。密勅降下運動に尽力を尽す。 9月2日星巌は激しい腹痛に会い,急激に衰弱して脱水症状に陥る。心を許した同志,頼三樹三郎,医術の心得のある江馬天江にも支えられて正座して死んだと言う。星巌死後三日目に勤王の志士達が一網打尽にされる「安政の大獄」が起きた。世人は「死上手(詩上手)」と噂したと言う。 大沼枕山・遠山雲如・小野湖山・森春涛・岡本黄石・鱸松塘・江馬天江。皆なその門下である。安政5年9月4日,没,享年70歳。詩集には《星巌集》32巻,《星巌先生遺稿》15巻,今・テキストは『星巌集註』(秩入り・甲・乙・丙・丁・八冊。)を使用。 参考資料 星巌詩集註 大日本人名辞書・講談社 世界大百科事典・平凡社 梁川星巌・紅蘭・淡交社 ★ 梁川星巌詩集目録 ★
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